第七話 底に潜むもの
ノアを保管室の入口へ残して、四人は哭塔のさらに下へ降りた。
背後で扉が閉まる音は小さかったのに、イリスにはそれが妙に長く尾を引いた。
閉じた向こうに、あの子が待っている。
戻る場所がある。
その事実だけが、胸の奥へ小さな灯みたいに残っていた。
階段は下るほど狭くなる。
壁の水鉢は浅いままだったが、溜まっている水の色だけが少しずつ濃くなっていた。
薄青だったものが、深いところへ行くほど夜に近い蒼へ沈んでいく。
垂れた布も、途中から端が固くなっている。
乾いて硬いのではない。
何かを沁み込ませたまま、動けなくなったみたいな硬さだった。
先頭のアッシュが短く言う。
「重い」
ルーファが細く息をつく。
「風も抜けにくい」
ミラは振り返らなかった。
けれど、答える声は低い。
「下へ行くほど、泣き終われなかったものが沈みます」
石段をさらに二つ、三つ。
その先で、甘い匂いが混じり始めた。
花のようでも、菓子のようでもある。
やわらかくて、無害そうで、だからこそ気味が悪い甘さだった。
しかも、その奥で、鈴みたいに軽い拍がかすかに跳ねている。
悲しみの底にあるには、明るすぎる。
笑っているみたいな、場違いな軽さだった。
イリスの喉の奥が、ひどく静かにひりついた。
「……強いです」
そこは塔の内側へ食い込むように作られた、半円形の小さな踊り場だった。
正面に、低い石扉がある。
扉そのものは質素なのに、周囲の石目だけがひどく擦れていた。
長いあいだ、何度も誰かがここに手を置いてきた跡だった。
ミラは扉の前へ立つ。
その背は細い。
細いのに、ここまで降りてきた悲しみの重さを、ひとりで受け止めてきた人の背だった。
「この先が、中枢の手前です」
ルーファが風鈴へ指を添える。
鳴らない。
鳴る前に、音だけが吸われて消える。
「……やだな、これ」
アッシュの視線が扉の縁をなぞる。
「閉じ方が違う」
「ええ」
ミラは短く答えた。
「私の結びではありません」
その言葉と同時に、扉の向こうで何かが軋んだ。
次の瞬間だった。
内側から叩きつけられたみたいに石扉が膨らみ、縁の目地から蒼い水が噴いた。
「下がってください!」
ミラの声が落ちる。
イリスは即座に叫んだ。
「アッシュ、前! 表面だけ断って!」
アッシュが半拍ぶん前へ出る。
両腕に黒が灯る。
噴き出した水は床へ落ちず、その場で持ち上がる。
ひと筋、ふた筋、み筋。
糸みたいに細い蒼が絡み合い、甘い匂いをまとって、人の上半身だけを雑に真似た形へ変わる。
顔のあるはずの位置は空洞だった。
空洞のまわりだけが濡れた布みたいに揺れ、その奥から、泣き終われなかった息だけが漏れる。
イリスの足が、半歩止まった。
悲しみだった。
感情喰らいではない。
喰われたあとの空っぽでもない。
誰かの胸にあるはずだった悲しみが、行き場を失って、ここで形になってしまっている。
しかも、その表面にだけ、場違いな甘さと、歓びを真似た軽い拍が張りついている。
「壊さないでください!」
ミラが鋭く言った。
「ほどいて!」
最初の一体が跳ねた。
歩くのではない。
水ごと滑る。
床を這うように間合いを詰め、イリスの足首へ蒼い糸を巻きつけようとする。
イリスは白杖を返し、石床を鳴らした。
白い輪が足元から広がる。
「――聴け、世界」
蒼い糸が触れる寸前で、輪の縁に引っかかる。
削らない。
消さない。
まず見る。
糸の中にある拍を読む。
悲しみそのものは細く震えているだけだった。
その外側を、甘い拍だけがぴたりと締め上げている。
「外側だけ、固い……! アッシュ、そこ!」
黒い軌跡が横から走る。
水の形そのものを砕いたのではない。
表面に巻きついた、見えにくい膜だけが裂ける。
裂けた瞬間、蒼い上半身がかたちを保てず崩れ、床へ落ちた。
落ちた水は暴れない。
浅い息みたいに震えてから、その場でただ濡れるだけになる。
ルーファが息を呑む。
「ほんとだ……中は暴れてない」
次の二体が同時に跳ねる。
今度はまっすぐミラへ。
イリスの胸が熱を持った。
この国を支えている核へ、迷いなく向かった。
白杖を振る。
広がった静かな輪が、片方の拍だけをずらす。
けれどもう片方は止まらない。
ミラは避けなかった。
避けずに一歩踏み込み、両手を重ねる。
次の拍で、踊り場の水鉢が一斉に鳴った。
蒼い形がぶつかる寸前、空気そのものが重く沈む。
押し寄せた二体の輪郭が、そこで半拍ぶんだけ鈍った。
王としての拍だった。
悲しみを呑まない。
呑まれない。
その境目で、流れだけを押しとどめる強さだった。
水が飛び散る。
飛び散った滴の一つひとつが、まるで泣き損ねた声みたいにミラの肩へまとわりついた。
それでもミラは崩れない。
苦しげに息を乱しながら、なお踏みとどまる。
「ルーファ、お願い!」
「うん!」
淡い銀の風が踊り場を横切り、崩れかけた蒼を扉の外へ散らさず、一か所へ集める。
「ミラ、ここで全部受けないで!」
ルーファの声はやわらかいのに、芯だけは強かった。
「戻す場所つくる!」
床で震える蒼へ、風がそっと道をつける。
荒くない。
押し返すのではない。
出口を教えるみたいな風だった。
イリスはそれを見て、ようやく噛み合う感覚を掴む。
ほどく。
戻す。
切るのは悲しみではない。
閉じている方だ。
白杖を握り直す。
今度は床ではなく、扉の目地へ先端を当てた。
「奪わない。消さない。折らない」
輪がひとつ、縦に走る。
目に見えない甘い膜が、扉の縁から糸みたいに浮き上がった。
「アッシュ、二本。そこだけ」
アッシュが踏み込む。
両腕の黒が細く走る。
交差した二筋の断ちが、糸だけを裂いた。
次の瞬間、石扉が内側から割れた。
蒼い水が今度は壁みたいに押し寄せる。
「下がって!」
イリスが叫んだ時にはもう遅い。
水ではない。
押し寄せる悲しみだった。
胸を押す。
脚を鈍らせる。
喉の奥へ、泣ききれなかった息だけを詰まらせる。
ルーファの風が正面からぶつかっても、半分しか削げない。
その奥から、また甘い匂いが広がる。
やわらかい。
やさしい。
もう泣かなくていいと囁くような、気色の悪い甘さ。
しかもその拍は、悲しみを慰めるふりをして、どこか楽しげに跳ねていた。
イリスの耳の奥で、誰かの声がした。
――すぐ、じゃだめ。
ノアの言い方に似ていた。
似ているだけだ。
温度がない。
そのくせ、声の奥に、笑っているみたいな軽さが混じっている。
イリスの背筋が冷えた。
「ルーファ!」
「分かってる!」
ルーファの風鈴が、今度は無理やり鳴った。
か細い音が一度だけ、甘さを裂く。
「それ、あの子の声じゃない!」
そのひと言で、ミラの瞳がはっと戻る。
ほんの一瞬、動きが止まっていたのだ。
だが、それは一瞬だけだった。
次の拍で、ミラの足元から蒼が立つ。
今までの受け止め方とは違う。
悲しみへ呑まれないぎりぎりの場所で、王としての拍だけが前へ出る。
押し寄せていた水壁が、一拍ぶんだけ止まった。
その止まりが限界だと、見ただけで分かった。
長くは保たない。
それでも、揺らぎはもうなかった。
ノアを真似た声だけが、この人を鈍らせる。
だが、それ以外には屈しない。
イリスは歯を食いしばる。
「アッシュ! 切る場所、見ます!」
白杖を横へ薙ぐ。
白い輪は、今度は広くではなく薄く、幾筋にも分かれて飛んだ。
水壁の表面へ絡みつく甘い拍だけを探る。
見つけるたび、イリスが叫ぶ。
「右!」
黒い断ちが走る。
「次、左上!」
二つ目が裂ける。
「中央、もうひとつ!」
三つ目で、悲しみの塊が内側から崩れた。
崩れた拍を、ルーファの風が受ける。
「こっち」
やわらかな風が、暴れる前の蒼へ帰る方向を示す。
床の水鉢が一斉に鳴った。
散った悲しみが、かろうじてそこへ落ちる。
全部ではない。
半分にも届かない。
それでも、ただ暴れるよりはましだ。
ミラが押さえ、水鉢が受け、風が返す。
そこへイリスとアッシュの断ちが入り込む。
ようやく、戦いの形が出来始めた。




