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第十五話 祝祭

イリスとルーファが石畳へ降りた瞬間、広場の空気はもう人のものじゃなかった。


砕けた窓から散った玻璃片が灯りを弾き、そのひとつひとつが笑い声の欠片みたいに明滅している。

三人が立ったのは広場の縁、割れた窓の真下だ。

中央の噴水までは、抱き合った人影と屋台の残り火と、笑顔の列が幾重にも挟まっている。


その手前へ、アッシュはすでに半歩だけ出ていた。


けれど、その先に白い祭服は見えない。


噴水の縁にも、屋台の影にも、石段の上にも、あの淡金の男は立っていなかった。


いない。

なのに、いる。


そうとしか言えない薄い笑いが、広場じゅうの顔の内側へ均等に混じっている。


「いい光景でしょう」


声が降った。


正面から聞こえたと思った次の拍には右の屋根へ移り、次には背後、次には抱き合ったまま離れない男女のあいだから染み出す。


ルーファが息を詰めた。


「位置が取れない」


「群衆ぜんぶを媒質にしてる」


イリスが答えた、その直後。


広場の灯りが一段だけ明るくなった。


火が強まったわけじゃない。

笑っている人間の頬と唇だけが、不自然に鮮やかさを増したのだ。


そして、声が来る。


今度はどこからかではなかった。

広場そのものが、口を開いたみたいに響いた。


「さあ、笑いましょう。

涙も震えも、今夜は祝福に変わる。

悲鳴さえ、拍手みたいに美しい。

歓喜律五階位――《橙・祝祭圏》」


最後の一音と同時に、広場のあちこちで橙の粒子がふっと灯った。


人の口元。

濡れた睫毛。

屋台の油紙。

噴水の水面。

吊るされた灯火の硝子。


点々と散っていた橙が、次の拍には細い糸になって互いを結ぶ。

笑顔から笑顔へ、灯りから頬へ、頬から声へ。

祝祭の飾り紐みたいに見えるのに、絡まれた空気そのものがじわりと甘く重くなる。


広場の上へ、見えない天蓋が下りたみたいだった。


イリスの背筋を冷たいものが走る。


「これは……」


ルーファがすぐに答えた。


「歓喜の律を、広場じゅうに立ててる」


やわらかい声なのに、そこだけは切っ先みたいに鋭い。


「ひとりへ撃ち込む術じゃない。ここ一帯の呼吸と心拍を、同じ明るさへ揃えてる」


風鈴を握る指先がきゅ、と鳴る。


「しかも五階位……ここまで自然に人へ混ぜるの、並の使い手じゃない」


最後の一音が落ちた瞬間、人々がいっせいに笑った。


笑った、というより、笑顔が先に顔へ貼りついた。


「しあわせ」

「だいじょうぶ」

「うれしい」

「ほら、笑って」


同じ抑揚。

同じ熱。

同じ角度。


井戸のそばの老人が、近くにいた子どもの肩を掴んだ。

果実売りの娘が、友人の頬へ両手を添え、口元を持ち上げるみたいに撫でる。

抱き合っていた男女がようやく離れたかと思えば、今度は別の誰かの腕を掴みにいく。


全部、慰めの形をしていた。


でも、その指だけが強すぎた。


「来る」


ルーファの風鈴が鋭く鳴る。


淡銀の風が三人の周囲を円く走り、石畳の上へ薄い膜を張った。

イリスが中央、ルーファがその左、アッシュが半歩前。

壁というより、呼吸の通り道だけを守る柔らかい結界だった。


次の瞬間、最初の一人が飛び込んできた。


笑顔のまま両腕を広げ、抱きしめるみたいな仕草で突っ込んでくる。

だが開いた腕の角度は受け止めるためじゃない。

逃がさないための開き方だった。


結界がちり、と鳴る。


その女の身体が風に押し戻される。

けれど止まらない。

足をよろめかせながらも笑い、笑いながらまた手を伸ばしてくる。


その後ろで三人。

さらに五人。


老若も男女も関係なく、笑ったままこちらへ押し寄せてきた。


「だいじょうぶだから」

「こわくないよ」

「笑えば、楽になるよ」


言葉だけなら優しい。

優しいはずなのに、数が増えるほど命令になった。


イリスは白杖を握った。


けれど振れない。


ここで広く均せば、人の側へ触れる。

しかも近い。多い。広い。

落としたいのは命令性なのに、その命令へ縋っている“安心したい”“もう苦しみたくない”まで、いまはきれいに切り分けられなかった。


それなのに、手の中では手順だけが鮮明に並ぶ。


どこをどれだけ薄めれば、どの拍から順に落ちるのか。

どの深さまで削れば、広場じゅうが静まるのか。


身体が覚えている。

祈りみたいに、呪いみたいに、昔からそこに刻まれていたみたいな正確さで。


「イリス」


アッシュの声は低かった。


広場全体を見たまま、もう処理順を組み立てている声だった。


「街ごと落とせば、速い」


その一言で、イリスの胸が沈む。


それがいま、この場でいちばん確実な手だと分かるからだ。

だがそれは、自分が選びたくない手でもある。


「だめ」


ルーファが即座に言った。


柔らかい声なのに、そこだけは硬い。


「いま広く触ったら、人のほうまで削れる。ここはもう“喜び”だけじゃない。“楽になりたい”まで混ざってる」


結界の縁に手を添え、風をもう一段厚くする。


だが同時に、結界の左端がじり、と薄くなった。


イリスは見た。


アッシュの位置は、自分へ最短で割り込める距離に保たれている。

近づきすぎない。

自分の輪郭を削らない、そのぎりぎりで止まっている。


けれど、その位置にいるだけで、無の気配はルーファの風の膜を少しずつ痩せさせていた。


守れる距離。

だが、長くは持たない距離。


セラフィオが笑った。


今度は噴水の上からだった。


白い祭服が、ようやくそこに現れる。


中央の噴水の縁へ片脚を掛け、広場全体を見下ろす位置。

吹き飛ばされた直後とは思えないほど整った姿だ。

髪も乱れていない。

呼吸も乱れていない。

ただ、頬にだけ、ごく薄い擦過の赤が一筋ついていた。


それさえ化粧みたいに見えた。


「良いですね」


彼は本当に楽しそうだった。


「皆さん、ちゃんと救われたがっている。泣き顔のままでいたい方なんて、本当はそんなに多くない」


片手を上げる。


その指先に合わせて、広場の笑いがまた一段そろった。


「見てください。これが戻ってきた世界の熱です。嬉しいも、痛いも、寂しいも、ぜんぶちゃんと大きい。凪より、ずっと美しい」


「美しくない」


ルーファが返す。


「これは戻ってきたんじゃない。逃げ場をなくしてるだけ」


「逃げ場?」


セラフィオは心底おかしそうに目を細めた。


「人はいつだって、いちばん明るい出口へ向かうものですよ」


その言葉で、広場の群衆がまた一歩近づいた。


結界が軋む。


その外で笑う女の目元には、まだ涙の痕が残っている。

泣いた直後なのだと分かるのに、口元だけが幸福そのものみたいに持ち上がり、誰かを笑わせようと必死に手を伸ばしていた。


イリスの喉が痛くなる。


あれは命令だ。

でも、あれに従っている側の「楽になりたい」まで、嘘じゃない。


「……救いじゃない」


誰に言うでもなく、言葉が落ちる。


セラフィオの視線がすぐに刺さった。


「まだそう言えるんですね」


嬉しそうですらあった。


「素晴らしい。あなたは本当に、苦しみを苦しみのまま抱えて立てる」


その声に、また胸の奥が軋む。


《断彩の魔女》に似たと言われたさっきの一言が、まだ身体の内側に残っていた。


セラフィオは二人のやり取りさえ愉しむみたいに、噴水の上で静かに笑っていた。


「どうぞ」


両手を広げる。


「選んでください。薄いまま守るか、濃く壊れてでも生き返るか」


「二つしかないみたいに言わないで」


ルーファが言う。


「人が人でいられる濃さはある」


「ええ。理想ですね」


セラフィオはやわらかく頷いた。


「でも多くは、そこまで器用じゃない」


その二択が広場じゅうへ覆いかぶさる。


広く均せば、人を削る。

ためらえば、笑いはさらに増える。


セラフィオはそれを分かったうえで、ずっと笑っている。


その時、アッシュが低く言った。


「違う」


短い一言だった。

だが、その声だけで空気が変わる。


「人とあれが繋がってる」


イリスははっとして噴水の上を見た。


橙の粒子が、ただ広場へ散っているわけじゃない。

笑顔から笑顔へ渡っていた糸の収束先がある。

噴水の縁に立つ白い祭服。

その足元を中心に、広場じゅうの笑いが拍を合わせ、同じ角度へ引かれていた。


「拍の芯はあれだ」


アッシュの視線はセラフィオを外さない。


「人の側を先に落とす必要はない。あれを断てば、押しつけは弱まる」


ルーファは風の流れを確かめるみたいに一度だけ目を細め、それから頷いた。


「確かに……風も、あそこへ引かれてる。広場の拍はあれが立ててる。元を止めれば、まだ人の側は戻せる」


イリスも噴水の上を見た。


白い祭服。

橙の糸の収束。

笑顔の角度を揃えている、あの中心。


先に叩くべきものは、もう迷いようがなかった。


なのに、アッシュは動かない。


結界の縁が、じり、とまた薄く鳴る。


彼の立ち位置は変わらない。

セラフィオへ最短で届く位置ではなく、イリスへ最短で割り込める位置に置かれたままだ。


そこで初めて、イリスは分かる。


方針が決まっても、彼は即座に走れない。

自分から離れることが、守る優先順位を崩すからだ。


離れたくないからじゃない。

守る優先順位を崩せないから。


その合理が、結果として過保護に見える。

その不器用なくらいまっすぐな優先順位が、胸の奥へ熱く痛んだ。


「……離れたら、私を守れない」


アッシュは否定しない。

その沈黙で十分だった。


イリスは白杖を握る指へ力を込める。


「でも、近すぎたら今度はあなたが私を削る」


そこでようやく、ほんの少しだけ口元が歪んだ。


皮肉みたいな、泣きそうなのを誤魔化すみたいな笑みだった。


「面倒ですね、私たち」


アッシュの視線が、初めてセラフィオから外れてイリスへ落ちる。

それは迷いを測る目じゃなかった。

もう決めたかどうかを確かめる目だった。


イリスは息を吸う。


胸の奥で鳴っていた迷いとは別のところに、細く硬い芯が立つ。


役目だからじゃない。

刷り込まれた手順だからでもない。


自分が守りたいからだ。


あんな笑顔のまま、この街の人たちを壊させたくない。

ルーファの風まで、この場で裂かせたくない。

アッシュもまた、自分のそばで止めたくない。


そのどれも、自分が嫌だった。


紫銀の底へ、細い翠が差した。


「私が、守りたいからです」


その一言で、胸の奥の何かがようやく定まる。


選んだのは手順じゃない。

自分だ。

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