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21/45

幕間 雨宿りは、三人だと静かじゃない

幸福の街を出て、四日目の午後だった。


空は朝から鈍く曇っていたのに、雨だけがなかなか決心をしなかった。


落ちるなら落ちる、晴れるなら晴れるで、どちらかへ寄ればいいものを、灰の荒野の上では天気まで迷っているみたいに中途半端だった。


「こっちです」


尾根を越えたところで、イリスは迷いなく言った。


白杖の石突きを、左手の獣道めいた細い踏み跡へ向ける。


その半歩後ろで、アッシュが即座に返した。


「違う」


「まだ歩いてもいません」


「その自信で外れる」


「外れません」


「外した回数が多い」


イリスの足が止まる。


ルーファは少し後ろで、肩にかかる髪を指先で押さえながら、とうとう吹き出した。


「言い方」


「三日で六回」


「細かい」


「観測は細かい」


「数えなくていいです」


アッシュは淡々と続けた。


「うち二回は同じ岩を別の岩だと主張した」


「似ていました」


「一回は戻った」


「地形が悪いんです」


「一回は川を道と認識した」


「反射が紛らわしかったんです」


ルーファが肩を震わせる。


「ちょっと待って。イリス、思ったよりちゃんと迷ってる」


「迷っていません」


「ここまでくると才能だよ」


「才能ではありません」


「では訂正」


アッシュが間を置いた。


「世界の側にも問題がある」


「そうです」


「でも、おまえの側にもある」


「失礼ですね」


ルーファがそこで、いたずらっぽく目を細めた。


「それ言うなら、アッシュも人のこと言えないけどね」


イリスがぴくりと眉を動かす。


「……何の話ですか」


「この前。イリスが止まれって言ったのに、勝手に飛び出した件」


イリスは無言でアッシュを見る。


アッシュは表情を変えなかった。


「必要だった」


「ほら」


ルーファが笑う。


「お互いさまだよ」


「同列にしないでください」


「でもイリス、ちょっと嬉しかったでしょ」


「嬉しくありません」


「間があった」


「ありません」


「要確認」


「あなたまで乗らないでください」


ルーファがとうとう声を上げて笑った。


イリスはゆっくり振り返る。


紫銀の瞳の縁へ、じわ、と細い緋が滲みかける。


その手前で、ルーファが笑いを噛み殺しながら言う。


「イリス、怒る前に空」


「空?」


見上げる。


曇っていた雲の腹が、ようやく耐えきれなくなったみたいに暗く沈んでいる。


その一拍あと、冷たい粒がひとつ頬へ当たった。


次に肩。


次に杖先。


雨だ、と理解した時には、もう細い線になって降り始めていた。


「走る?」


ルーファが言う。


「前に小屋ある」


アッシュはすでに地形を見ていた。


「半壊。壁三、屋根六」


「六は屋根として足りますか」


「濡れない範囲では」


「足りませんね」


言いながらも、イリスは足を速めた。


雨はすぐに本気になる。


灰を混ぜた水気が外套の裾へ染みて重くなり、踏むたび地面の冷たさが靴底から這い上がってくる。


荒野の雨は優しくない。


ただ濡らすのではなく、温度と体力をきっちり削ってくる。


ルーファは走りながらも一度だけ風鈴へ触れた。


ちり、と小さな音。


その途端、正面から叩きつけていた雨脚が、三人の周囲だけほんの少し角度を失う。


避けた、というより、勢いが削げた。


「もっと早く鳴らしてください」


「これ以上やると、横から全部入るよ」


「不便な風です」


「便利屋じゃないからねえ」


その返事の横で、アッシュが一歩だけ前へ出る。


崩れた石小屋までは下りだ。


濡れた石は滑る。


イリスが文句を言おうとした瞬間、足裏がつるりと外れた。


「あ」


落ちる。


と思うより先に、肩口へ硬い衝撃が来た。


アッシュが半身だけ踏み込み、落ちる方向と逆へ体重をずらしている。


最短の補正だ。


抱きとめるほど近くない。


けれど、転ぶ未来だけを摘み取るには十分近い。


掴まれた場所から、冷えの輪郭が一瞬だけ薄くなる。


怖さの形まで削られそうになって、イリスは反射的に息を詰めた。


「……近いです」


「落ちる方が面倒」


「言い方」


「でも助かったでしょ」


ルーファが笑う。


イリスは何も言えず、濡れた前髪を払った。


「……助かりました」


「偉い」


「子ども扱いしないでください」


「迷子扱いよりはいいと思うけど」


「迷子ではありません」


「うんうん」


どう考えても聞いていない返事だった。


三人はそのまま小屋へ滑り込んだ。



石小屋は、見た目どおり半端に壊れていた。


壁は三枚残り、屋根は斜めに傾いている。


奥の一角だけはまだ乾いていたが、入口に近い方は風向き次第で雨が吹き込む。


床には古い灰と砕けた木片が散り、壁際には誰かが昔使っていたらしい炉の跡があった。


「乾いてるの、あそこだけだね」


ルーファが奥を指す。


「では、そこで休みます」


イリスが進みかける。


「待て」


「……今日は人の言葉を聞くんですね」


「地面よりは」


「答えになっていません」


「そこ、滴る」


見れば、傾いた屋根の継ぎ目から、一拍ごとに雫が落ちていた。


ほんの少し位置がずれているだけで、確かにイリスが座ろうとした場所へ真っ直ぐ落ちてくる。


イリスは無言で一歩ずれた。


「では、こちらに」


「そこ、壁が剥がれる」


「……なぜ先に言わないんですか」


「今言った」


「今言われました」


ルーファがまた笑う。


「だめだ、今日のイリス、地面にも建物にも嫌われてる」


「嫌われていません」


「でも、さっきから世界との相性は悪いよね」


「世界の側が不安定なんです」


「まだそこは譲らないんだ」


アッシュはそれ以上何も言わない。


ただ、濡れた外套を脱ぎ、入口に近い風上側へ広げた。


その手際だけは腹立たしいほど迷いがない。


「アッシュ、火は?」


ルーファがしゃがみ込む。


「起こせる」


「じゃあお願い」


「……私もできます」


イリスが言う。


アッシュは炉の石を見たまま返した。


「前回、煙だけ出した」


「それは薪の問題です」


「順番の問題」


「世界の側の問題もあります」


「まだ言う」


ルーファが膝を抱えて笑う。


イリスは眉を寄せたまま、結局、火起こしはアッシュに任せた。


悔しいが、その判断は正しい。


アッシュは湿っていない木片だけを選び、崩れた棚板から削った細い繊維を芯へ差し込み、最小の火花で火を立てた。


余計な苦戦が一切ない。


こういうところだけ見ると、本当に無駄がなくて腹が立つ。


火が落ち着くと、今度は冷えが前へ出た。


走っている間は気づかなかったが、止まると濡れた衣服が体温を奪う。


イリスが小さくくしゃみをする。


その直後、ルーファの風鈴が鳴った。


ちり、ではない。


もう少し低く、やわらかい音だった。


風が小屋の中をひと巡りする。


火は煽らない。


濡れた布も無理に乾かさない。


ただ、冷えで縮こまった胸のあたりへ、細い通り道だけを作るみたいに空気がほどけていく。


息が、深くなる。


肩の力が落ちる。


イリスは瞬いた。


「……今の」


「ん?」


「さっきの街で見たのと、違います」


ルーファは風鈴を指先で揺らしたまま、少しだけ首を傾げた。


「セラフィオのと?」


イリスは頷く。


幸福の街で見た笑いは、軽くなる笑いではなかった。


出口が一つに決められた笑いだった。


笑うこと自体が悪いわけじゃない。


けれど、あれは人の息より先に、結末だけを押しつけていた。


ルーファは炉の火を見ながら、静かに言う。


「風の一族の風はね、感情を決めないの」


「決めない?」


「うん。泣くなら泣く、怒るなら怒る、黙ってたいなら黙る。その人の中にあるものを、勝手に別の形へ連れていかない」


風鈴が、もう一度だけ鳴る。


「やるのは、詰まってるところを通すことだけ。息とか、声とか、涙とか。通り道が潰れてると、人は自分の感情まで自分のものにできなくなるから」


イリスは小さく息を吸った。


まだ少し湿った空気が、さっきより苦しくない。


「じゃあ、あなたの風は……」


「開くための風、かな」


ルーファは考えるみたいに笑う。


「少なくとも、終わりを決める風じゃないよ」


小屋の中へ、短い沈黙が落ちた。


アッシュが薪をひとつ動かしながら、低く言う。


「セラフィオは、出口を一つに寄せる」


「そう」


ルーファは頷く。


「楽になりたい、終わらせたい、笑いたい、泣きやみたい。そういう願いを拾って、最後は同じ形へ揃えちゃう。あの人の術は、本人の気持ちを否定しないぶん、厄介」


「……優しく見えるのに」


イリスが呟く。


「うん」


ルーファの声はやわらかい。


「だから、怖いんだよ」


火が、小さく爆ぜた。


イリスは杖を抱え直す。


幸福の街の、笑顔だけが残った顔が一瞬よぎる。


けれど、今はその記憶の痛みが、そのまま胸へ刺さらない。


ルーファの風が痛みを消したのではなく、痛みが通れる形に戻しているのだと分かる。


それは、思っていたよりずっと、救いに近かった。


「風の一族は、みんなそうなんですか」


ルーファは少し笑った。


「理想はね。でも、みんながみんな上手じゃないよ」


「あなたは?」


「私は上手いほう」


「自分で言うんですね」


「言うよ。だって、ほんとだし」


横でアッシュが短く足した。


「事実だ」


イリスとルーファが同時にそちらを見る。


アッシュは火を見たままだった。


「比較対象を知っているんですか」


「風の精度は観測できる」


「褒めてるの?」


ルーファが聞く。


「そう聞こえたなら、そうだ」


「わあ」


ルーファが笑う。


「珍しい」


「珍しいんですか」


「うん。この子、必要がないと基本ほめないから」


「必要がある」


アッシュはそこでようやく顔を上げた。


「呼吸が戻る。判断が戻る。行動が揃いすぎない」


短い説明のあと、一拍だけ置く。


「助かる」


ルーファは目を丸くして、それからふっと笑った。


「……そっか」


イリスはそのやり取りを見て、なぜか少しだけ胸が落ち着かなくなる。


理由は分からない。


分からないまま、火のそばへ膝を寄せた。


その動きに合わせるみたいに、アッシュが乾いた布包みを差し出す。


「何ですか」


「食料」


「私の分ですか」


「おまえの分は、さっき落とした」


「……」


思い出した。


尾根を滑りかけた時、腰の袋の口がほどけていた。


あの時、干し果実と固パンの一部が見事に斜面へ転がり落ちたのだ。


イリスは静かに目を伏せた。


「言わないでください」


「もう言った」


「増やさないでください」


「では減らす」


そう言って、アッシュは自分の分の固パンを二つに割った。


大きい方をイリスへ、小さい方を自分へ置く。


イリスが顔を上げる。


「……私の失敗ですよ」


「知ってる」


「なら、なおさら」


「空腹だとまた間違える」


「そこへ繋げます?」


「繋がる」


ルーファが耐えきれずに肩を震わせた。


「アッシュ、それ、気づかってるのに言い方が最悪」


「効率優先」


「優しさまで削ってるよ」


「不要」


「不要じゃないです」


思わずイリスが返す。


アッシュは少しだけ首を傾げた。


「必要?」


「……たぶん」


「では、要確認」


それ以上は言わなかった。


けれど、固パンはちゃんとイリスの前に残っていた。


火のそばで三人が固いパンを齧る。


外では雨がまだ石を叩いている。


ろくでもない食事のはずなのに、なぜか少しだけましに思えた。


「ねえ、イリス」


ルーファがパンを小さく割りながら言う。


「うまく泣けない時って、あるよ」


イリスは顔を上げる。


「……急ですね」


「急かな。さっきの続き」


風鈴は鳴っていない。


けれど、彼女の声そのものが風みたいだった。


「泣けないのは、悲しくないからじゃない。通り道がまだ細いだけの時もある。だから、出ない時に無理やり出そうとしなくていい」


イリスはパンを握る指へ少し力を込めた。


幸福の街を出てから、数日のあいだ、泣いてはいない。


泣きたいのかも分からなかった。


ただ、胸の底に沈んだ黒い重さだけが、毎晩、眠る前に少しずつ形を変えていた。


「……私は」


言いかけて、止まる。


何を言えばいいのか、自分でも分からない。


その隣で、アッシュがごく自然に言った。


「泣くなら、見張る」


「何をですか」


「近づきすぎない距離」


ルーファが瞬く。


イリスも、言葉を失う。


アッシュは本気で言っていた。


「削るから」


「……そういう時に正直ですね」


「必要だから」


またそれだ。


必要、効率、観測、最短。


そんな言葉ばかり使うのに、肝心なところだけ、妙に外さない。


イリスは視線を伏せ、小さく固パンを齧った。


味はほとんどしなかった。


でも、不思議と喉は通った。



雨が止んだのは、日が沈みきる少し前だった。


雲の切れ目から、細い夕光がひと筋だけ差し、小屋の床に残った水溜まりを鈍く照らす。


アッシュが先に立つ。


いつものように出口に近い位置だ。


ルーファは外へ出る前に、一度だけ風鈴へ触れた。


鳴らさないまま、風の湿りとその奥にあるものを読む顔になる。


その表情が、少しだけ変わった。


さっきまでの柔らかさが消える。


「……これ」


イリスが外套を羽織り直しながら聞く。


「どうしました」


ルーファはすぐには答えなかった。


小屋の外、雨上がりの荒野は静かだ。


灰は濡れて地に貼りつき、空気は洗われたみたいに冷たい。


なのに、その静けさの底で、何かだけが沈みきれずに残っている。


「笑いじゃない」


ルーファが低く言う。


「今度は、もっと下」


アッシュが一歩、外へ出た。


地面へ視線を落とし、次に遠くの暗がりを見る。


「沈み方が揃ってる」


短い断定だった。


イリスの胸の奥が、静かに硬くなる。


幸福の街で揃っていたのは、笑いの角度だった。


けれど今、風の先で揃っているのは、もっと重い何かだ。


泣き方の前、声になる前、息を落とす深さそのものが同じ場所へ沈んでいるような、不穏な揃い方。


「近いですか」


イリスが問う。


アッシュは一拍だけ考えた。


「本命じゃない」


それから、もう一言だけ足す。


「でも、先に見るべき沈みだ」


ルーファも頷く。


「うん。放っておくと、たぶん恐れまで育つ」


イリスは杖を握り直した。


幸福の街から持ち出した黒い沈みは、まだ胸の中にある。


忘れないと決めた痛みもある。


それでも、前へ行くしかない。


その横で、ルーファがふっと笑った。


「でもその前に」


「何ですか」


「次はイリスに先頭やらせない」


「なぜです」


「目的地に着く前に、また別の人生始まりそうだから」


「始まりません」


「始まりかけてたよ」


アッシュが真顔で補足する。


「二回」


「数えなくていいです!」


雨上がりの荒野に、ルーファの笑い声が小さく転がった。


ほんの少し遅れて、イリスも息を吐く。


笑ったのかどうか、自分ではよく分からない。


でも、胸の底に沈んだものが、その一瞬だけ、沈んだまま息をできた気がした。


イリスは杖を握り直し、濡れた地面の先を見た。


「……今度は、外しません」


「要確認」


即答だった。


「即答しないでください」


「必要だから」


「ほらまた」


ルーファがくすくす笑って、二人のあいだへやわらかく声を差し込む。


「じゃあ、今日は道でけんかしないこと。沈みに着く前に疲れちゃう」


「けんかではありません。まだ始まっていません」


「始まる予定はあるんですね……」


小さな呆れを混ぜた声でそう言って、ルーファは風鈴をひとつだけ鳴らした。


澄んだ音が、雨上がりの冷えた空気を細くひらく。


その先には、もう笑いではない沈みがある。


深く、静かで、取り落とせば人の胸の底へそのまま居座りそうな、重い気配だった。


けれど今は、その重さの手前に、三人ぶんの呼吸がちゃんとある。


イリスはそれを確かめるみたいに一度だけ目を閉じ、それから顔を上げた。


誰が先とも決めないまま、三人は同じ方角へ足を向ける。


濡れた灰が、靴の下でやわらかく沈んだ。


今度の道は、さっきまでより少しだけ、外しにくい気がした。

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