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第十六話 祝祭②

イリスは白杖を結界の縁へそっと触れさせた。


「――聴け、世界」


ひどく小さな声だった。


だが、淡銀の風の上へ、さらに薄い透明の膜が一枚だけ重なる。

削るためじゃない。

零れないよう、いまだけ支えるための、ひどく薄い均しだった。


軋んでいた結界の縁が、かすかに持ち直す。


イリスは正面を見据えたまま、今度ははっきり命じる。


「行きなさい、アッシュ!」


一拍。


結界の外で、笑ったままの手がまたいくつも伸びる。


「対象、セラフィオ」


アッシュが確認する。


「はい」


「離れる」


「はい」


「戻るまで、おまえへ届く危険が増える」


イリスはようやく彼を見た。


「近すぎても、遠すぎてもだめです」


それは言い聞かせる声じゃなかった。

信じて預ける声だった。


「だから、ちゃんと戻ってきてください。届くところまで」


ほんの一瞬だけ、アッシュの親指が人差し指の第二関節をなぞった。

すぐに手を下ろす。


「……了解」


ルーファが横目で二人を見る。


何か言いかけて、言わない。

代わりに両手を結界の縁へ添えた。


「行くなら右から」


淡銀の風が流れを変える。

笑いの圧が一瞬だけ右へ偏った。


「三歩ぶんだけ隙間を作る。人の呼吸は私がずらす」


アッシュはもう返事をしない。


一歩だけイリスから離れる。

その瞬間、薄くなっていた結界の縁が少し戻る。


次の拍で、銀灰の影が外へ出た。


速い、と思う前に結果が起きる。


笑ったまま飛び込んできた男の顔が、ふっと揺らいだ。

肩を掴もうとした手が止まる。

その隣の女も、さらに後ろの子どもも、アッシュの通った筋だけ笑いの命令を一瞬失ったみたいに足を止めた。


「……あ」


誰かが、自分の喉で初めて息をした。


アッシュは振り向かない。


伸びた腕を外し、肩へ乗った手を流し、足を払わずに進路だけ奪う。

断たない。

斬らない。

ただ触れた場所から、狂気の熱だけが落ちていく。


命令性を帯びた笑顔の群れの中を、無の薄い筋だけが一直線に走った。


セラフィオの笑みが深くなる。


「やっぱり、きみは綺麗ですね」


褒めるみたいに言う。


「祝祭を終わらせる手つきだ」


その返事代わりに、アッシュの拳が飛ぶ。


セラフィオは半歩ずらして躱す。

祭服の裾が擦れ、金糸が灯りを引く。

広場全域へ術を張ったままなのに、逃げ方に一分の隙もない。

正面から殴り合うより、半歩外して相手の勢いだけを逸らす。

舞うように軽いのに、全部が正確だった。


二撃目。

三撃目。


アッシュはなお刃を抜かない。

《断彩》なら速い。

けれど抜かない。


拳と膝と蹴りだけで、少しずつ逃げ道を削っていく。


セラフィオもまた、ただ逃げてはいなかった。


笑ったまま袖の内側から橙の粒子を散らし、石畳の灯りを脈打たせる。

群衆が波みたいにアッシュの足元へ寄せられる。

広場の術を維持したまま、噴水の縁を足場に舞い続ける。

その身のこなしは軽業めいているのに、間合いの外し方はひどく冷静だった。


拳が掠める。

膝が浅く入る。


セラフィオの頬に赤い線が走った。


「……おや」


初めて、彼の声に本物の驚きが混じった。


アッシュの膝が今度は腹へ入る。


軽くではない。

確かに入った。


セラフィオの身体がくの字に折れ、足が半歩だけ噴水の縁から滑る。


そこで一瞬、彼の笑みが剥がれた。


歓びが、薄くなる。


それが自分の内側で起きているのだと、彼自身が気づいたのだ。


「これは」


吐息みたいに漏れた声はまだ静かだった。

だが、その静けさの底に初めて警戒が差す。


アッシュは無言で踏み込む。


人の感情を増幅して舞台を作る相手にとって、自分の感情が削られることは、単なる打撃よりずっと異質だった。


セラフィオは後ろへ退きながら、なお笑う。

笑うことで自分を保とうとしているみたいに。


「きみは、本当に」


その途中で、アッシュの足払いが来る。


セラフィオは身を浮かせて避け、その反動をそのまま蹴りへ変えた。

歓びの舞踏みたいに軽いのに、芯だけが鋭い。


踵がアッシュの脇腹へ正確に入る。


銀灰の影が横へ弾かれ、噴水の石へ肩からぶつかった。


重い音。


けれどアッシュは倒れきらない。

片膝をつき、そのまま顔を上げる。


セラフィオは追撃しなかった。


代わりに、空を見た。


灰が、降っていない。

降る向きを忘れたみたいに、広場の真上だけで渦を巻いている。


笑顔の残滓。

切れずに残った幸福の命令。

セラフィオが溢れさせた歓喜の熱。


その全部へ吸い寄せられるみたいに、白い粒が中心へ集まっていた。


その奥に、影がある。


獣の輪郭を借りながら、獣では済まない大きさの影。


セラフィオの琥珀の瞳が、それを映して細くなった。


驚愕ではない。

むしろ満足と興味が、同時に差した。


「……なるほど」


静かな声だった。


「ここからは、私の舞台だけでは足りませんか」


イリスの背筋が凍る。


嫌な相関だ、と身体の奥で理解が鳴る。


人の願い。

使徒の煽動。

その上へ、世界の浄化機能が噛みつく。


セラフィオはそれを完全には支配していない。

でも、恐れてもいない。


そこがいちばん不気味だった。


彼はイリスたちへもう一度視線を落とした。


追い詰められた敵の目じゃない。

幕が変わる瞬間を見届ける演出家の目だった。


「見せてもらいました」


白い祭服の裾が夜気の中で揺れる。


「あなたたちは、人を残そうとする」


その視線はイリスへ。


「それはとても、美しい失敗をしますよ」


次にアッシュへ。


「きみはやはり、私にとって無粋すぎる」


最後にルーファへ。


「でも、風がいるから、まだ壊れきらない」


その背後で、空間が薄く裂けた。


光でも闇でもない、縫い目みたいな継ぎ目。


セラフィオはそこへ半歩退く。


速くない。

止めに来るならそれも受けるつもりでいるみたいな、余裕の遅さだった。


「また会いましょう」


口元の笑みは少しも崩れない。


「次は、もっと大きな祝祭で」


次の瞬間には、白い姿ごと継ぎ目の向こうへ溶けた。

裂け目もすぐに閉じる。


あとへ残ったのは、彼のいた場所だけが妙に明るく見える違和感だけだった。


広場の笑いが、そこで途切れた。


唐突に。

糸を切られたみたいに。


誰も笑わなくなる。

けれど、笑顔だけが残っていた。


頬の形だけがそのまま固まり、目だけが茫然と揺れている。

自分がなぜ笑っていたのか分からないまま、口元だけが元へ戻れずにいる。


「……終わってない」


ルーファが低く言う。


風の結界を保ったまま、空を見ていた。


「むしろ、ここから」


アッシュが立ち上がる。


脇腹へ入った一撃を気にする様子はない。

けれど視線だけは上へ固定されていた。


「上」


イリスも見上げる。


灰が濃い。

濃すぎる。

降るのではなく、吸い寄せられている。


広場に残った笑顔と、切れずに残った幸福の命令と、セラフィオが溢れさせた歓喜の熱、その全部を餌にするみたいに。


影が、形を持つ。


最初は頭だけだった。

次に背。

次に、広場を覆い隠すほど大きな四肢。


黒ではない。

黒よりもっと色のない、意味を喰う前の空洞みたいな白濁だった。


その口が開く。


笑っていない。

歓んでもいない。

ただ、喰うためだけの形がそこにあった。


広場の誰かが、ようやく自分の喉で悲鳴を上げる。

その声は笑顔のまま裂けた。


イリスの指が白杖を握りしめる。

ルーファの風鈴が鋭く鳴る。

アッシュが、前へ半歩出た。


人の側の敵は去った。

けれど、その後に立ち上がったものの方が、ずっと大きい。


人の悪意が退いた場所へ、今度は世界の空腹が口を開いた。


広場の真上で、巨大な感情喰らいがゆっくりと口を開いた。

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