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第十九話 壊れたもの、残ったもの

空は、もう白みきる手前まで来ていた。


夜のあいだは闇へ紛れていたものが、薄い朝の光の下で容赦なく輪郭を取り戻していく。


砕けた噴水。


白い残滓をかぶった石畳。


倒れた屋台の焼け跡。


笑顔の名残だけを頬へ貼りつけたまま、うまく泣けずにいる人々。


ようやく母の呼ぶ名へ遅れて頷けるようになった、あの母娘。


そして、その白の下――石畳の継ぎ目や噴水の底にだけ、夜の熱が黒く澱んでいた。


明るさは救いみたいに差してくるのに、実際には助かったものと、もう削れてしまったものの差だけを、いっそうはっきり見せるための光に近い。


イリスは割れた窓の真下、広場の縁へ膝をついたままだった。


白杖を握る手の奥に、まだ昨夜の重みが残っている。

自分で選んで落としたものの硬さが、柄の擦り減った感触の向こうに沈んだまま抜けない。


アッシュは、その少し前に立っていた。


広場の中央へ向けて半拍だけ先んじた位置。

近づきすぎれば削る。

離れすぎれば届かない。

その細い境へ、彼は何も言わず身体を置いている。


脇腹の呼吸だけが、半拍ぶん浅い。


ルーファは母娘のそばにしゃがみ込み、肩へ風を置いていた。


大きな風ではない。

泣くことだけを急かさず、呼吸の順番だけを思い出させるような、小さな風だ。


その静かな広場へ、最初に違和感を見つけたのはルーファだった。


風鈴が鳴る前に、彼女の睫毛がわずかに揺れる。


「……まだ残ってる」


アッシュが空ではなく足元を見る。


イリスも白杖を支えに、ゆっくり視線を落とした。


噴水の縁。

水のない鉢の底。

石畳の継ぎ目。

倒れた屋台の下。


そういう“溜まりやすい場所”ばかりに、黒い澱みが残っている。


歓喜とも恐怖ともつかない、名前を失った燃えかす。


色そのものじゃない。

けれど、色が最後に残した噛み跡だけが、そこへ沈んでいる。


アッシュがしゃがみ込む。


触れない。

触れずに、灰の寄り方と足跡の乱れと、沈みの偏りだけを見ている。


「押しつけは減衰した」


結論だけが落ちる。


「でも、場に残留がある。噛み跡の形で」


ルーファも頷いた。


「風が底で引っかかってる。もう笑わせようとはしてないよ。でも、噛みつく癖だけ残ってる」


イリスは噴水の底を見つめた。


喰らいを落としたあとに残ったもの。


それは終わった証じゃない。


自分が均して、底へ沈めたものだ。


均すとは、終わらせることだけじゃない。


守るために、別の何かを落とすことでもある。


昨夜、自分はその手順を選んだ。


朝の光は、選んだものの重さだけを言い逃れできない形で見せてくる。


「……いまなら」


イリスは小さく言った。


喉の奥はまだ焼けている。

脚も重い。

けれど昨夜みたいに広場ごと均すんじゃない。


一点だけなら、まだ手順を落としきらずに済む。


「広場ごとじゃなく、一点だけなら触れます」


ルーファが振り返る。


責めるためじゃない。

持つのか、と確かめるための目だった。


「持てる?」


「持たせます」


強がりじゃない。


この広場が今すぐもう一度誰かへ噛まないよう、残り火だけを押し下げればいい。


ルーファは風鈴をひとつ鳴らした。


淡い風が噴水の底、石畳の継ぎ目、屋台の焼け跡をなぞる。

黒い澱みだけを拾い上げるみたいに、ざらついた気配が一点へゆっくり寄せられていく。


アッシュは半歩だけ横へずれた。


母娘とイリスのあいだを塞ぐ位置は崩さないまま、ルーファの風が通りやすいだけの幅を空ける。


イリスは白杖の先を石へ触れさせた。


「――静まれ」


それだけだった。


詠唱と呼ぶにも足りない、ほんの短い均し。


広くも深くもない。

零れないよう、呼吸ひとつぶん押し下げるだけの、小さな均しだ。


朝の光の下でざらついていた不快な明るさが、ふっと引く。


空気がようやく、人のものへ戻る。


けれど同時に、噴水の底と石畳の継ぎ目へ残った黒い澱みは、一段だけ深く見えた。


ルーファがそれを見つめて、静かに息を吐く。


「……消えたんじゃない」


「沈んだだけです」


イリスは答えた。


喉の奥がわずかに苦い。


守れたものの裏側に、沈めたものがある。


それを知ったまま、それでも自分で選んだと引き受けなければいけない。


広場の向こうで、やっと立ち上がれた男が、自分の名を呼ぶ妻へ遅れて応えた。


けれど少し離れた場所で、別の女がぽつりと呟く。


「……でも」


朝の白さの中で、その声だけが妙に裸だった。


「あの明るさ、少しだけ……楽だった」


誰も、すぐには言葉を返せなかった。


ルーファの睫毛がかすかに震える。


イリスはその女を見る。


正気へ戻りきらない目をしていた。

笑顔の名残はもう薄いのに、その代わり、深い疲れと空虚が顔へ落ちている。


嘘ではないのだ、とイリスは思う。


セラフィオの祝祭は、壊すだけのものじゃなかった。


そこへ縋ってしまうだけの“楽になりたさ”が、人の側に本当にあった。


だからこそ厄介で、だからこそ、使徒は人の願いを踏み台にできる。


アッシュが広場の向こうを見たまま言う。


「ここは中心じゃない」


イリスとルーファが同時に顔を上げる。


「拍が浅い。局所の噛みつきは強い。でも、根は深くない」


ルーファが目を閉じる。


朝の風はもう、昨夜みたいには狂っていない。

けれど完全にほどけたわけでもない。


遠くへ行きたがる流れと、ここへ留まりたがる熱が、まだ細く擦れ合っている。


「……うん」


ルーファがゆっくり言った。


「もしここに始まりの色そのものが深く刺さったなら、もっと土地ごと鳴るよ。これは、通り過ぎたものを人が引き留めた鳴り方」


イリスは白杖を握ったまま、その言葉を胸の中で反芻する。


幸福の街は、始まりの色そのものが落ちた場所じゃない。


空へ逃げた色の余波が掠め、そこへセラフィオが歓喜を増幅させ、人々の“楽になりたい”と噛み合って壊れかけた場所。


ここは始まりではある。


けれど本番ではない。


本命ですらない余波で、これだけ取りこぼした。

これだけ、人の形が削れた。


ルーファが朝の広場を見回し、低く言う。


「助かった。でも」


そこで一度、言葉を噛む。


「削れたものまで、仕方ないで済ませたくない」


イリスは顔を上げた。


ルーファの目はやわらかいままだった。

責めるだけの目じゃない。

責めたいのに、それだけでは済ませたくない目だ。


「泣けなくなったぶんまで、救いって呼ばない」


静かだった。


でも、その静かさのほうが、よほど痛い。


イリスは視線を逸らさない。


謝れば少しは軽くなるかもしれない。

けれど、ここで欲しいのは軽さじゃない。


昨夜、自分で選んだのだ。


なら言うべきことは、ひとつしかない。


「……忘れません」


ルーファは小さく息を吐く。


許したわけじゃない。

でも、そのまま飲み込ませるのも違うと思ったみたいに、少しだけ視線をやわらげた。


「うん。忘れないで」


風鈴が、朝の薄い風にかすかに鳴る。


「でもね」


ルーファは広場の黒い澱みではなく、イリスの瞳の奥を見る。


「さっきのあんたの白、全部を終わらせるための白じゃなかったよ」


イリスが、わずかに息を止める。


「あれは、喰うものだけを落として、残るものへ息を返そうとしてた。名を奪うためじゃなくて、名が戻る場所を残そうとしてた」


責める言葉のあとに置くには、あまりにやさしい声だった。


だからこそ、軽くは響かない。


「私はまだ、あんたのやり方を正しいとは言えない」


ルーファは視線を広場へ戻す。


泣き直している者。

まだうまく泣けない者。

名を呼び直している母娘。


「削れたものが消えるわけじゃない。痛いままだし、悔しいままだよ」


そこで一度だけ、唇の端をきつく結ぶ。


「でも、あんたまで喰うほうと同じだったとは、私は思わない」


イリスの喉がかすかに震える。


すぐには言葉にならない。


それでも、落ちてきた朝の光の中で、ようやく小さく頷いた。


「……はい」


それだけだった。


けれど、背負う痛みの重さは変えないまま、落ちきらないための支えにはなった。


アッシュは何も言わない。


ただ、イリスのすぐ隣へ戻りすぎることもなく、半拍前の位置を保ったまま広場の外を見る。


近すぎても遠すぎてもだめだと知った距離が、そのまま朝の立ち位置へ残っている。


ルーファがふいに空を見る。


「風の古い呼び方でね」


独り言みたいに言う。


「始まりの色が土地と人の欠けへ噛みはじめる時期を、“冠を探す季節”って呼ぶことがある」


イリスは静かに眉を寄せた。


古い響きだった。

昔語りの埃の中へ埋もれていたものを、いま掘り返したみたいな言葉だ。


ルーファは広場へ目を戻す。


「難しく考えなくていいよ。飛んだ色が、土地とか人の欠けたところに引っかかりはじめるってこと」


朝の広場には、まだ泣き声がある。

まだ呼び直される名がある。

そして、少しだけ楽だった、と零した声も残っている。


「感情があるのは悪くないよ。楽になりたいのも、守りたいのも、人のものだもん」


風が、泣き声の残る広場を薄く撫でる。


「でも、それが色に染まって、“そうするしかない”に変わっていくのは違う」


ルーファの声はやわらかいままだった。


「そういうのが濃くなると、ときどき人や土地に被さって、始まりの色を冠した大きな形を立たせることがある」


イリスは白杖を握る指へ、わずかに力を込めた。


「だから、追うのは色だけじゃ足りないんだよ。何がそれを迎えちゃうのかまで見ないといけない」


イリスは広場を見た。


楽だった、と言った女。

泣き直している母娘。

助かった人たち。

削れた人たち。


ひとつだけを見れば、きっと守り損ねる。


救いの顔をした願いまで、見落とせない。


「……追います」


イリスは小さく言った。


でも声は揺れていない。


「始まりの色も。それを迎えてしまう人たちも。その先で立ち上がるものも」


アッシュがその言葉を受けるように、街の外、もっと遠くを見た。


「恐怖の色が落ちた先へ行く」


短く、断定する。


ルーファが彼を見る。


イリスも白杖を握り直した。


「理由は」


アッシュの返答は、やはり短かった。


「拡散が早い。同調も早い」


それだけで十分だった。


幸福の街で揃っていたのは笑いの角度だった。


けれどその先にあるものは、もっと低く、もっと大きい。

人の呼吸ごと、同じ鳴り方へ寄せてしまう種類の重さだ。


もしあれが深く落ちているなら、ためらう時間は長くない。



イリスは膝へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。


まだ脚は重い。


でも、立たなければいけない。


背後では、笑顔の名残を剥がしながら泣き直す者がいる。

名前を呼び直す声がある。

まだ笑顔の形だけを顔へ残したまま、呆然と朝の空を見ている者もいる。


ルーファは最後に一度だけ風鈴を鳴らした。


大きな風ではない。


この街へ、泣ける余地だけを置いていくための小さな揺れだった。


イリスは黒く沈んだ石畳を見た。


自分が沈めたものを、もう見ないふりはできない。


ここで落とした重さごと、次へ持っていくしかない。


アッシュは振り返らない。


恐怖の色が落ちた先を見たまま、一歩前へ出る。


それが出発の合図みたいだった。


三人は街を出る。


先頭はアッシュ。


少し遅れてイリス。


その外側を、風を読むルーファが並ぶ。


街外れまで来たところで、イリスは一度だけ背後を振り返った。


幸福の街の上空に残っていた橙の余熱は、もうほどけはじめている。


祝祭の残り香みたいに、朝の空へ薄く散っていく。


けれど前を向けば、違う。


遠くのどこかで、見えない誰かが息を呑んだみたいに、世界が低く鳴っていた。


歓喜の余波でこれなら、次は取りこぼしでは済まない。


三人は、その重い方角へ歩き出す。


前方では、国ひとつぶんの深い拍が、もう待っていた。

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