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第二話 涙の国の入り口②

国境沿いの道は、荒野の白さから少しだけ色を取り戻していた。


花ではない。

賑わいでもない。


濡れた石垣の青み、低い屋根に掛けられた薄布の鈍い蒼、雨水を受けた木の幹の暗さ。

派手さはどこにもないのに、灰だけの土地より呼吸があった。


風も違う。


幸福の街で感じた、どこか一点へ人を引き寄せる明るさはない。


かわりにあるのは、抱えたものを急かさない風だった。


道ばたの小さな祈祷壇の前で、ひとりの老婆が膝をついている。


その背を、若い女がただ黙って撫でていた。


少し離れたところでは、荷車を引く男が鼻をすすりながら進んでいく。

恥じてもいないし、誇ってもいない。

ただ、そうなるからそうしているだけみたいな泣き方だった。


市場のような小広場もある。


魚を捌く音、布をたたむ音、器が触れ合う乾いた音。


生活は止まっていない。


それなのに、あちこちに涙がある。


イリスは足をゆるめた。


「……壊れて、いませんね」


自分でも、確かめるみたいな声音だった。


ルーファが小さく頷く。


「うん。悲しいのに、崩れてない」


アッシュは前を見たまま言う。


「揃っていない」


「何がですか」


「泣き方」


短い一語が、妙に胸へ残った。


幸福の街で揃っていたのは、笑いの角度だった。


ここでは違う。


声を殺す者もいれば、鼻だけ赤くして黙る者もいる。

肩を借りる者と、借りない者もいる。


同じ悲しみの国にいるのに、涙の形がばらばらだ。


ばらばらのまま、壊れていない。


イリスはその事実に戸惑った。


悲しみは過剰になれば人を沈める。

そう知っている。


けれど、ここにあるものは沈没ではなく、どこか支え合いに近い。


道の脇を、幼い子を抱いた母親が通り過ぎる。


母は静かに泣いていた。


子は泣いていない。

ただ、小さな手で母の濡れた頬を何度もなぞっている。


その隣では、年嵩の娘らしい少女が濡れた布を絞って差し出していた。


誰も大声を出さない。


慰めの決まり文句もない。


なのに、そこには確かに「ひとりで抱えなくていい」という空気があった。


ルーファが、追悼の布を見上げたまま静かに口を開く。


「エレリアってね、凪の時代からこういう国だったんだよ」


イリスはそちらを見る。


「泣くのを恥にしない。悲しみをひとりに閉じ込めない。泣けるうちに、誰かのそばで泣いていいって決めてきた国」


風が布の縁を鳴らし、低い音を立てる。


「悲しみは消すものじゃない。分け合うことで静まるものだって、ここはずっと信じてきた」


イリスはもう一度、周囲を見た。


たしかに、この国の涙は押しつけられたものには見えない。


痛みは痛みのままある。

けれど、置き去りにはされていない。


「……今も、そう見えます」


「見えるよね」


ルーファは頷いたあと、少しだけ目を細めた。


「でも、昔のそれとは、たぶん少し違う」


「違う?」


「うん。昔はもっと、ひとりの悲しみをひとりに返すための国だった」


風鈴へ指を触れずに、風の湿りだけを読む。


「いまは、同じ形を保ってるのに、底のほうが少し重い。手放さないための悲しみが混じってる」


アッシュが短く足す。


「保ってる」


「何をですか」


「国の形」


イリスは息を止めた。


始まりの色が落ちたのに、過剰へ傾ききらない。


壊れない。


揃いすぎない。


それは偶然じゃないのかもしれない。


誰かの強い意志が、この土地をぎりぎりのところで支えているのかもしれない。


そして、その支えが強いほど、恐れの足場もまた深くなる。


白杖を握る指へ、知らず力が入る。


もしここで、自分が均したらどうなるだろう。


泣きやすくなるのか。


楽になるのか。


それとも――まだ奪ってはいけないものまで、薄くするのか。


胸元の欠けが、薄く疼いた気がした。


アッシュがそれに気づいたのかどうかは分からない。


ただ、先を行く歩幅が、ほんの少しだけゆるむ。


近づきすぎない。

離れすぎない。


その位置だけは崩さないまま。


市場の端で、誰かが誰かの名を静かに呼んでいる。


呼ばれた方は返事をしない。

できないのかもしれない。


それでも呼ぶ声に、責める響きはない。


ただ、ここにいる、と確かめるためみたいな声だった。


悲しみが、異常ではない。


この国では、悲しみは人と人のあいだに橋をかけるための作法として根づいている。


理解できない。


けれど、間違っているとも言い切れない。


始まりの色が落ちた地であることと、目の前の静けさは矛盾している。


異常であるはずなのに、優しい。


崩れていてもおかしくないのに、保たれている。


その両方が同時にある。


それが、イリスには不思議で、少しだけ怖かった。



小広場の中央には、低い石の壇があった。


祭壇というには小さい。

けれど、人が自然に足を止めるにはちょうどいい高さだった。


壇の前で、黒い外套を羽織った男が紙片を広げている。


その横には、水を張った浅い鉢があり、通りがかる者が指先を濡らしてから胸へ当てていく。


ルーファが足を止めた。


「名前を読む場だ」


「名前?」


「たぶん、亡くなった人の」


男は抑えた声で紙片を読み上げ始めた。


高くも低くもない。

祈りの声というより、生活の延長みたいな声だった。


ひとつ、名が呼ばれる。


すると、広場の端にいた女が目を伏せた。


別の名が呼ばれる。


荷を担いだ老人が、肩を落として立ち止まる。


また別の名。


今度はパン籠を持った少年が、小さく唇を噛んだ。


泣く者もいる。


泣かない者もいる。


だが、名が呼ばれるたび、その場にいる誰かの胸だけは確かに動く。


他人の名でも、無関係ではいられない。


それがこの国の悲しみらしかった。


イリスは、しばらく黙ってそれを見ていた。


幸福の街の明るさは、人を同じ形へ寄せた。


ここは違う。


同じ悲しみの場にいながら、それぞれのまま揺れている。


揃わせるための場じゃない。


分け合うための場だ。


そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが立った。


幸福の街で自分が選んだ均しは、助けるためだった。


そう信じている。


けれど、もしこの国で同じようにやれば、痛みの形そのものを壊してしまうかもしれない。


まだ答えは出ない。


出ないまま、ただ白杖の先へ重みが集まった。


男の声が、またひとつ名を呼ぶ。


その輪の外で、誰にも気づかれないくらい小さな影がひとつ立っていた。


年端もいかない少女だった。


周囲の大人たちが静かに涙を拭う中で、その子だけは泣いていない。


泣いていないのではなく、泣けない顔をしていた。


目だけが、置いていかれたみたいに乾いている。


胸の奥で何かがつかえて、そこから先へどうしても通れない者の顔だった。


ルーファの睫毛が、かすかに揺れた。


アッシュの視線が、群衆全体からその一点へ細く絞られる。


イリスは息を止める。


この国は優しい。


その優しさは本物だ。


たぶん、それは間違っていない。


それでも、その輪の外で泣けずに立ち尽くしている子がいる。


悲しみが作法として人を結ぶ国で、結ばれないまま取り残される影が、もう出ている。


イリスは目を逸らせなかった。

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