第十一話 それぞれの夜②
アッシュはまず部屋の端から端まで視線を走らせた。
寝台の端、机の角、窓までの幅、それからイリスの立つ位置を一度だけ見て、扉脇へ足をずらす。
狭い空間なのに、寝台と机からきっちり一間ぶん離れる線をなぞるみたいに位置を決め、最終的にいちばん窮屈な場所で止まった。
近づけば薄まる。
その距離を、アッシュは何も言わずに守ったのだと分かる。
イリスは、見ないふりをした。
最初に口を開いたのは、ルーファだった。
「私は窓のそば」
誰かに許可を取るというより、風向きを決めるみたいな言い方だった。
「外の流れを聞いてる」
アッシュは扉脇に立ったまま短く返す。
「扉側は見る」
イリスは思わず、その立ち位置を見た。
自分たちから半歩でも遠く、けれど何かあれば最初に動ける場所。
守るための距離だと分かってしまうのが、少しだけ胸に引っかかった。
だから、言う。
「そういう立ち方をする時は、だいたい良くない時です」
軽くしたつもりの声だった。
アッシュが少しだけ目を向ける。
「観測」
「つまり、かなり危ないってことですね」
その返しが出たことに、自分で少しだけ安心する。
完全に張りつめてはいない。
まだ、言葉の余地は残っている。
イリスは机の端へ白杖を立てかけた。
細い影が壁に落ちる。
その影さえ、外の笑い声に合わせて微かに揺れている気がした。
「……さっきの広場、どう見えましたか」
問いかけた先は、二人のどちらとも決めていなかった。
答えたのはアッシュだった。
「先に壊れるのは意味だ」
彼は壁にもたれず、立ったまま言う。
「感情が漏れて、色になる。色は、意味から先に人を壊す」
ルーファが窓の外を見たまま、低く重ねる。
「だから、笑ってるんじゃない。笑わされてるんだ」
イリスは眉を寄せた。
「……どう違うんですか」
アッシュは一瞬だけ間を置いた。
「“嬉しいから笑う”じゃない。“笑え”が先に入ってる」
その言葉で、イリスの視界が一瞬だけ暗く軋んだ。
塔で見たあの光景が目の奥で蘇る。
青い空。
子どもを抱く女の背中。
守るための角度だった腕。
そこへノイズが走り、『おかあさん』だったはずの意味が削られ、『獲物』へねじ曲がる。
抱く角度は、折る角度へ落ちる。
泣いているはずなのに、泣き顔の意味だけが消えていく。
イリスは息を止めた。
あれと同じだ、と、理解だけが先に喉へ刺さる。
広場で抱き合っていた男女も、もう抱いていなかった。
抱くという意味を失って、別のものへ落ちかけていた。
「……綺麗だと思ったんです」
ぽつりと落ちた声は、少し掠れていた。
「灯りも、匂いも、人の声も。ここには、私が知らない温度がちゃんとあって」
そこで一度、言葉が止まる。
紫銀の瞳の奥へ差しかけていた淡い金の名残が、まだ胸のどこかへ残っていた。
「だから、怖いんです」
イリスは正面を見たまま続ける。
「私、止めたいんです。なのに、いま落とそうとしているものの中に、たぶん私が欲しかったものも混じってる」
喉の奥が少しだけ熱を持つ。
「私は均すことしか知りません。過剰は落とさないといけない。そうしないと壊れる。それは、考える前に身体が知ってる」
銀輪が、胸の奥でかすかに軋んだ気がした。
「でも、感情があるから、人は笑ったり、泣いたり、誰かを好きだと思えたりするんじゃないですか」
声がわずかに揺れる。
「それまで落とした先にある静けさが、私の望むものなのか……もう分からないんです」
部屋の中で、外の笑いだけが途切れない。
ルーファはすぐには答えなかった。
窓辺に寄りかかったまま、風鈴へ触れる指先だけを静かに止める。
「私は、感情は要ると思ってる」
彼女の声は、やっぱりやわらかい。
けれどそのやわらかさは、曖昧さじゃない。
「痛いのも、泣くのも、怒るのも、好きだと思うのも。そういうのがあるから、人は“この人”でいられる」
窓の外から、誰かの笑いがひときわ高く響いた。
それは楽しげなのに、どこかで悲鳴と似た細さを持っている。
ルーファはその音を聞きながら続けた。
「再彩は、きっと救いでもあるんだよ。凪のまま薄れていくより、もう一度ちゃんと嬉しいとか、痛いとか、愛しいとか思える世界の方が、私はいい」
その言葉には、祈りみたいな熱があった。
「でも、濃すぎれば壊れる。いま街で起きてるのは、たぶんそういうこと」
そこで初めて、彼女はイリスをまっすぐ見た。
「だから、落とすべきものはある。けど、なくしちゃだめなんだよ」
その一言が、部屋の中でいちばん深く沈んだ。
「泣く理由まで消えたら、もう悲しみじゃない。怒る理由まで消えたら、守りたいものも消える。笑う理由まで消えた幸福なんて、たぶん幸福じゃない」
イリスは返せなかった。
それはまるで、自分が塔でずっと避けてきた場所へ、そのまま灯りを置かれたみたいな言葉だった。
なくしちゃだめ。
でも、過剰は落とさなければいけない。
その境目が、まだ分からない。
「感情が必要か不要かは、未確認」
今度はアッシュだった。
変わらない温度で言う。
けれど、その低さが逆に部屋を静かにした。
「結論はない。だが、基準はある」
扉のそばに立ったまま、外の笑い声を聞いている。
アッシュはほんの一拍だけ黙り、視線をこちらへ向ける。
「確かなのは、おまえを残すことだけだ」
短い。
けれど、その言葉は不思議なくらい真っ直ぐだった。
「感情が、おまえを壊すなら、色ごと断つ」
ルーファの目が少しだけ細くなる。
刺すでもなく、責めるでもなく、その危うさを測るみたいに。
アッシュは続けた。
「街ごと薄くすれば速い。おまえが巻き込まれる確率も下がる」
イリスの胸が、きつく鳴った。
それは正しいのかもしれない。
少なくとも、アッシュの中では正しい。
世界のためじゃない。
街のためでもない。
自分のために、そう言っている。
「でも」
アッシュはそこで一度、親指で人差し指の第二関節をなぞった。
ほんの一瞬の癖だった。
「おまえはそれを望まない」
その“おまえ”が、自分に向けられていることが分かる。
イリスは唇を結んだ。
望まない。
確かにそうだ。
最短で終わるやり方があっても、自分はそれを選べない。
「……はい」
小さく答えると、アッシュはそれ以上追及しなかった。
「なら、おまえの意思に従う」
その一言が、イリスには思ったより重かった。
命令に従う、ではない。
自分の答えがまだ曖昧なままでも、その曖昧さごと抱えた判断に合わせてしまう声だった。
「危険だけは先に落とす」
それだけ言って、また扉の外へ意識を戻した。
ルーファがその横顔を見て、かすかに息を吐く。
「そういうことは、ちゃんと守るって言えばいいのに」
「要確認」
「伝わりにくいってことだよ。君は不器用だね」
その短いやり取りに、イリスは少しだけ救われた。
三人とも同じものを見ていない。
イリスは、均す役割と、感情を愛しいと思ってしまう気持ちの矛盾から見ている。
ルーファは、人が人であるための豊かさの側から見ている。
アッシュは、イリスを壊しうるものから先に排する順番の側から見ている。
それでも今夜だけは、その違いがばらばらに散らばらず、同じ部屋の中へ留まっていた。




