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第九話 幸福の街②

夕暮れは、街へ近づくほど遅くなるみたいだった。


遠くから見れば針の先ほどだった色は、低地へ降りるにつれて、ようやく人の暮らしの輪郭を持ち始める。

干された布は本当に色布で、果実は本当に赤く、黄色く、緑だった。

屋台の天幕には塔の白とは違う生活の染みがあり、焼かれた生地の匂い、甘く煮た果物の匂い、少し焦げた油の匂いが風にほどけて流れてくる。


荒野の乾いた石と灰の白ばかり見てきた目には、その温度が眩しかった。


ここには火があり、声があり、誰かが誰かのために食べものを作り、売り、買い、笑うだけの熱がある。


イリスはその熱に、足を止めそうになった。


塔の中では一度も嗅いだことのない匂いだった。

焼きたての薄いパン。

甘く熟した果実。

洗い立ての布に残る清潔な香り。


どれも、ただ生き延びるためではなく、少しでも心地よく暮らすために整えられたものの匂いだった。


こんなふうに人が暮らせる場所が、まだ残っている。


そう思いかける。


紫銀の瞳の奥へ、ごく淡い金が差しかけた。


世界が死にきらずに残していたものが、ここにはまだあるのかもしれない。


その期待が、胸の奥でごく小さく灯る。


街の門にあたるのは、門と呼ぶには軽すぎる木組みだった。

古い柱へ色布が渡され、小さな鈴がいくつか下がっている。

風が吹くたび鳴るはずなのに、なぜかどれも同じ高さの音ばかりを返していた。


中へ入ると、人がいる。


当然のことなのに、それだけでイリスには少し眩しかった。


子どもが走る。

女が果実を選ぶ。

男が荷を運ぶ。

広場の端では誰かが鍋をかき回し、その向こうでは老人が椅子を並べている。


皆、ちゃんと動いて、ちゃんと喋って、ちゃんと笑っていた。


「外から?」


最初に声をかけてきたのは、屋台の前に立つ丸顔の女だった。

頬がよく上がっていて、口元には最初から笑みの線が刻まれている。


「ええ」


と答えたのはルーファだった。


「少し寄らせてもらえますか」


「もちろん。歓迎するよ」


女は即答した。


「最近はほんと、空気が明るくてねぇ。街も前よりずっと幸せなんだよ」


幸せ。


その言葉が耳に少し残る。


別の屋台でも、似たような声がする。


「今日はよく売れる。幸せだ」

「子どもたちも元気でねぇ。幸せだよ」

「旅の人も来るようになった。いいことだ、幸せだ」


同じ語が、同じ調子で何度も跳ねる。


まるで街のどこかに、先にその言葉だけを鳴らす口があって、人々はそこへ声を合わせているみたいだった。


ルーファはそれを聞くたび、ほんの少しずつ眉間を寄せた。

アッシュは最初から、誰の顔も見ていない。

手の動き。視線の揃い方。立ち位置。出口までの距離。

そういうものだけを拾っている。


イリスだけが、一度だけ街の色へ見惚れそうになる。


軒先に吊られた乾燥果実は琥珀みたいに透けているし、水桶の底にはまだ青空の色が残っている。

子どもの頬はちゃんと赤く、笑い声には塔の中にない弾みがある。


ただ、その明るさは長く見ていると、どこか息苦しかった。


笑っている人たちの顔が、誰も少しも崩れない。


頬は上がっているのに、目元だけが同じ角度で止まっている。

楽しさにも、照れにも、疲れにも、人それぞれの揺れがあるはずなのに、それがどの顔にもない。


ひとりひとり違うはずの喜びが、みんな同じ型で切り抜かれているみたいだった。


「……変ですね」


イリスが小さく言う。


アッシュは「遅い」とだけ返した。


その刺すような短さの横で、ルーファがやわらかく挟む。


「でも、分かっただけ良い」


その言い方だけで、少し救われるのが悔しかった。


街の中央へ進むにつれ、歓迎は濃くなった。


果実をひとつ手渡そうとする手。

「食べていきなよ」と笑う声。

「泊まるところならあるよ」と肩を抱こうとする仕草。


どれも善意の形をしている。

形だけなら、何ひとつ間違っていない。


けれど、その善意は少しずつ近すぎた。


果実を渡す指先が、必要以上に長く手のひらへ触れている。

肩へ置かれた手が、引くべき拍で引かない。

笑いながら勧めてくる口元が、断られても同じ角度のまま少しも揺れない。


イリスは、一人の男の指先に気づいた。


籠の縁で浅く切ったらしい傷がある。

赤く滲んでいるのに、本人はまるで痛がらない。

気づいていないのではない。

ただ、痛みより先に笑顔の方を優先させている。

口元が上がったまま固定されていて、眉ひとつ動かない。


痛みより、笑うことが先に来ている。


順番がおかしい。


そのすぐそばで、走っていた子どもが石畳の縁につまずいた。


小さな膝が擦れ、皮膚が薄く裂ける。

赤いものがにじむ。


普通なら泣くか、息を呑むか、せめて顔をしかめるはずの傷だった。


けれど、その子は転んだ姿勢のまま顔を上げ、頬だけを上げて笑った。


「だいじょうぶ」


声が高い。

明るい。

けれど震えがない。


「しあわせだから」


迎えに来た母親も、同じ角度で笑っていた。


「そうだねえ。幸せだもんねえ」


傷口を見もしない。


手を差し出し、立たせ、頬を撫でる。

その撫で方が、慰めるやわらかさではなく、笑う形を顔へ貼りつけ直すみたいに見えた。


イリスの背筋に、冷たいものが這う。


「……アッシュ」


「見えてる」


短い返事。


「無理に崩すな。まだ街全体の拍が揃ってる」


「拍?」


「同調してる」


「同調、って……」


「感情の出口が一つに絞られてる」


イリスは息を呑んだ。


出口が一つ。


だから誰も同じ顔で、同じ言葉で、同じ高さで笑うのか。


ルーファもそこで足を止めた。

風を読むときの顔だった。

腰の風鈴へ指を添え、鳴らさないまま、街の高低差と家並みの隙間を見ている。


「風が抜けない」


その声は小さいのに、妙にはっきり響いた。


「笑い声の間に、隙間がない」


街は賑やかだった。

賑やかなはずなのに、どこかしらんと静かでもあった。


鍋をかき回す音、皿を置く音、布の擦れる音、子どもの足音、笑い声。

全部が聞こえている。

なのに、それぞれが別々に鳴っている感じがしない。

同じ薄い膜の下で、決められた順番どおりに鳴らされているみたいだった。


「広場の方」


とルーファは言う。


「いちばん濃い」


三人は中央の広場へ出た。


そこは街の心臓みたいな場所だった。

井戸があり、石畳があり、布屋と果実屋と食堂が向かい合っていて、人の流れがそこで一度混じり、また散っていく。


夕陽が落ちきる寸前の光が、そこだけ少し甘く見えた。


幸福、という言葉にするなら、たぶんこういう景色なのだろうと一瞬だけ思う。

人がいて、灯りがあって、笑っていて、手を伸ばせば温度がある。

世界はこういうものへ戻ろうとしているのかもしれない、と。


だが、その錯覚は、今度こそ骨の芯まで冷やして砕けた。


広場の中央で、ひと組の男女が抱き合っていた。


再会を喜んでいるように見える。

女は笑い、男も笑っている。

周囲の人間も、それを微笑ましいものとして眺めていた。


けれど、離れない。


離れるべき拍を、もうとっくに過ぎている。


肩へ回した腕が、慰める力ではなく、固定する力になりかけている。

頬を寄せる角度が、やさしさより深い。

笑っているのに、どちらも息継ぎをしていない。


女の指先が男の背へ回り、布を掴んでいる。

掴む力が少しずつ強くなっていく。

男の腕もまた同じだった。

抱きしめる、を通り越して、離れないよう押し込んでいる。


なのに、顔だけは笑っている。


同じ角度のまま。

同じ幸せの形のまま。


周囲の人たちも笑っていた。


微笑ましさに頬をゆるめている、のではなかった。

見ている全員が、中心の抱擁と同じ角度で口元を上げている。


井戸のそばの老人も。

果実を抱えた娘も。

鍋を持った女も。


いつのまにか子どもまで足を止め、広場の中央へ顔を向けて、同じ笑みを浮かべていた。


誰も止めない。

誰も心配しない。

誰も「長い」と言わない。


この街では、ほどけない抱擁すら幸福の完成形として受け入れられているみたいだった。


ルーファの足が、そこで止まった。


翡翠を溶かしたみたいな瞳が、すっと細くなる。


「……長い」


それは独り言に近かった。


けれど、そのひと言が落ちた途端、広場の空気が一瞬だけこちらを見た気がした。

実際に誰かが振り向いたわけではない。

それでも、笑顔の群れの向きが半拍だけ三人の方へ寄ったように見えた。


イリスの喉がひくりと鳴る。


「見られてます」


「最初から」


とアッシュが言う。


「今は、見返してきただけだ」


その言い方の方が、よほど怖かった。


広場の中央の男女は、まだ抱き合っている。


女の肩がわずかに震えた。

苦しいのかと思った。

助けを求めるのかと思った。


けれど口元は、やっぱり笑っている。


そのまま、喉の奥から細い声が漏れた。


「しあわせ」


男も同じ高さで返す。


「しあわせだ」


周囲が、ほとんど同じ拍で笑った。


ざわめきではない。

唱和に近かった。


イリスの腕に、粟立つみたいな寒気が走る。


さっきまで温かく見えた灯りが、急に別のものへ見え始める。

軒先の明かりは人を照らしているのではなく、同じ顔を並べて見せるために吊られているみたいだった。


煮える鍋の匂いも、焼けた生地の匂いも、甘い果実の匂いも、幸福というひとつの語へ押し込まれて、逃げ場を失っている。


温かいはずなのに、息がしづらい。

明るいはずなのに、目を開けていたくない。


イリスの瞳に差しかけていた淡い金が、そこで揺らいだ。

希望に似たものだったはずなのに、同じ色がいまは別の顔をしている。


色が戻ることは、こんなふうに人を一つの形へ縫い止めることでもあるのかもしれない。


「……これ、幸福じゃない」


自分の声が、思ったよりも細い。


ルーファが答える。


「うん。たぶん、幸福の形をした別のもの」


アッシュは広場の中央を見たまま、低く言う。


「彼らの感情じゃない。命令に近い」


その一言で、寒気は輪郭を持った。


命令。


だから誰も痛みより先に笑う。

だから同じ言葉しか出ない。

だから離れるべき拍を過ぎても、抱擁はほどけない。


街の灯りが、ひとつ、またひとつと増えていく。


明るい。

温かい。

生き返ったみたいに見える。


なのに、その奥で何かが、笑う形のまま固まり始めていた。


三人は広場の縁に立ったまま、しばらく動けなかった。


幸福そうな街の、幸福そうすぎる中心で。


夜はまだ、始まったばかりだった。

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