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第十話 泣き続ける底②

老女が、ふいに顔を上げた。


涙で濡れた目は濁っていない。

むしろ澄みすぎていて痛いほどだった。


その視線が上を向く。


「……まだ、来ていない子がいる」


ミラがほとんど反射で前へ出る。


「あの子に触れないで!」


命令ではなかった。

祈りに近い声だった。


だが、その一言へ広間じゅうの蒼がびくりと反応する。

止められていたものが、自分の止まり方を意識してしまったみたいに。


セラフィオが、そこで初めて泣き続ける四人の方へ歩いた。


アッシュの黒が横から走る。

床を裂き、退路を断ち、けれどあと半歩だけ届かない。


セラフィオはその半歩ぶんだけ笑っていた。


彼は老女の前へしゃがみこみ、目線を合わせる。

白い手袋の指先が、水鉢の縁へそっと触れる。


「あなたたちは、よくやっています」


その一言が、刃より深く入った。


老女の肩が揺れる。

青年の顎が震える。

少女が唇を噛む。


それは、誰よりもこの人たちが自分へ言ってほしかった言葉だったから。


セラフィオはひどくやさしい声で続ける。


「本当に、よくやった」


若い母親の涙が急に増えた。

ひと粒ずつではない。

堰を切ったみたいに落ち始める。


アッシュが踏み込む。

黒がセラフィオの肩先を裂く。


けれど、その次の言葉の方が速かった。


「だから――もう、笑ってもいいでしょう?」


四つの水鉢が、同時に鳴った。


白布の端がいっせいに濡れ色を深める。

広間の外縁で軽くなっていた人々が、初めて怯えた顔で息を呑む。


彼らは何もしていない。

ただ、軽くなりたいと願っただけだ。


ほんの一瞬、泣かなくて済む顔になれたらと願っただけだ。


その一瞬へ、セラフィオの橙が薄く噛んだ。


ルーファの風鈴が、今度ははっきり鳴る。


「だめ」


やわらかいのに、芯だけは強かった。


「笑わせるために、泣きを奪うのは違う」


セラフィオは笑顔のまま首を傾げる。


「でも苦しいんですよ?」


「うん」


ルーファは頷く。


「だから一緒にいる」


「それでは終わらない」


「終わりを急がせるために、寄り添うんじゃない」


風が広がる。

泣き続ける四人の肩へ。

水鉢へ。

白布へ。

蒼の糸へ。


その風はさっきよりさらに細く、さらにやさしく、けれど今度ははっきりと、境目だけを撫でていく。


広間の蒼が、目に見えて軋んだ。


壁の蒼が糸になり、上を向く。


イリスは反射で杖を上げた。

だが、すぐには打ち込めない。


何を断つ。

悲しみ全部か。

この広間そのものか。

噛んだ橙だけか。


迷った、その半拍で、糸がさらに増える。


アッシュが前へ出た。


「上層接続、増大」


「アッシュ、上へ。止め切るんじゃなく、遅らせて」


「了解」


黒は今度、敵を斬るためではなく、上へ向かう流れの節目だけを削った。


糸の束がまっすぐ昇れず、縦穴の途中でわずかにたわむ。


ルーファがすぐに風を差し込む。


「こっち。少しだけ、こっち」


風は切らない。

水鉢から立つ蒼を、白布の側へ、床の側へ、ほんの少しだけ逸らしていく。


イリスはその場へ膝をついた。

杖の石突きを床へ当てる。


切るためじゃない。

聴くために。


「――聴け、世界」


白を広げない。

水面の奥に噛んだ橙だけを探る。


「奪わない。消さない。折らない」


細い白が水鉢の縁をなぞる。

糸そのものではなく、水面へ混じった甘さだけが薄く剥がれていく。


けれど遅い。

剥がしたそばから、別の水鉢で橙が瞬く。


青年が胸を押さえる。


少女が初めて、泣きながら小さく言う。


「……こわい」


その一言が、広間の底に落ちた。


悲しみだけを受けていたはずの場所で、最後に顔を出したのは恐怖だった。


ミラの顔色が変わる。

セラフィオは視線だけでそれを肯定した。


言葉はいらない。

もう十分だった。


蒼が逆流する。


本来なら下へ沈むはずの悲しみが、上へ吸い上がる。

泣き続ける四人の頬から、水鉢から、白布から、外縁で膝をついていた人々の目から。


誰のものでもなくなりかけた痛みが、空いている場所へ向かって殺到していく。


ミラの声が裂ける。


「ノア!」


その名に、広間じゅうの水音が応えた。


セラフィオが一歩だけ退く。


「ここからが、本番です」


イリスはもう迷っていられなかった。


「アッシュ、上へ! ルーファ、流れを散らして! ミラ、ノアのところへ!」


アッシュが即座に跳ぶ。

黒は床を裂かず、上へ向かういちばん細い糸だけを追って走る。


ルーファの風が広間いっぱいに広がり、真っ直ぐ上へ行こうとする流れを少しでも散らす。


ミラはもう王ではなかった。


ただ、娘の名だけで動く母の速さで駆ける。


イリスは床へ杖を押し当てたまま、最後に残った橙だけを追う。


全部じゃない。

全部を消したら、この場にいる人たちの悲しみまで落ちる。


白が細く走る。

水面に噛んだ甘さだけを薄く剥がす。


だが、いちばん細い糸がもう上で噛み合い始めていた。


セラフィオは追わない。


ただ見送る。


舞台の幕を上げた人の顔で。



保管室は静かだった。


ノアは小さな椅子に座ったまま、膝の上で肩掛けの端を握っている。


待つ、と言った。

ちゃんと戻る、とミラも言った。


だから待てると思っていた。


胸の奥が、ふいに重くなる。


痛い、ではない。

冷たい、でもない。


知らない誰かの息が、いきなり自分の中で詰まったみたいな重さだった。


ノアはゆっくり顔を上げる。


部屋の水鉢が鳴っていた。


ぽつり、ではない。


ぱた、ぱた、ぱた、と、泣いているはずのない水が勝手に落ち続けている。


「……え」


喉がひきつる。


次の瞬間、何人分あるのかも分からない悲しみが、胸の空いていた場所へいっせいに触れた。


知らないはずの別れが痛い。

知らないはずの名前が苦しい。

知らないはずの誰かの嗚咽が、すぐ耳元で割れる。


ノアは椅子から転げるみたいに立ち上がる。


声を出そうとして、出せない。


泣けないはずの目だけが熱い。


扉の向こうから、誰かが自分を呼んだ気がした。


でもそれより近くで、もっとやさしい声がする。


もう、笑っていいよ。


その声は、怖いほど救いに似ていた。

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