第十八話 人の形、魔女の形②
イリスは白杖を持ち直す。
広場の縁。
割れた窓の真下。
ルーファが左、イリスが中央。
風はそこから中央へ走り、アッシュは噴水の脇で巨体を押し止めている。
白い柄の擦り減ったところへ親指が嵌まる。
ずっと握ってきた場所。
名前を呼ぶ必要なんて、本当はなかった。
手の方が先に知っていたから。
でも、いまは呼ぶ。
初めて、自分の意思で。
「……ルミナリア」
杖が、かすかに鳴った気がした。
視線は交わらない。
それでも、アッシュには届いたと分かった。
ルーファの風が広場を回る。
逃げ遅れた人の肩を掠め、泣き声を散らし、笑顔の残りを剥がしながら、それでも最後には白濁の喉奥へ集まっていく。
巨体の拍が、ほんのわずかにそこへ寄る。
アッシュが走る。
広場の中央、噴水の縁を半周するように動き、白濁の前脚を肩で押し、顎を殴り上げ、喰う口の向きだけをこちらへ固定する。
巨体は怒ったみたいに喰らいつこうとするが、そのたびに彼は半歩外し、半歩潜り、ただ時間だけを奪う。
喰う口が、こちらへ向いた。
イリスは白杖を掲げた。
浅い調律魔法では届かない。
尖りを落とすだけでは、この喰う拍は止まらない。
喰らうものだけを場の外へ落とす“境”がいる。
「――聴け、世界。
《均界音》よ、この場に境を引け。
奪わない。消さない。折らない。
喰らうものだけを、余りの底へ落とせ。
息あるものへは息を返せ。歩むものへは歩みを返せ。名あるものへは名を返せ。
白杖、いま境を示せ。
――ここに均しを。
《ヴァルドム》」
音が、抜けた。
広場から、ではない。
白濁の巨体だけから、ひとつ世界が剥がれたみたいに。
ルーファの風が喰う口へ流れ込み、イリスの均しがそこへ境を引く。
巨体の輪郭が暴れる。
前脚が砕け、背が膨らみ、喉奥で飲み込んだ歓喜と恐れがいっせいに逆流する。
それでも均しは止まらない。
白杖の先から広がった静かな輪が、喰らうものだけを選り分けるみたいに白濁の拍を沈めていく。
ルーファは、息をするのも忘れた。
白かった。
眩しいわけじゃない。
世界から余計な音だけを剥がしたあとに残る、祈りの芯みたいな白だった。
風が乱れない。
乱れないどころか、自分の風律の方が、あの均しを穢したくないとでもいうみたいに、静かに道を譲っている。
喰われかけた人々の拍だけが、その白の縁で、かすかに本来の位置を思い出していく。
あの日、口をついて出た古い名が、また喉の奥までせり上がる。
断彩の魔女。
色が暴れた夜に現れて、断って、均して、世界を凪がせたという、風の一族の古い輪郭。
けれど今は、重ならない。
目の前の白は、終わらせるための白じゃない。
喰うものだけを落として、息あるものへは息を返そうとしている。
名を奪うためじゃない。
名を残すために、ぎりぎりで震えている。
違う、とルーファは心の中でだけ首を振った。
あの日の自分は、似た輪郭だけを見ていた。
でも今は分かる。
こんなふうに、消しすぎまいとして痛んでいる白を、魔女なんて呼びたくなかった。
ルーファは初めて、自分の風律が誰かを守るためではなく、誰かの祈りを通すために吹いていると知った。
イリスの視界が白む。
人の輪郭も、石畳も、風も、全部が遠くなる。
重い。
深い。
このまま落とせば楽になると、身体が囁く。
広く。
もっと広く。
広場ごと静けさへ寄せてしまえば終わる、と。
「だめです……」
自分に言い聞かせる。
「そこじゃ、ない……!」
喰う口だけ。
喰う拍だけ。
そこから先へは触れない。
触れたら、同じになる。
白濁の巨体が最後の暴れを上げる。
広場の中央で、アッシュがその横顔を肩で押し返し、喉をこちらへ向ける。
彼は一歩も引かない。
その無言だけで、イリスには十分だった。
イリスは白杖の先を、白濁の喉奥へ突き込むみたいに振り下ろす。
白い境が閉じた。
次の瞬間、巨大な感情喰らいの輪郭が内側から崩れた。
喰うためだけにあった口が沈み、四肢がほどけ、背を支えていた過剰の拍が一気に抜ける。
獣のかたちは保てず、白濁の塊は意味を失った残滓へ変わって、広場じゅうへ細かく降り始めた。
さらさら、と。
熱を失いきらない白い灰。
頬へ触れても、もう名を喰わない。
ただ、少しだけ熱い。
誰も、すぐには声を出せなかった。
その静まりの中で、あの母親だけが震える手で少女の肩を抱き寄せる。
「リリア!」
掠れた声だった。
一度では届かない。
少女の瞳はまだ薄く、呼ばれた音が自分へ結びつくまで半拍遅れる。
母親はもう一度、今度は泣きそうに、けれどはっきりと呼ぶ。
「リリア……大丈夫。ここにいる。おまえのお母さんは、ここ」
少女の唇が、かすかに動く。
すぐには戻らない。
でも、三度目でようやく視線が合う。
「……おかあ、さん」
返ってきた声は細い。
掠れていて、頼りない。
それでも意味は、途切れきっていなかった。
母親が崩れるみたいに少女を抱きしめる。
全部は戻っていない。
でも、終わってはいない。
イリスの膝が折れかける。
広場の中央から戻ってきたアッシュが、その半拍前に腕を掴んだ。
近い。
削れる距離だった。
触れたところから、熱を奪うみたいな白い痺れがじわりと這う。
けれど今のイリスには、その痛みさえ落ち切らないための支えだった。
離せと言えば、たぶん彼は離す。
それでもイリスは、言わなかった。
アッシュは離さない。
分かったうえで、支えているみたいだった。
「立てるか」
「……ええ」
「観測……無理はある」
「観測しなくて、いいです」
声が掠れる。
それでも、言えた。
ルーファが母娘のそばへ駆け寄り、風鈴を小さく鳴らす。
「笑わなくていいよ。泣けるなら、そのままで」
ルーファは母娘の肩へ風を置く。
「泣けるなら、まだ戻れるから」
その声を聞いた瞬間、イリスの胸の奥で何かがひどく痛んだ。
残せたものがある。
でも、落ちたものもある。
その削れを、自分は知ってしまった。
魔女と呼ばれるなら、こういう形だ。
全部を救えないまま、それでも終わりだけは拒む。
広場の上から、最後の白い残滓が落ちてくる。
アッシュが視線を上へ向けたまま言う。
「終わりではない」
イリスも見上げる。
空には、まだ歪んだ灰が漂っていた。
喰らいは落ちた。
でも、この街に残った歓喜の熱も、恐れの冷えも、世界そのものの噛みつきも、消えたわけじゃない。
広場の静まりの中で、腕に残る白い痺れだけが、アッシュの手がもう離れていることを遅れて伝えてきた。
助かったものの温度と、失ったものの重さだけが、まだどこにも行ってはいない。
その両方を知ったまま、イリスは地面へ膝をついたまま白杖を握り直す。
手のひらの中で、柄の擦り減りだけがやけにはっきりしている。
その硬さの向こうに、さっき自分が落としたものの重さだけが、まだ残っていた。




