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第十話 それぞれの夜①

広場の縁に立ったまま、三人はすぐには動けなかった。


抱き合う男女はまだ笑っていた。

笑いながら、離れない。


周囲の人間もまた、それをおかしいと思わないまま、同じ角度の微笑みを顔へ貼りつけている。


その光景を前にしても、夕暮れの街はあまりにも穏やかだった。


灯りはやわらかく、鍋の匂いはあたたかく、子どもの声まで高く弾んでいる。

だから余計に、イリスは足を踏み出せなかった。


止めなければ、と思う。

そのはずなのに、胸の奥では別のものも動いていた。


均さなければ。

過剰は落とさなければ。


そういう感覚だけは、理屈より先に骨が知っている。


けれど、いま自分が振るうそれが、何を残して何を奪うのか、まだ言い切れない。


この街を放っておけないのが役割のせいなのか、それとも、ここに残っている温度を惜しいと思ったからなのか。

その答えがないまま振るえば、取り返しがつかない気がした。


「……わからない」


こぼれた声は、自分で思っていたより小さかった。


先に返したのはアッシュだった。


「なら、まだ振るうな」


冷たい声だった。


「ここで踏み込めば、おまえが先に削られる」


イリスは息を呑んだ。


答えのないまま街ではなく、自分の方を先に守ろうとしている。

そう分かる言い方だった。

冷たいのに、その冷たさの向いている先は、いつだって自分だった。


ルーファが風鈴へ指を添える。

鳴らさないまま、広場を渡る風の流れだけを読むみたいに目を細めた。


「中心がもう詰まってる」


声はやわらかいのに、そこだけは曖昧じゃない。


「笑ってるんじゃない。笑わされ続けて、逃げ場がなくなってる」


一拍置いて、ルーファは低く続けた。


「壊れ方を見誤ると、人のほうが先に戻れなくなる」


イリスはもう一度、抱き合う男女を見た。


たしかにそこには、喜びの形だけが残っていた。

再会の熱も、照れも、相手の体温を確かめるための間もない。

ただ“幸福である形”だけが長く、長く続いている。


ここで杖を振れば、止まるかもしれない。

けれど落ちるのが“過剰”だけで済むのか、もう自信が持てなかった。


「……今は、確かめるしかないですね」


イリスはようやくそう言った。


自分で口にしても、それは納得というより、答えを急がないための猶予に近かった。


ルーファが頷く。


「うん。今夜は見る。どこがいちばん濃くて、どこから壊れ始めるのか」


「観測優先」


アッシュが確認するように言う。


「助けるために、まだ踏み込まない」


ルーファの言葉は、きれいごとじゃなかった。

踏み込みたいからこそ、踏み込まないと決めている声だった。


イリスは少しだけ唇を結ぶ。


目の前の街は、刃物を振れば解ける絡まり方をしていない。

むしろ下手に切れば、人の側がほどける。


アッシュが淡々と付け足す。


「おまえが街ごと薄くする気なら、いまでも静かにはできる」


イリスは顔を上げた。


「しません」


返事は、考えるより先に出ていた。


その早さだけで、自分が何を拒んでいるのか分かってしまう。


終わらせることじゃない。

答えのないまま、自分の役割だけで終わらせることを拒んでいた。


アッシュはそれに頷きもせず、ただ言う。


「なら、順番を誤るな」


その言い方は命令ではなかった。

選ばせたうえで、その選択を通すための声だった。


三人は広場から視線を外し、通りの端へ退いた。


それだけで誰かに呼び止められるかと思ったが、街の人間たちは皆、幸福そうな顔のまま自分たちの動きへ戻っていく。

抱き合う者、肩を寄せる者、頬を撫でる者。

どれも穏やかなはずの仕草なのに、見ていると背中が冷えた。


通り沿いの小さな宿を選んだのはルーファだった。


看板には花の絵が描かれていた。

花弁の赤がやけに鮮やかで、暗くなりきらない空の下でも浮いて見える。


戸口に立っていた女主人は、三人を見るなり顔をほころばせた。


「旅の方? まあ、よかった。今日はとても幸せな夜だから」


やはり、その言葉だった。


幸せ。


女主人は三人を中へ招き入れながら、同じ角度の笑みを崩さない。


「部屋は空いてるよ。ああ、よかった。ほんとに、よかった。最近は街じゅう、ずっと明るくてねえ。みんな幸せで」


語尾の高さまで、さっきの屋台の女とよく似ていた。


イリスは言葉を返しかけて、やめた。


その横でルーファがやわらかく礼だけを言い、必要以上に話を広げない。

アッシュは部屋へ通されるあいだ、廊下の幅、窓の位置、裏口までの距離だけを見ていた。


案内された部屋は狭かった。


木の壁。

低い机。

寝台が三つではなく二つしかない。

代わりに床へ敷くための厚い布が一枚、畳んで置かれていた。


窓は通りに面している。

開ければ外の笑いがそのまま入りこんできそうだった。


「……狭いですね」


イリスが思わず漏らす。


「狭い」


アッシュも即答した。


ルーファがゆっくり振り返る。


「宿代払ったの、私なんだけど」


二人とも黙った。


女主人はその間も笑っている。


「困ったことがあったら呼んでね。でも、だいじょうぶ。ここにいれば幸せだから」


だいじょうぶ。

幸せ。


その二つが、ひどく近い場所で結びついている。


まるで、この街では幸福であることだけが安全の条件みたいだった。


イリスが返事を探しているうちに、ルーファが短く「ありがとう」とだけ言って扉を閉めた。


戸が閉まっても、外の明るさは消えなかった。


壁が薄い。

通りの笑い声が、木の板越しに同じ高さで跳ね続けている。


部屋の中へ静けさが落ちたのは、ほんのひと時だけだった。

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