第八話 底に潜むもの②
「まだ来る」
アッシュが低く言う。
扉の向こうは、もう見えていた。
石の通路が、その先で縦穴みたいに落ちている。
壁一面に布包みが打ちつけられていた。
古いものも、新しいものも、全部そこへ吸われるように並んでいる。
しかも奥ほど、結び目が固い。
返すための結びではない。
閉じるための固さだ。
その最下層から、蒼と甘さが一緒に脈打っていた。
そして甘さの拍の奥で、ひどく明るい何かが笑うみたいに弾んでいる。
ミラが肩で息をする。
「……あそこです」
息を整える間もない。
縦穴の奥で、何かが大きく脈打った。
次の瞬間、壁の布包みがいくつも同時に裂ける。
悲しみが噴き出したのではない。
裂け目から、細い甘い糸が逆流してきた。
蒼を外へ押し出すのではなく、内側へさらに締めるように。
結び目が一斉にきしむ。
それは泣き声に近かった。
イリスの喉が焼ける。
「あれ……返させないつもりです」
「閉じてる」
アッシュの声音がいつもより低い。
「終わらせないために」
ミラの瞳が縦穴の奥へ吸い寄せられる。
「下へ行きます」
「待って」
ルーファが先に手を伸ばした。
その瞬間、縦穴の壁から一本の糸が跳ねる。
細い。
速い。
まっすぐ上へ向かう。
保管室のある方角だった。
ミラの顔色が変わった。
「あの子……!」
行きかけた背へ、横から別の糸が絡む。
甘い匂いが濃くなる。
ノアの声に似たものが、今度ははっきり囁いた。
――いかないで。
ミラの足が、ほんのわずかに止まる。
その半拍が、唯一の揺らぎだった。
縦穴の底から、いままでよりひと回り大きい悲しみの塊がせり上がる。
人の形に見えるのに、輪郭が安定しない。
何人分もの肩と腕と、泣き終われなかった背中が、ひとつへ無理に縛られている。
その中央だけが、やわらかく甘い。
悲しみの底にあるのに、そこだけ祝祭みたいに軽い。
まるで触れれば楽になれると誘うように、薄く明るんで見えた。
「見るな!」
アッシュの声が落ちるより早く、イリスの足元が滑る。
床ではなかった。
悲しみの拍が、石の上から意味だけを奪っていた。
踏んだはずの場所が、半拍遅れて沈む。
身体が前へ投げ出される。
次に来ると分かったのは、あの縛られた塊の中心だった。
甘い。
やわらかい。
その奥で、楽しげに弾む拍がある。
触れたら終わる。
横から黒い衝撃が入った。
アッシュが腕一本でイリスを弾き飛ばす。
代わりに自分が中央へ半身を入れる。
甘い光が両腕の黒へ絡みついた。
黒が鈍る。
初めて見る種類の濁り方だった。
アッシュの眉が、ほんのわずかに寄る。
「……重い」
「アッシュ!」
イリスは石床に手をついて起き上がる。
甘い光は、壊そうとしていない。
優しく閉じようとしている。
だから厄介だった。
断ちの拍が、正面から噛み合わない。
ミラが一歩前へ出る。
けれど彼女が踏み込んだ瞬間、上へ伸びた糸がまた震えた。
保管室へ向かう。
ノアの待つ方へ。
その揺れを見るだけで、ミラの足がさらに重くなる。
イリスは歯を食いしばった。
守る場所がある人は強い。
でも、その場所を人質に取られた瞬間、誰よりも脆くなる。
胸の奥で、銀輪が小さく熱を返す。
「ミラ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ミラが振り向く。
「上は、まだ届かせません! あなたは止めてください。ここで溢れたら、上まで行く!」
ルーファがすぐに乗る。
「うん。上へ行く風は、わたしがずらす!」
ミラの瞳が、そこでようやく定まる。
「……分かりました」
次の拍で、彼女は両手を重ねたまま前へ出た。
哭塔じゅうの水音が一斉に鳴る。
縦穴から吹き上がる蒼が、王の拍に押し返される。
さっきまでの受け止め方ではない。
王として、この塔の悲哀そのものへ命じる強さだった。
上へ伸びていた糸が、そこで半拍ぶんだけ止まる。
イリスは頷いた。
「アッシュ、核だけ切って!」
白杖を両手で握る。
「――聴け、世界」
今度は白い輪を広げない。
一点へ細く絞る。
縛られた塊の中心、もっともやわらかく、もっとも気味の悪い甘さだけを見据える。
「奪わない。消さない。折らない」
白が走る。
甘い核へ、針みたいに刺さる。
塊が悲鳴を上げた。
声ではない。
何十人分もの、終われなかった息が同時にほどける音だった。
「いま!」
アッシュの黒い断ちが、真横から走る。
今度は噛んだ。
甘い核だけが裂ける。
裂け目から、蒼がどっと溢れた。
ルーファの風が両腕みたいに広がる。
「帰って」
やわらかな命令だった。
溢れた蒼が、上へではなく、床の水鉢と壁の布包みへ散る。
返せるものは返る。
まだ返れないものは、その場でだけ沈む。
完全じゃない。
でも、暴走は止まった。
縛られた塊が崩れる。
崩れながら、なお一本だけ、甘い糸が上へ逃げた。
速い。
イリスの白い輪より速く、ルーファの風より細い。
だが、ミラがいた。
彼女は追わない。
その場で両手を重ね、短く息を呑む。
次の拍で、哭塔じゅうの水音が一斉に鳴った。
上へ逃げた糸が、途中で見えない壁へ叩きつけられる。
保管室へ至る前に、蒼い霧へほどけた。
ミラの膝が揺れる。
イリスの心臓が跳ねた。
いまの一拍で、この人はたぶん国ひとつぶんの悲しみを押し返した。
「まだ……」
ミラが息を乱す。
「終わっていません」
縦穴の底がさらに開く。
底だと思っていた場所の下に、もうひとつ暗い層が口を開けていた。
そこから吹き上がるのは、蒼い重さと甘い外圧。
そして、まだ壊しきれていないいくつもの固い結び目。
アッシュが腕の黒を立て直す。
ルーファは風鈴を握ったまま、肩で息をする。
イリスは白杖を構え直した。
喉の奥は焼けたままだ。
怖くないわけじゃない。
でも、戻る場所がある。
あの子が待っている。
その事実が、甘い偽物とは違う重さで胸に残っていた。
ミラが前を向く。
さっきまでの母のやわらかさを、今度は消さずに背へ通している。
「下まで行きます」
声は揺れていなかった。
「今度こそ、ここで止めます」
イリスが一歩踏み込む。
「アッシュ、前。ルーファ、左をお願いします」
アッシュが半拍ぶん前へ出る。
ルーファがその後ろへ並ぶ。
ミラも、今度は迷わず縦穴を見据えた。
石の縁が崩れ、下層から吹き上がった蒼と甘さが四人の髪と布を打つ。
その奥で、まだ見ぬものが大きく脈打つ。
次の瞬間、暗層の底で、蒼には似つかわしくない明るい光がふっと灯った。
金とも橙ともつかない、笑い声みたいに軽い色だった。
「あは。やっと、ここまで来てくれた」
場違いなやわらかさが、哭塔の底で弾む。
悲しみの上へ、歓びを真似た拍が薄く重なる。
「みなさん、幸せですか?」
ミラの顔から、血の気がひく。
イリスの表情が強張った。
「……セラフィオ」
その名が落ちた瞬間、底の光がうれしそうに揺れた。




