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第九話 泣き続ける底

「ああ。お久しぶりです、巡礼のみなさん。……そして、お目にかかれて光栄です、悲哀の女王」


哭塔の暗層は、蒼く沈んでいた。

壁の継ぎ目を這う灯りは冷たいのに、その中央にだけ、金とも橙ともつかない軽い色が浮いている。


悲しみの底にあるには、あまりにも明るい。

あまりにも楽しげだった。


セラフィオは、その色の真ん中に立っていた。

白い衣は汚れひとつなく、足元の蒼だけが彼を避けて薄く揺れる。


喉の奥へ、嫌な熱が戻ってくる。

けれど、ここで怯んではいけない。


ミラはまだ立っている。

上へ伸びた糸を、半拍でも押し返したのはあの人だ。

ノアが待っていると知っているかぎり、ミラはまだ王でいられる。


なら先に落とすべきは、この国そのものじゃない。

悲しみの上へ“終わってもいい”という形だけを噛ませている、外圧の中心だ。


セラフィオを落とせば、まだ戻せる。


少なくとも、イリスにはそう見えた。


「……アッシュ。先に、セラフィオを落とします」


「了解」


アッシュが半拍ぶん前へ出る。


ミラの顔から、さっと血の気が引いた。

怒るより先に、冷えた。

その反応だけで分かる。


この男は、ただの侵入者じゃない。


ミラの声は低かった。


「……そこは、あなたが立っていい場所ではありません」


セラフィオは、ひどくやわらかく笑った。


「ええ。だから来たんです」


次の拍で、アッシュが消えた。


黒い断ちが、セラフィオの喉元へまっすぐ走る。

だが、セラフィオは受けない。

避けるというより、踏み出す先を、半歩ずつずらしていく。


誘っている。


イリスが気づいたときには遅かった。


黒は白い衣の端を裂き、そのまま背後の石壁へ深く食い込み、次の一撃は、セラフィオがわざと背を寄せた細い支柱ごと斜めに断った。


重い音が鳴る。


蒼いひびが、床から壁へ、壁から天井へ走る。


「アッシュ、止めて――」


言い切るより早く、崩れた。


壁の一角が鈍く沈み、内側を隠していた石が割れて落ちる。

その奥から、別の暗さが口を開けた。


白い布の端が、かすかに揺れた。

どこかで浅い水が鳴る。


泣いたあとの目元みたいに、胸の内側だけをひりつかせる空気が、崩れた隙間からいっせいに流れ出てくる。


さらにその奥で、人影が揺れた。


「ほら」


セラフィオが、壊れた壁の前で半歩だけ退く。


「女王陛下が、いちばん見せたくなかった場所ですよ」


「……やめて」


ミラの声は、ほとんど反射だった。

怒りではない。

触れるな、に近い。


「待って。距離だけ保って」


「了解」


アッシュは追撃を止めない。

ただ、斬り込む角度だけを変えた。

いつでも動ける間合いを残したまま、セラフィオと崩れた奥、その両方を見張る位置へ滑る。


イリスは割れた暗がりを見た。


布。

水音。

人影。


それだけで、胸の奥が冷たく縮む。


「……ここは」


ミラが崩れた壁の縁で立ち止まる。

指先が、見えるほど強く震えていた。


「この先は……」


それだけ言って、口を噤む。


セラフィオが小さく笑う。


「ねえ。そういう顔をされると、余計に見たくなるでしょう?」


嫌な言い方だった。

人の傷口を指先でなぞって、その痛み方で正解を確かめるみたいな笑い方。


イリスの喉がひりつく。


ミラは何かを知っている。

しかも、それはいまこの場でいちばん触れられたくない種類の真実だ。


それでも、もう目は逸らせなかった。


黒い断ちが、また走る。


セラフィオは白布の揺れる暗がりへ半歩、また半歩と退く。

逃げているようで、追わせている。


イリスも反射で崩れた縁を越える。

ルーファの風がその背を追い、ミラだけが一拍遅れて足を踏み出した。


数歩で、空気の重さが変わる。

呼吸をするたび、誰かが泣いたあとの熱だけが胸の内側へ残る。


足元の石には浅い溝が走っていた。

水の跡ではない。

何度も何度も、同じ場所へ何かが落ち続けた痕だ。


涙だ、とイリスは思った。


追い込まれるように視界が開ける。


そこは広間だった。


天井から幾重にも白布が垂れ、床には浅い水鉢がいくつも置かれ、壁際には名を書いた木片が束ねられている。


一目で分かる。


ここは誰かの悲しみを捨てる場所じゃない。

置く場所だ。


忘れずに、持ちきれない分だけ預けるための場所。


けれど、その中心にいる人影を見た瞬間、イリスは息を呑んだ。


ひとりではない。


老いた女。

若い母親。

片腕を吊った青年。

ノアより少し年上に見える少女。


四人が、等間隔に座っていた。


泣いている。

声はない。

ただ、止まらない。


木片へ触れ、水へ指を浸し、胸の前で手を合わせる。

そのたびに涙が落ちる。


そして、その涙が水鉢へ触れるたび、広間の外縁で膝をついていた誰かの肩が、ほんの少しだけ軽くなる。


喪服の女が息をつける。

子を抱えた男が背を伸ばす。

泣いていた老人が、次の名を読むだけの余力を取り戻す。


誰も四人へ泣きやめとは言わない。

むしろ頭を下げる。


ありがとう、と囁く。


感謝しかない。


それなのに、イリスの胸は、冷たく締まった。


痛みを沈めて、国を保つ。


救いの形をしている。


私が塔でしてきたことと、どこが違う。


「……何ですか、ここ」


問いは、ほとんど独り言だった。


ミラは答えない。

答えないかわりに、目だけがわずかに伏せられる。

その沈黙が、もう半分答えだった。


「ようこそ」


セラフィオが広間の縁でくるりと振り返る。

追われてきたはずなのに、もう彼の方が先にこの場所の主みたいに立っていた。


その声はやわらかいのに、底だけが冷えていた。


「女王陛下が見ないふりをしてきた、この国のほんとうの底へ」


黒い断ちが彼の頬を掠める。

セラフィオは笑ったまま首を傾け、そのまま広間を見渡した。


「きれいでしょう?」


イリスは振り向かない。


「……何がですか」


「悲しみが、ちゃんと役に立ってる」


老女の涙がひとつ落ちる。

水面に広がった蒼が、今度は床を渡って白布へ移る。


青年の涙が次に落ちる。

別の水鉢が鳴り、壁の蒼い拍が半拍だけ静まる。


アッシュが短く言った。


「沈みの受け皿」


もう一拍置いて、


「共同体維持機能」


残酷なくらい正確だった。


ルーファが、細く息を吸う。


「……ちがう」


風が、彼女の足元からそっと広がる。

白布へ。

水鉢へ。

泣き続ける四人の肩へ。


切らずに、ただ形だけを撫でる風。


「それは、分け合うことじゃない」


その言葉が、広間の蒼を一瞬だけ揺らした。


イリスの手の中で杖が熱を返す。

均せる。

この場の過剰だけなら落とせる。


けれど白を走らせた瞬間、ここで支え合ってきた形まで崩れるかもしれない。


楽にはなる。

でも、それは返したことになるのか。


セラフィオがまた半歩退く。

黒がその足元を削る。


「あなたたち、まだ優しい勘違いをしている」


アッシュの視線がすぐ戻る。


「何を」


セラフィオは保管室のある方角へ視線を向けた。


「私を落としても、この国は泣きやみませんよ」


その一言と同時に、水鉢のひとつが高く鳴った。


イリスの肩が強張る。


見透かされた。


セラフィオは責める口調ではなかった。

むしろ、答えを知っている神父みたいにやさしい。


「私は後から触っただけです」


黒い断ちが、今度は白布の際を走る。

セラフィオは身を翻しながら、さらに短く刺した。


「ここ、必要だったんですよ」


若い母親の肩がびくりと震える。


「だって――」


次の一歩をかわしながら、彼は笑う。


「あの子は、入れなかったでしょう?」


広間の空気が、目に見えないところで軋んだ。

ミラの指先が震えた。


セラフィオはもう止まらない。


「だから誰かが、ここで泣くしかなかった」


老女の涙が、ひと粒ではなく、二つ、三つと続けて落ちた。

イリスの心臓が強く鳴った。


「女王陛下は、ノアをここへ入れなかった」


「やめて」


ミラの声は低かった。

まだ静かだ。

けれど、その静けさは保っているだけのものだった。


セラフィオは笑うのをやめない。


「だって可哀想だったから」


黒が彼の袖を裂く。

それでも声だけは乱れない。


「泣かされる側にも、泣き続ける側にも、したくなかった」


ルーファが、やっとミラを見た。

責める目ではなかった。


「守ったんだね」


ミラの唇がわずかに開く。

しばらく何も言えなかった。

でも、言わなければこの場はもう進まないと知っている顔だった。


「……はい」


それだけで十分だった。


イリスには見えなかった流れが、見える形を取る。


泣き続ける四人の涙から、水鉢へ。

水鉢から白布へ。

白布から壁の蒼へ。

蒼からまた、泣いた誰かの背中へ。


その輪の中で、一箇所だけ、ぽっかり抜けている場所がある。


誰の涙も通っていない。

誰の悲しみもまだ乗っていない。


白い空席。


ノアの形だった。


アッシュが上を見たまま言う。


「一箇所だけ循環の外」


イリスの喉が詰まる。


ノアは泣けない子だと思っていた。


違う。


泣けないだけじゃない。

泣く輪から、守るために外されていた。


ひとりを守るために、誰かが受ける。

誰かを沈めて、全体を保つ。


私なら違ったと言えるのか。


言えないまま、白だけを振るってきたんじゃないのか。


ミラはノアを守った。


けれど、その穴を埋めるように、この場所へ過剰な悲しみが沈み、固定されていた。

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