第一三話 色の使徒
部屋の灯りが、落ちた。
消えた、と思うより早い。
まばたき一回にも満たない暗転だった。
なのに、その一瞬で部屋の形がまるごと入れ替わったみたいに、イリスの背筋へ冷たいものが這い上がる。
すぐに灯りは戻る。
薄い壁。
狭い寝台。
机。
窓。
扉脇のアッシュ。
窓辺のルーファ。
そして、さっきまでいなかった男が、イリスの真後ろに立っていた。
近い。
振り返れば肩が触れるほど近いのに、気配だけが遅れて届く。
白金に近い淡金の髪が灯りをやわらかく返している。
白を基調に金糸を走らせた長衣は、旅装でも戦装でもなく、祝祭の司祭がそのまま夜へ降りてきたみたいだった。
口元はわずかに笑っている。
薄い琥珀の瞳も笑っている。
けれどその笑みは、人を安心させる種類のものではない。
幕が上がる直前、喝采も悲鳴も区別せず愛せる役者の顔だった。
男は驚かせたことを詫びるでもなく、親しい相手へ朝の挨拶でもするみたいな穏やかさで言った。
「あなた達、幸せですか?」
イリスはとっさに息を止めた。
その一言だけで、外の笑い声が一段近づいた気がした。
壁の向こうで跳ねていたはずの“しあわせ”が、急に部屋の中へまで薄く染み込んでくる。
ルーファの風鈴が、鳴る寸前で小さく震えた。
アッシュは動かない。
いや、動けないのだとイリスには分かった。
扉脇からここへ踏み込めば、最短でこの男を落とせる。
けれど今の自分はちょうどその動線上にいる。
ここでアッシュが無や《断彩》を切れば、男より先に自分の輪郭が削られる。
男はそれを知っているような、落ち着いた笑みを崩さなかった。
「素晴らしい」
視線が、まずイリスへ落ちる。
「こんな夜にまだ、そんな顔でいられるなんて。曇りを曇りのまま抱えていられる方は、案外、少ない。多くはね、もっと早く楽になりたがる」
「……誰ですか」
イリスが問うと、男は胸へ片手を当て、芝居がかった大仰さではなく、よく整えられた礼の角度で頭を下げた。
「セラフィオ・ラハルト」
それから、ほんの少しだけ口角を上げる。
「色の使徒の一人です。そう名乗れば、風の方には分かりやすいでしょうか」
ルーファの瞳が細くなった。
「……やっぱり」
声はやわらかいままだった。
けれどそのやわらかさの底から、風の張りが一段硬くなる。
風の一族のあいだで、名だけは残っていた。
凪の時代にも地下水みたいに消えず、色が戻ることを祝福と呼び、静かな世界を“病”だと言い続けた者たち。
「再彩に希望を託すのとは違う」
ルーファは短く言った。
「私は、戻ってきた色で人がもう一度“この人”でいられるならって思うだけ。あなたたちは違う。溢れさせて、壊れるほど濃くして、それを救いだって言う。街の拍を揃えてるの、あなたなんだね」
「揃えている、とは少し違います」
セラフィオは困ったように笑った。
けれど、その笑いには喜色があった。
見抜かれたことさえ愉しんでいる顔だった。
「戻しているんです。本来あるべき賑わいへ。凪は長すぎた。静かすぎた。痛いのに泣けない。怒っているのに歯も食いしばれない。嬉しいのに、胸が跳ねることさえ忘れている」
声はやわらかい。
やわらかいのに、その奥では何かが熱病みたいに明るく燃えていた。
「私は、ああいう世界が嫌いです。色の乏しい世界。感情の薄い世界。何ひとつ溢れない、あの息の詰まる凪が」
琥珀の瞳が、そこで初めて強く輝いた。
「再彩は祝福だ」
その言葉は、宣言というより恍惚に近かった。
「笑いだけじゃない。泣き崩れる顔も、怒りに震える声も、愛しさで壊れそうになる沈黙も、ぜんぶ美しい。人が人である限り、感情は溢れるべきなんです」
彼はそこで、窓の外へ一度だけ視線を流した。
広場のどこかで、泣きながら笑っている女の声が細く震えている。
その震えを聞き取った瞬間の顔が、いちばん危うかった。
「私は歓びをいちばん愛していますけれどね。あれほど無防備で、あれほど伝染して、あれほど世界を明るく彩る感情はない。薄い幸福より、壊れる歓びのほうが、ずっと人間らしい」
セラフィオが、祈るみたいに指先をひらりと返す。
外で誰かが笑う。
その笑いが、まるでその言葉へ応えるみたいに同じ高さで重なった。
その言葉はきれいだった。
きれいすぎて、イリスは逆に背中が冷えた。
「祝福じゃありません」
気づけば、声が先に出ていた。
セラフィオの目がわずかに細まる。
興味を持たれたのだと分かる視線だった。
イリスは続ける。
「外で起きているのは、喜びじゃない。幸福そのものでもない。苦しいのに笑えと押しつけて、怖いのに大丈夫だと言わせているだけです」
「ええ。途中までは、その通りでしょう」
否定しない。
それが余計に気味が悪かった。
セラフィオはイリスの言葉ごと抱き込むみたいに、穏やかに頷く。
「悲しみも痛みも、最初はそこにある。でも、そのままで終わるほうが残酷だ。泣いたまま終わる人生より、最後には笑っていた人生のほうが、ずっとやさしい」
「なくならないまま抱えることもできるよ」
ルーファが静かに言った。
「痛いなら痛いって言っていい。泣きたいなら泣いていい。笑うのは、そのあとでいい」
「赦すだけでは、人は晴れませんよ」
セラフィオの声はやわらかい。
やわらかいままなのに、その一言だけで部屋の温度が少し下がる。
「抱えたまま生きる、というのは美しい言い方です。でも、それは多くの人にとって長すぎる。重すぎる。なら、いっそ彩に呑まれてしまったほうがいい」
琥珀の瞳が、ふっと笑う。
「怒りたいなら、怒ればいい。泣きたいなら、泣けばいい。愛したいなら、壊れるほど愛せばいい。始まりの彩が飛んだ夜から、世界はようやく目を覚まし始めたんです」
イリスの胸が強く鳴った。
始まりの彩。
その語に触れた瞬間、白の核が割れたあの夜の光景が、閃きみたいに脳裏を裂いた。




