幕間 雨宿りは、三人だと静かじゃない
幸福の街を出て、四日目の午後だった。
空は朝から鈍く曇っていたのに、雨だけがなかなか決心をしなかった。
落ちるなら落ちる、晴れるなら晴れるで、どちらかへ寄ればいいものを、灰の荒野の上では天気まで迷っているみたいに中途半端だった。
「こっちです」
尾根を越えたところで、イリスは迷いなく言った。
白杖の石突きを、左手の獣道めいた細い踏み跡へ向ける。
その半歩後ろで、アッシュが即座に返した。
「違う」
「まだ歩いてもいません」
「その自信で外れる」
「外れません」
「外した回数が多い」
イリスの足が止まる。
ルーファは少し後ろで、肩にかかる髪を指先で押さえながら、とうとう吹き出した。
「言い方」
「三日で六回」
「細かい」
「観測は細かい」
「数えなくていいです」
アッシュは淡々と続けた。
「うち二回は同じ岩を別の岩だと主張した」
「似ていました」
「一回は戻った」
「地形が悪いんです」
「一回は川を道と認識した」
「反射が紛らわしかったんです」
ルーファが肩を震わせる。
「ちょっと待って。イリス、思ったよりちゃんと迷ってる」
「迷っていません」
「ここまでくると才能だよ」
「才能ではありません」
「では訂正」
アッシュが間を置いた。
「世界の側にも問題がある」
「そうです」
「でも、おまえの側にもある」
「失礼ですね」
ルーファがそこで、いたずらっぽく目を細めた。
「それ言うなら、アッシュも人のこと言えないけどね」
イリスがぴくりと眉を動かす。
「……何の話ですか」
「この前。イリスが止まれって言ったのに、勝手に飛び出した件」
イリスは無言でアッシュを見る。
アッシュは表情を変えなかった。
「必要だった」
「ほら」
ルーファが笑う。
「お互いさまだよ」
「同列にしないでください」
「でもイリス、ちょっと嬉しかったでしょ」
「嬉しくありません」
「間があった」
「ありません」
「要確認」
「あなたまで乗らないでください」
ルーファがとうとう声を上げて笑った。
イリスはゆっくり振り返る。
紫銀の瞳の縁へ、じわ、と細い緋が滲みかける。
その手前で、ルーファが笑いを噛み殺しながら言う。
「イリス、怒る前に空」
「空?」
見上げる。
曇っていた雲の腹が、ようやく耐えきれなくなったみたいに暗く沈んでいる。
その一拍あと、冷たい粒がひとつ頬へ当たった。
次に肩。
次に杖先。
雨だ、と理解した時には、もう細い線になって降り始めていた。
「走る?」
ルーファが言う。
「前に小屋ある」
アッシュはすでに地形を見ていた。
「半壊。壁三、屋根六」
「六は屋根として足りますか」
「濡れない範囲では」
「足りませんね」
言いながらも、イリスは足を速めた。
雨はすぐに本気になる。
灰を混ぜた水気が外套の裾へ染みて重くなり、踏むたび地面の冷たさが靴底から這い上がってくる。
荒野の雨は優しくない。
ただ濡らすのではなく、温度と体力をきっちり削ってくる。
ルーファは走りながらも一度だけ風鈴へ触れた。
ちり、と小さな音。
その途端、正面から叩きつけていた雨脚が、三人の周囲だけほんの少し角度を失う。
避けた、というより、勢いが削げた。
「もっと早く鳴らしてください」
「これ以上やると、横から全部入るよ」
「不便な風です」
「便利屋じゃないからねえ」
その返事の横で、アッシュが一歩だけ前へ出る。
崩れた石小屋までは下りだ。
濡れた石は滑る。
イリスが文句を言おうとした瞬間、足裏がつるりと外れた。
「あ」
落ちる。
と思うより先に、肩口へ硬い衝撃が来た。
アッシュが半身だけ踏み込み、落ちる方向と逆へ体重をずらしている。
最短の補正だ。
抱きとめるほど近くない。
けれど、転ぶ未来だけを摘み取るには十分近い。
掴まれた場所から、冷えの輪郭が一瞬だけ薄くなる。
怖さの形まで削られそうになって、イリスは反射的に息を詰めた。
「……近いです」
「落ちる方が面倒」
「言い方」
「でも助かったでしょ」
ルーファが笑う。
イリスは何も言えず、濡れた前髪を払った。
「……助かりました」
「偉い」
「子ども扱いしないでください」
「迷子扱いよりはいいと思うけど」
「迷子ではありません」
「うんうん」
どう考えても聞いていない返事だった。
三人はそのまま小屋へ滑り込んだ。
*
石小屋は、見た目どおり半端に壊れていた。
壁は三枚残り、屋根は斜めに傾いている。
奥の一角だけはまだ乾いていたが、入口に近い方は風向き次第で雨が吹き込む。
床には古い灰と砕けた木片が散り、壁際には誰かが昔使っていたらしい炉の跡があった。
「乾いてるの、あそこだけだね」
ルーファが奥を指す。
「では、そこで休みます」
イリスが進みかける。
「待て」
「……今日は人の言葉を聞くんですね」
「地面よりは」
「答えになっていません」
「そこ、滴る」
見れば、傾いた屋根の継ぎ目から、一拍ごとに雫が落ちていた。
ほんの少し位置がずれているだけで、確かにイリスが座ろうとした場所へ真っ直ぐ落ちてくる。
イリスは無言で一歩ずれた。
「では、こちらに」
「そこ、壁が剥がれる」
「……なぜ先に言わないんですか」
「今言った」
「今言われました」
ルーファがまた笑う。
「だめだ、今日のイリス、地面にも建物にも嫌われてる」
「嫌われていません」
「でも、さっきから世界との相性は悪いよね」
「世界の側が不安定なんです」
「まだそこは譲らないんだ」
アッシュはそれ以上何も言わない。
ただ、濡れた外套を脱ぎ、入口に近い風上側へ広げた。
その手際だけは腹立たしいほど迷いがない。
「アッシュ、火は?」
ルーファがしゃがみ込む。
「起こせる」
「じゃあお願い」
「……私もできます」
イリスが言う。
アッシュは炉の石を見たまま返した。
「前回、煙だけ出した」
「それは薪の問題です」
「順番の問題」
「世界の側の問題もあります」
「まだ言う」
ルーファが膝を抱えて笑う。
イリスは眉を寄せたまま、結局、火起こしはアッシュに任せた。
悔しいが、その判断は正しい。
アッシュは湿っていない木片だけを選び、崩れた棚板から削った細い繊維を芯へ差し込み、最小の火花で火を立てた。
余計な苦戦が一切ない。
こういうところだけ見ると、本当に無駄がなくて腹が立つ。
火が落ち着くと、今度は冷えが前へ出た。
走っている間は気づかなかったが、止まると濡れた衣服が体温を奪う。
イリスが小さくくしゃみをする。
その直後、ルーファの風鈴が鳴った。
ちり、ではない。
もう少し低く、やわらかい音だった。
風が小屋の中をひと巡りする。
火は煽らない。
濡れた布も無理に乾かさない。
ただ、冷えで縮こまった胸のあたりへ、細い通り道だけを作るみたいに空気がほどけていく。
息が、深くなる。
肩の力が落ちる。
イリスは瞬いた。
「……今の」
「ん?」
「さっきの街で見たのと、違います」
ルーファは風鈴を指先で揺らしたまま、少しだけ首を傾げた。
「セラフィオのと?」
イリスは頷く。
幸福の街で見た笑いは、軽くなる笑いではなかった。
出口が一つに決められた笑いだった。
笑うこと自体が悪いわけじゃない。
けれど、あれは人の息より先に、結末だけを押しつけていた。
ルーファは炉の火を見ながら、静かに言う。
「風の一族の風はね、感情を決めないの」
「決めない?」
「うん。泣くなら泣く、怒るなら怒る、黙ってたいなら黙る。その人の中にあるものを、勝手に別の形へ連れていかない」
風鈴が、もう一度だけ鳴る。
「やるのは、詰まってるところを通すことだけ。息とか、声とか、涙とか。通り道が潰れてると、人は自分の感情まで自分のものにできなくなるから」
イリスは小さく息を吸った。
まだ少し湿った空気が、さっきより苦しくない。
「じゃあ、あなたの風は……」
「開くための風、かな」
ルーファは考えるみたいに笑う。
「少なくとも、終わりを決める風じゃないよ」
小屋の中へ、短い沈黙が落ちた。
アッシュが薪をひとつ動かしながら、低く言う。
「セラフィオは、出口を一つに寄せる」
「そう」
ルーファは頷く。
「楽になりたい、終わらせたい、笑いたい、泣きやみたい。そういう願いを拾って、最後は同じ形へ揃えちゃう。あの人の術は、本人の気持ちを否定しないぶん、厄介」
「……優しく見えるのに」
イリスが呟く。
「うん」
ルーファの声はやわらかい。
「だから、怖いんだよ」
火が、小さく爆ぜた。
イリスは杖を抱え直す。
幸福の街の、笑顔だけが残った顔が一瞬よぎる。
けれど、今はその記憶の痛みが、そのまま胸へ刺さらない。
ルーファの風が痛みを消したのではなく、痛みが通れる形に戻しているのだと分かる。
それは、思っていたよりずっと、救いに近かった。
「風の一族は、みんなそうなんですか」
ルーファは少し笑った。
「理想はね。でも、みんながみんな上手じゃないよ」
「あなたは?」
「私は上手いほう」
「自分で言うんですね」
「言うよ。だって、ほんとだし」
横でアッシュが短く足した。
「事実だ」
イリスとルーファが同時にそちらを見る。
アッシュは火を見たままだった。
「比較対象を知っているんですか」
「風の精度は観測できる」
「褒めてるの?」
ルーファが聞く。
「そう聞こえたなら、そうだ」
「わあ」
ルーファが笑う。
「珍しい」
「珍しいんですか」
「うん。この子、必要がないと基本ほめないから」
「必要がある」
アッシュはそこでようやく顔を上げた。
「呼吸が戻る。判断が戻る。行動が揃いすぎない」
短い説明のあと、一拍だけ置く。
「助かる」
ルーファは目を丸くして、それからふっと笑った。
「……そっか」
イリスはそのやり取りを見て、なぜか少しだけ胸が落ち着かなくなる。
理由は分からない。
分からないまま、火のそばへ膝を寄せた。
その動きに合わせるみたいに、アッシュが乾いた布包みを差し出す。
「何ですか」
「食料」
「私の分ですか」
「おまえの分は、さっき落とした」
「……」
思い出した。
尾根を滑りかけた時、腰の袋の口がほどけていた。
あの時、干し果実と固パンの一部が見事に斜面へ転がり落ちたのだ。
イリスは静かに目を伏せた。
「言わないでください」
「もう言った」
「増やさないでください」
「では減らす」
そう言って、アッシュは自分の分の固パンを二つに割った。
大きい方をイリスへ、小さい方を自分へ置く。
イリスが顔を上げる。
「……私の失敗ですよ」
「知ってる」
「なら、なおさら」
「空腹だとまた間違える」
「そこへ繋げます?」
「繋がる」
ルーファが耐えきれずに肩を震わせた。
「アッシュ、それ、気づかってるのに言い方が最悪」
「効率優先」
「優しさまで削ってるよ」
「不要」
「不要じゃないです」
思わずイリスが返す。
アッシュは少しだけ首を傾げた。
「必要?」
「……たぶん」
「では、要確認」
それ以上は言わなかった。
けれど、固パンはちゃんとイリスの前に残っていた。
火のそばで三人が固いパンを齧る。
外では雨がまだ石を叩いている。
ろくでもない食事のはずなのに、なぜか少しだけましに思えた。
「ねえ、イリス」
ルーファがパンを小さく割りながら言う。
「うまく泣けない時って、あるよ」
イリスは顔を上げる。
「……急ですね」
「急かな。さっきの続き」
風鈴は鳴っていない。
けれど、彼女の声そのものが風みたいだった。
「泣けないのは、悲しくないからじゃない。通り道がまだ細いだけの時もある。だから、出ない時に無理やり出そうとしなくていい」
イリスはパンを握る指へ少し力を込めた。
幸福の街を出てから、数日のあいだ、泣いてはいない。
泣きたいのかも分からなかった。
ただ、胸の底に沈んだ黒い重さだけが、毎晩、眠る前に少しずつ形を変えていた。
「……私は」
言いかけて、止まる。
何を言えばいいのか、自分でも分からない。
その隣で、アッシュがごく自然に言った。
「泣くなら、見張る」
「何をですか」
「近づきすぎない距離」
ルーファが瞬く。
イリスも、言葉を失う。
アッシュは本気で言っていた。
「削るから」
「……そういう時に正直ですね」
「必要だから」
またそれだ。
必要、効率、観測、最短。
そんな言葉ばかり使うのに、肝心なところだけ、妙に外さない。
イリスは視線を伏せ、小さく固パンを齧った。
味はほとんどしなかった。
でも、不思議と喉は通った。
*
雨が止んだのは、日が沈みきる少し前だった。
雲の切れ目から、細い夕光がひと筋だけ差し、小屋の床に残った水溜まりを鈍く照らす。
アッシュが先に立つ。
いつものように出口に近い位置だ。
ルーファは外へ出る前に、一度だけ風鈴へ触れた。
鳴らさないまま、風の湿りとその奥にあるものを読む顔になる。
その表情が、少しだけ変わった。
さっきまでの柔らかさが消える。
「……これ」
イリスが外套を羽織り直しながら聞く。
「どうしました」
ルーファはすぐには答えなかった。
小屋の外、雨上がりの荒野は静かだ。
灰は濡れて地に貼りつき、空気は洗われたみたいに冷たい。
なのに、その静けさの底で、何かだけが沈みきれずに残っている。
「笑いじゃない」
ルーファが低く言う。
「今度は、もっと下」
アッシュが一歩、外へ出た。
地面へ視線を落とし、次に遠くの暗がりを見る。
「沈み方が揃ってる」
短い断定だった。
イリスの胸の奥が、静かに硬くなる。
幸福の街で揃っていたのは、笑いの角度だった。
けれど今、風の先で揃っているのは、もっと重い何かだ。
泣き方の前、声になる前、息を落とす深さそのものが同じ場所へ沈んでいるような、不穏な揃い方。
「近いですか」
イリスが問う。
アッシュは一拍だけ考えた。
「本命じゃない」
それから、もう一言だけ足す。
「でも、先に見るべき沈みだ」
ルーファも頷く。
「うん。放っておくと、たぶん恐れまで育つ」
イリスは杖を握り直した。
幸福の街から持ち出した黒い沈みは、まだ胸の中にある。
忘れないと決めた痛みもある。
それでも、前へ行くしかない。
その横で、ルーファがふっと笑った。
「でもその前に」
「何ですか」
「次はイリスに先頭やらせない」
「なぜです」
「目的地に着く前に、また別の人生始まりそうだから」
「始まりません」
「始まりかけてたよ」
アッシュが真顔で補足する。
「二回」
「数えなくていいです!」
雨上がりの荒野に、ルーファの笑い声が小さく転がった。
ほんの少し遅れて、イリスも息を吐く。
笑ったのかどうか、自分ではよく分からない。
でも、胸の底に沈んだものが、その一瞬だけ、沈んだまま息をできた気がした。
イリスは杖を握り直し、濡れた地面の先を見た。
「……今度は、外しません」
「要確認」
即答だった。
「即答しないでください」
「必要だから」
「ほらまた」
ルーファがくすくす笑って、二人のあいだへやわらかく声を差し込む。
「じゃあ、今日は道でけんかしないこと。沈みに着く前に疲れちゃう」
「けんかではありません。まだ始まっていません」
「始まる予定はあるんですね……」
小さな呆れを混ぜた声でそう言って、ルーファは風鈴をひとつだけ鳴らした。
澄んだ音が、雨上がりの冷えた空気を細くひらく。
その先には、もう笑いではない沈みがある。
深く、静かで、取り落とせば人の胸の底へそのまま居座りそうな、重い気配だった。
けれど今は、その重さの手前に、三人ぶんの呼吸がちゃんとある。
イリスはそれを確かめるみたいに一度だけ目を閉じ、それから顔を上げた。
誰が先とも決めないまま、三人は同じ方角へ足を向ける。
濡れた灰が、靴の下でやわらかく沈んだ。
今度の道は、さっきまでより少しだけ、外しにくい気がした。




