第十四話 色の使徒②
塔の最奥から噴き上がり、空へ逃げた八つの光。
深紅、深紫、深青、翠、金、白、橙、黄緑。
あの夜、白の核から飛んだ始まりの色を、この男は別の名で呼んでいる。
セラフィオは、それをわざと分かるように口にしたのだ。
「眠っていた色は、もう戻る。なら歓迎すべきでしょう。泣ける世界を。怒れる世界を。狂える世界を。生きている実感に満ちた世界を」
外の笑いが、またひとつ揃う。
同じ高さ。
同じ抑揚。
同じ角度。
セラフィオの声が部屋の中で響くたび、それに合わせて街の気配が整列していくのが分かった。
意味を説いているようで、実際には“そうであれ”を染み込ませている。
聞くほどに、呼吸までその明るさへ合わせたくなる。
拍に噛みつく声だった。
ルーファの指が風鈴へ触れた。
「笑ってるのに、誰も楽じゃない」
その一言は、叩きつけるのではなく、痛い場所へ静かに灯りを置くみたいだった。
セラフィオは少しだけ首を傾げる。
「楽でなくてもいいんです。濃ければいい。痛みも歓びも、薄いよりずっと美しい」
「よくないです」
イリスはきっぱり言った。
「それは救いじゃない。黙らせているだけです」
「……なるほど」
今度の相槌は、さっきとは違った。
吟味するような静けさがあった。
セラフィオの目が、初めてはっきりとイリスだけを見た。
「断彩の魔女に似た方だ」
唐突だった。
断じるでも、問い返すでもない。
昔から知っている名を、目の前の輪郭へそっと重ねるみたいな言い方だった。
イリスの肩が強ばる。
なぜ、その名をこの男が口にできるのか。
問うより先に、胸の奥で何かが冷たく軋んだ。
セラフィオはその反応を見て、ほんのわずかに笑みを深くした。
「……でも、違う」
その声は甘かった。
見透かすためではなく、触れて確かめるための甘さだった。
「あの魔女のようで、違う。あなたは奪う側ではなく、笑わせる側の顔をしている」
胸の奥で銀輪がきゅ、と鳴った。
違う、と即座に否定したいのに、その言葉だけがうまく出ない。
均すたび苦しい。
落とした先に、自分の欲しかったものまで混じっている気がする。
笑わせる側。
そんなものではないはずなのに、その言い方は、ただの侮辱よりずっと深く刺さった。
さっきルーファへこぼした迷いを、この男は最悪の角度から撫でてくる。
しかもその声は甘い。
毒だと分かるのに、一瞬だけ耳を貸したくなる種類の甘さだった。
扉脇の気配が、すっと沈む。
アッシュだった。
重心が低く落ちる。
肩の位置が下がる。
視線だけが一直線にセラフィオを射抜き、その途中でほんの一度だけ、イリスの立ち位置を測った。
最短なら落とせる。
その確信が、言葉になるより先に伝わってくる。
けれど今のままでは、自分がその軌道にいる。
踏み込めないのではない。
踏み込める形になるのを、待っている。
その無言だけで分かった。
セラフィオが愉快そうに笑う。
その笑いは、祝祭のど真ん中だけを切り取ったみたいに明るかった。
明るいのに、人の破綻ごと抱きしめる種類の光だった。
「いいですね。その逡巡」
彼は今度はアッシュではなく、イリスへ言った。
「断てるのに、断たない。落とせるのに、まだ落とさない。そういう躊躇いは、とても人間らしい」
アッシュは答えない。
ただ、殺気だけが研がれていく。
任せれば届く。
自分が道を空ければ、あの一撃は迷わず通る。
その確かさが、胸の奥の迷いとは別の場所を支えた。
このまま話させれば、部屋ごと街の続きを始められる。
壁の向こうの“しあわせ”が、もう壁の外のものではなくなりかけている。
ここで迷いを深くしたら、自分の迷いそのものが向こうの拍に噛まれる。
考えるより先に、身体が選んだ。
「アッシュ、今!」
叫ぶと同時に、イリスはその場へ低く沈む。
膝を折り、頭を下げ、一直線の射線から自分を外す。
視界がぶれた次の瞬間には、アッシュがもういた。
見えたのは最初の一歩だけだった。
次は結果だった。
銀灰の影が扉脇から消え、セラフィオの懐へ突き刺さる。
鳴るはずの衝突音が半拍遅れて来る。
アッシュの脚が男の胴を正確に捉え、祝祭めいた長衣ごと夜の向こうへ叩き飛ばす。
窓が割れた。
木枠が裂け、冷えた外気と笑い声が一気に雪崩れ込む。
セラフィオの身体は砕けた窓を突き破って外へ消え、その直後にはアッシュもためらいなく窓枠を蹴って追っていた。
けれど吹き飛ばされながらも、セラフィオは笑っていた。
悲鳴ではない。
歓声に近い笑いだった。
自分が舞台の中央から落とされるその瞬間さえ、ひとつの高まりとして味わっているみたいに。
「おもしろい……!」
砕けた窓の向こうで、その声だけが妙に明るく弾んだ。
負け惜しみでも、怒声でもない。
ただ本気で、この衝突そのものを愛している声だった。
「行くよ」
ルーファが先に動く。
風鈴が今度はちり、と短く鳴った。
イリスは白杖を掴み、割れた窓の縁へ駆け寄る。
外では広場の灯りがさっきより明るい。
明るいのに、祝祭の色じゃない。
どこか一点へ引き絞られたみたいに、街じゅうの笑いが同じ高さで震えている。
砕けた窓の向こう、広場の中心へ白い祭服の影が落ちていくのが見えた。
セラフィオは吹き飛ばされたのに、墜ちる姿までどこか優雅だった。
敗走ではない。
舞台を移しただけだとでも言いたげに。
その下で、人々がいっせいに顔を上げる。
笑ったまま。
同じ角度で。
同じ明るさで。
そして、その口々がまた揃う。
「しあわせ」
イリスは窓枠へ足をかけた。
もう、部屋の中には戻れない。
夜は外で壊れている。
いや、もう、壊れる形を決め終えている。
ルーファが先に飛び降り、風で着地の衝撃を殺す。
アッシュはすでに広場の石畳へ降り立ち、吹き飛んだ先の影だけを見ている。
イリスもその後を追った。
笑いの中心へ。
祝福の顔をした異常の、ど真ん中へ。




