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第十七話 人の形、魔女の形

噴水の脇で、笑顔の残りを顔へ貼りつけたまま男が転ぶ。


そこへ、白濁の前脚がかすめた。


たったそれだけで、男の悲鳴が途中で切れた。


口だけが、ぽかんと開く。


「あ……」


すぐ横で女が名を呼ぶ。

けれど男は、呼ばれた音の意味が分からないみたいに首を傾げた。


怯えている顔ではない。


怯え方そのものを忘れた顔だった。


白濁した巨体は、噴水をまたぐように立っていた。


最初に空で見えた“頭”は、近くで見れば獣の頭蓋を真似た空洞にすぎない。

背は屋台二つぶんの幅を持ちながら、うねるたびに高さが変わる。

四肢は長く、太く、一本ごとに節の数が違っていた。


黒ではない。

黒よりもっと色のない、意味を喰う前の空洞みたいな白濁が、無理やり生き物の形を名乗っている。


けれど、喰うという意思だけは明確だった。


イリスとルーファがいるのは、割れた窓の真下――広場の縁だ。

中央の噴水までは、笑顔を貼りつけた人影と倒れた屋台の残骸が幾重にも挟まっている。


その中間へ、アッシュだけが半歩前に出ていた。


喰われる。


感情だけじゃない。


名も、歩みも、誰かと繋がっていた意味ごと削がれていく。


イリスが息を呑むより早く、アッシュが動いた。


中央へ踏み込む、その寸前。


彼の両腕へ黒い符文が走る。

手首から肘へ、肘から肩へ。

暗い脈動みたいに刻まれた紋が、夜気の中で低く熱を持つ。


削る一撃の前兆だった。


「アッシュ、だめです!」


イリスの声が飛ぶ。


だがアッシュは、跳ぶために沈めた重心を止めない。


「拒否」


短い一言だった。


命令への、初めての拒絶。


イリスの胸が強く鳴る。


アッシュは白濁の巨体だけを見たまま、さらに低く言う。


「全員は守れない。おまえは守れる」


その一言に、外套の内の銀輪がきゅ、と熱を持った。


理解が一拍遅れる。


拒否された。

イリスの命令が。


けれどそれは反抗じゃない。

感情でもない。

ただ、彼の中で最優先が揺るがないだけだ。


自分を守るために。


その合理が、いま目の前で人の形を喰う化物へ向かわせようとしている。


「やめなさい!」


今度の声は、最初より鋭かった。


「ここで彩ごと断てば、化物と同じです!」


アッシュの跳躍が、半拍だけ止まる。


白濁の巨体がその隙に顎を落とし、噴水の縁を砕いた。

石片が散る。


アッシュは符文を纏ったまま半歩だけ踏み出しかけ、そこでようやく動きを変えた。


黒い紋が沈む。

両腕の脈動が、石へ染むみたいに薄れていく。


次の瞬間、彼は削るためではなく、止めるために走った。


白濁の前脚を肩で押し、喰う口の向きをずらす。

拳を叩き込み、膝で顎を跳ね上げ、広場の中央から縁へ向かう軌道だけを消していく。


ただ身体だけで、化物の暴れ方を半拍ずつ狂わせる。


「逃げて! 泣いてていい、泣けるならそのままでいいから、足だけ動かして!」


ルーファは広場の縁から動かない。


風鈴を鳴らし、淡銀の風を人々のあいだへ細く流す。

抱きついた腕をほどき、固まった膝へ順番を返し、止まりかけた呼吸を前へ押し出す。


けれど足りない。


ひとりを立たせれば、別の誰かが転ぶ。

ひとつ悲鳴が戻れば、別の場所で笑顔の残りが足を取る。


白濁の巨体は、セラフィオが残した歓喜の熱だけじゃなく、いまこの瞬間の恐怖も、混乱も、逃げ遅れた人間の躓きさえ喰い込み、拍のたびに膨れ直していた。


噴水の右脇。


アッシュが白濁の顎を前腕で逸らす。


広場の縁。


ルーファが風で人をほどく。


そのさらに右隣、割れた窓の真下で、イリスだけがまだ動けない。


白杖を握った手の中で、手順だけが鮮明に並んでいた。


どこをどれだけ薄めれば、どの拍から順に落ちるのか。

どの深さまで触れれば、広場じゅうが静まるのか。


身体が覚えている。


祈りみたいに。

呪いみたいに。

昔からそこに刻まれていたみたいな正確さで。


白濁の尾が横薙ぎに振られる。


噴水の裏手で尻もちをついていた少女が、逃げきれずにその影へ飲まれた。


悲鳴は最後まで届かなかった。


少女は母親らしい女を見上げて、小さく言う。


「……だれ?」


女の顔から血の気が引く。


その一言で、広場の空気がもう一段冷えた。


ルーファの風が止まりかける。


アッシュが低く吐く。


「このままでは、全部喰われる」


その現実だけが、広場の中央で硬く鳴った。


守ると決める段階は、もう過ぎている。

いま問われているのは、そのために何を落とすかだった。


イリスの視界が揺れる。


目の前の光景が、別の何かと重なった。


知らないはずの景色だった。


空が喰われる。

街が喰われる。

人が、人の名を失っていく。


泣いているのに何をなくしたのかさえ分からず、ただ輪郭だけが薄れていく終わりの姿。


記憶じゃない。


けれど身体の奥の、もっと古いところが、それを知っている。


外套の内で、銀輪が焼けるみたいに熱を持つ。


――均せ。


声がした。


耳じゃない。

もっと深い場所で、呪いみたいに響く声だった。


均せ。

均せ。


均せば終わる。

均せば静まる。


広く。

深く。

人ごと。

全部。


「……違います」


イリスの唇から、かすれた声が落ちた。


ルーファが振り向く。

アッシュも、白濁の横顔を殴り飛ばしたままこちらを見る。


「人の感情を削りたくない」


喉が痛い。


でも、逃げない。


白濁の巨体が、喰うためだけの音を漏らす。

そのたび、広場の残滓が吸われる。


現実は待ってくれない。

理想は、簡単に砕ける。


それでも。


「でも、ここで迷って全部喰わせるくらいなら」


イリスは顔を上げた。


紫銀の底へ、細い金が差す。

揺れていた瞳が、そこで初めて定まった。


守りたいと決めたのは、もう前の瞬間までに終えている。


いま選ぶのは、そのために何を引き受けるかだった。


「私は、自分で選びます」


ルーファの顔が強ばる。


「イリス、それって……」


「全部を救えないかもしれない」


イリスは白杖を握りしめる。


「何かを落とす。何かを削る。魔女と呼ばれても、おかしくない」


銀輪が熱い。


均せという声が、まだ奥で鳴っている。


でも、もうそれに従うだけじゃない。


「それでも違う」


金の差し色が、瞳の奥で細く強く燃えた。


「役目だからじゃありません。私が、人の形を守りたいからです」


その一言で、胸の奥の何かがようやく定まる。


選んだのは手順じゃない。

自分だ。


ルーファが一歩だけイリスへ寄る。


「だめ」


やわらかい声なのに、そこだけは鋭かった。


「削って守るのは、守るのと違う」


イリスの喉が詰まる。


けれど、ルーファは止まらない。


「泣くなら泣けるまま、苦しいなら苦しいまま、ちゃんとその人の中に残っていてほしいの」


風鈴が、かすかに鳴る。


「痛いって分からなくなったら、人は自分を守れない。悲しいって残らなかったら、誰を失ったかも抱きしめ直せない」


その理想は、イリスも知っている。


さっきまで、自分もそこへ手を伸ばしていた。


でも、目の前で少女が「だれ?」と言った。


現実が、理想を先に砕いた。


ルーファも、それを分かってしまっている顔だった。


それでも、なお引かない。


「感情は、邪魔でも傷でもあるよ」


ルーファはイリスをまっすぐ見た。


「でも、だからって削っていいものじゃない。それを残したまま立たせるのが、私の風律」


止めたい。


でも通じない。


いや、通じる段階がもう過ぎている。


ルーファは息を呑み、唇を噛み、それでも問う。


「……それでも行くの?」


「行きます」


イリスは即座に答える。


「ここで何もしなければ、あの子は名ごと喰われる」


一拍。


ルーファの翡翠の瞳が揺れた。


「それが正しいとは、私はまだ言えない」


その言葉は拒絶であり、同時に退かない宣言でもあった。


「……でも、見捨てるのはもっと違う」


ようやく、ルーファは問う。


「私に、何ができる?」


イリスは白濁の巨体を見上げた。


噴水をまたぐ喰う口。

そこへ広場じゅうの拍が吸われている。


「風を、あれへ」


「どこへ?」


「喰う口へ。できるだけ、あれだけに」


イリスは答える。


「これから落とす均しが、人へ行かないように。喰う拍だけへ寄せてください」


ルーファの翡翠の瞳が揺れる。


「それでも零れるかもしれない」


「分かってます」


「削れるかもしれない」


「それでも」


イリスは目を逸らさない。


「ここで何もしないより、ましです」


風鈴が、かすかに鳴った。


ルーファはすぐには頷かなかった。


喰う口を見上げ、人々の乱れた拍を見て、それからイリスを見る。


「……賛成はしない」


静かな声だった。


「でも、あれに全部喰わせるよりはいい」


そこでようやく、頷く。


「できるだけ、あれだけに流す。零れそうになったら、私が人の方を引き戻す」


「お願いします」


イリスは次に、中央のアッシュを見る。


噴水の右脇。

白濁の顎を打ち上げ、尾を躱し、広場の縁へ向けないためだけに身体を差し込んでいる。


「アッシュ」


「いる」


「時間を稼いでください。」


アッシュは白濁の前脚を肘で外しながら、短く返す。


「危険だ」


「分かってます」


「おまえが落ちる」


アッシュの声は低い。

白濁ではなく、もうイリスの呼吸の乱れだけを見ていた。


「だから命じます」


その瞬間、アッシュの動きが止まる。


拒否のあとで、もう一度届く命令。


彼を縛るためじゃない。


自分が、自分で背負うための。


アッシュは何も言わない。


ただ、白濁の喉をこちらへ向け直した。


それが返答だった。

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