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第一話 涙の国の入り口

名前を読む声が、朝の薄い空気へ静かにほどけていた。


ひとつ名が呼ばれるたび、広場のどこかで誰かの肩が小さく沈む。


目を伏せる人がいる。

鼻をすする人がいる。

声を殺して泣く人もいる。


泣き方はみんな違うのに、悲しみだけはちゃんと同じ場所へ届いているのが分かった。


その輪の外に、幼い少女は立っていた。


灰をひと筋だけ溶かしたみたいな淡蒼の髪が、朝の湿りを含んで肩先に貼りついている。

薄青の肩掛けの端を、小さな指がきゅっと握っていた。


瞳は薄灰を噛んだ水青だ。

ほんとうなら、涙がいちばん似合う色をしているのに、そこには今日も一滴も浮かばない。


胸の奥には、たしかに重いものがある。


名前を呼ばれるたび、喉の裏がきつくなる。

息を吸うたび、胸の奥で何かがつかえる。


なのに、涙だけがどこにも来ない。


悲哀の蒼が空へ落ちた日、この国は変わった。


追悼の布は増え、水鉢は絶やされなくなり、名を読む声は朝ごと街へ溶けるようになった。

泣く人の背には、ためらわず手が置かれる。


泣きやませるためじゃない。

泣いているあいだ、ひとりにしないためだ。


ここでは、泣くことは恥じゃない。

悲しみは隠すものじゃない。


泣ける人は、ちゃんと誰かと繋がっているように見える。


国は変わった。


悲しみ方を、みんなが前より深く知るようになった。


なのに、自分だけは変われなかった。


あの日の前からずっと、痛いものは痛いままあるのに、涙へ変わる道だけが塞がれたままだ。


誰も責めない。


それが、かえってつらかった。


責められたら、自分が輪の外にいる理由を、ひとつに決められるのに。


また名が呼ばれる。


広場の端で、女が口元を押さえて泣いた。

隣の男が、何も言わずその背へ手を置く。


泣きやませるためじゃない。

そこにいると知らせるためみたいな手つきだった。


幼い少女は、自分の指先を握りしめた。


こんなふうに泣けたらいいのに、と思う。


泣けたら、もっと普通になれる気がした。


泣けたら、あの人の手を困らせずに済む気がした。


けれど胸の奥で動くものは、いつも途中で止まる。


悲しい、の先へ行けない。

痛い、の先がない。


また名が呼ばれる。


知らない名前だった。


それでも胸の奥の何かだけは確かに動く。


動くのに、出ていかない。


痛いだけで、形にならない。


幼い少女が顔を上げたのは、その時だった。


広場の入口に、見慣れない三人が立っていた。


ひとりは白い杖を持った少女。

ひとりは、その半歩前へ立つ静かな少年。

もうひとりは、風に耳を澄ますみたいに目を細めた少女。


旅人だ、と分かる。


でも、それだけじゃない。


白い杖の石突きが石畳へ触れた瞬間、広場の空気がほんの少しだけ変わった気がした。


泣いている人が泣きやんだわけじゃない。

名を読む声が止んだわけでもない。


なのに、自分の胸の奥で固まっていたものだけが、遅れて目を覚ますみたいに小さく震えた。


痛みの形を、向こうだけが見つけてしまいそうだった。


幼い少女は息を止める。


広場の中では、今日も誰かが泣けている。


その輪の外で、自分だけが乾いた目のまま、その三人を見ていた。


輪の中へ置かれているのに、どうしても届かないものがある。


その届かなさごと、あの白い杖の少女には見えてしまいそうだった。


その予感だけで、逃げたくなる。


なのに、目が逸らせない。


幼い少女――ノアは、肩掛けの端をいっそう強く握った。



雨あがりの冷えが、夜を越えても地面の底へ残っていた。


灰は乾ききらず、踏むたび靴裏へ重くまとわりつく。

空は低く、遠くの尾根線は白く磨耗した骨みたいに霞んでいる。


先を行くアッシュが、不意に足を止めた。


いつもの歩幅より、わずかに前。


振り返らず、ただ前方の二つの沈みを見比べている。


ひとつは遠い。


見えないくせに、そこだけが地の底から脈を返してくるみたいに重い。

幸福の街で掠めたものより、もっと低く、もっと息の深い沈みだった。


もうひとつは近い。


重さそのものは浅い。

けれど広い。

雨あがりの湿りへ溶けるみたいに、静かな痛みが土地へ長く居ついている。


イリスは白杖の石突きを地へ置き、前方を見た。


「……二つあるんですね」


「ある」


アッシュの声は短い。


「本命は遠い」


それから、少しだけ近い方へ顎を向ける。


「近い方は明確だ」


「明確?」


「別の始まりの色が落ちた跡」


そこで初めて、イリスは近い沈みの方角を見直した。


「……どの色ですか」


「悲哀の蒼」


ルーファがゆっくり目を開ける。


風鈴は鳴らさない。

ただ、頬へ流れる湿った風を、耳の奥で聴くみたいに立ち止まった。


「本来なら、始まりの色が落ちた土地はもっと分かりやすく傾くよ。泣き方も、息の落ち方も、ひとつに寄りやすい」


風を読む目のまま、近いその土地を見つめる。


「でも、いま拾えるのは違う。悲哀は濃いのに、国ごと壊れてない。過剰になりきってない」


アッシュが短く補う。


「異質だ」


イリスは石突きを土へ置き直した。


始まりの色が落ちたのに、感情が噴きこぼれていない。


それは安心より先に、不気味さとして胸へ落ちた。


幸福の街は余波だけであれほど揃った。

なら、始まりの色そのものが落ちた土地は、もっとはっきり壊れていてもおかしくない。


なのに、そうではない。


そこに何があるのか。


誰が、それを支えているのか。


そして、どうして壊れずに残っているのか。


「……本命は恐怖です」


「分かってる」


アッシュは言った。


「本命は見失ってない」


それだけ言って、少しだけ近い沈みへ視線を落とす。


「ただ、恐怖は散る」


イリスの眉が寄る。


「散る?」


「拡散が早い。痕跡も飛び飛びだ」


事実を置くだけみたいな声だった。


「でも、通った先には残る。失いたくない。忘れたくない。手放したら壊れる。そういう深い悲しみに、恐怖は沈みやすい」


ルーファが低く頷く。


「……うん。恐れそのものはまだ遠い。でも、そのあとに残る息の詰まりは近い。泣きたいのに泣けないのとも、ちょっと似てる」


イリスは小さく息を呑む。


幸福の街を出てから、何度か見てきた。

言葉にはならないのに、胸の底だけが固まる顔を。

泣きたいのかどうかも分からないまま、ただ何かが沈んでいく気配を。


遠い重さ。

近い静けさ。


どちらも始まりの色が残したものなのに、現れ方が違いすぎる。


なら、その違いを見なければならない。


本命を追うためにも。


そして、それだけではなく。


始まりの色に触れながら、なお壊れずに留まっているものがあるなら、そこには自分の知らない何かがある。


均すしかないと思っていたものを、別の形で留めている何かが。


それを見ないまま先へ行くのは、違うと思った。


イリスは白杖を握り直した。


「……先に、そちらへ入ります」


アッシュもルーファも何も言わない。


イリスは自分の声を、自分で確かめるみたいに、もう一度言った。


「本命から目を逸らすためじゃありません。捕まえるために、先にその跡を見ます」


一拍。


「それに、始まりの色が落ちたのに壊れていないなら、私はそれを見たい。何がこの国を保っているのか、知らないままにはしたくありません」


ルーファが薄く笑う。


「うん。そっちのほうが、イリスっぽい」


アッシュは短く頷いた。


「異論なし」


イリスは前を向く。


これは寄り道じゃない。


本命へ届くために、外せない観測点だ。


同時に、自分の知らない“残り方”を確かめるための場所でもある。


三人は進む。


遠い重さを斜め後ろへ残し、もっと近くで、静かに痛みを抱えている土地へ。


やがて尾根を越えた先、薄青い石碑が立っていた。


雨に濡れた面へ刻まれた文字を、灰の筋が半分ほど覆っている。


それでも読めた。


悲哀律国エレリア。


そして、その名の下に広がる景色は、思っていたよりずっと人の暮らしに近かった。

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