第十二話 それぞれの夜③
夜は思ったより長かった。
寝台はルーファとイリスが使い、アッシュは扉の近くの床へ下りた。
本人がそう決めた。
理由は「出口に近い方が速い」だった。
その位置でも、アッシュは寝台から一間ぶん離れる角度を崩さなかった。
狭い部屋の中でその距離を守ろうとすると、背中はほとんど扉板に触れ、脚を投げ出す余地もなくなる。
それでも寄らない。
寄れば薄まる。
その線だけは、眠る前でも正確だった。
ルーファは窓を細く開け、風鈴を鳴らさないまま外気だけを通している。
イリスは寝台へ横たわったまま、目を閉じられずにいた。
壁の向こうで、人が笑っている。
一人の笑いではない。
何人もいるはずなのに、高さが揃いすぎている。
楽しさが重なっているというより、同じ型が何度も打ち鳴らされているみたいだった。
眠りへ落ちかけるたび、その笑いが耳へ刺さる。
幸せ。
だいじょうぶ。
うれしい。
壁越しに漏れる単語はどれもやさしいはずなのに、数を重ねるほど意味が削れていく。
イリスは胸元の銀輪を指先で押さえた。
昼間、ルーファに向けた否定がまだ胸に残っている。
断彩の魔女。
違う、と即座に言った。
違わなければ困るからだ。
でも、違うと言い切るほど、自分が何者なのか分からなくなる。
三百年。
その数字もまた、夜が深くなるほど重くなった。
人ではないかもしれない自分と、それでも何かを取り戻したくて外へ出た自分。
この街を見過ごせない気持ちが役割なのか、それとも自分の欲なのかさえ、まだ分からない。
窓辺でルーファが小さく息を吐く。
「風が抜けない」
独り言に近い声だった。
「外はあんなに明るいのに、息の通り道だけ塞がってる」
イリスは目を開けた。
ルーファは窓の外を見たまま続ける。
「泣く場所も、怒る場所も、たぶんもうない。笑う場所だけ残して、他を押し潰してる」
「……それでも、感情は必要だと思うんですか」
問いは、自分でも驚くほど素直に出た。
ルーファは振り返らない。
「思うよ」
即答だった。
「こういう壊れ方をするからこそ、なおさら」
そこでようやく横顔がこちらへ向く。
翡翠を溶かしたみたいな瞳は、暗い部屋の中でも底まで澄んでいた。
「痛いものを痛いって言えなくなったら、人は自分を守れないから」
イリスは答えなかった。
その言葉は、広場で笑っていた人々の顔へ、そのまま重なった。
床から、衣擦れの音がした。
アッシュが起きている。
いや、最初から眠っていなかったのかもしれない。
「外、三拍ごとに揃う」
報告みたいな声だった。
「笑いの高さ、足音、戸の開閉。同期が進んでる」
「広場中心?」
ルーファが聞く。
「現時点では」
「人の少ない場所から先に壊れてる?」
「逆。人の多い場所に寄ってる。密度が高い方が早い」
イリスは身を起こした。
「なら、朝を待つべきじゃない」
言うと同時に、自分の声が少し強くなっていた。
アッシュがこちらを見る。
「早い介入は危険」
「でも、待てば広がります」
「広がる。だが、いま入れば、おまえが望まない形で切ることになる」
「それでも、待てばもっと」
「知ってる」
そこで初めて、アッシュの声が少しだけ低く沈む。
「だから、おまえが決める線に合わせる。だが、いまはまだ危険が高い」
二人の声が、そこでぶつかる。
ルーファが間へ入った。
「どっちも正しい」
その一言で、部屋の空気が少しだけ戻る。
「イリスは、いま壊れていくものを見過ごせない。アッシュは、イリスごと壊れる形を避けたい。どっちも間違ってない」
イリスは唇を噛む。
ルーファは続けた。
「だから、今は眠らなくていい。代わりに、次に何が起きたら動くかだけ決めよう」
イリスは頷く。
アッシュは短く「同意」とだけ言った。
そのあと三人は、ごく小さな声で条件を詰めた。
笑いがさらに揃ったら。
抱擁が広場全体へ連鎖したら。
子どもや老人の呼吸が乱れ始めたら。
街の人間が、自分の足で離れることすらできなくなったら。
その時は、もう待たない。
会話が終わると、また外の笑いだけが残った。
部屋の中に安心はない。
でも、無力でもない。
三人とも違う考えで同じ夜を起きている。
その事実だけが、わずかに背骨を支えた。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
夜の底がいちばん深くなった頃、不意に外の音が止んだ。
笑いが消えたわけではない。
吸い込まれるみたいに、すべてが一度、同じ高さへ揃った。
次の瞬間。
「しあわせ」
壁の向こうから、誰かの声がした。
ひとりだったはずなのに、遅れて同じ高さの「しあわせ」が重なる。
もうひとつ、またひとつ。
合図みたいに。
イリスは跳ね起きた。
同時に、窓辺でルーファが顔を上げ、扉のそばでアッシュが立ち上がる。
三人の目が、同じ夜の一点を捉えた。
壊れ始めたのではない。
もう、始まっている。




