第八話 幸福の街①
風がもう一度、低地の先から吹き上げた。
さっきまでそこにいた感情喰らいの気配は消えたのに、イリスの胸の奥に残ったざらつきだけはまだ均されないままだった。
断彩の魔女、と呼ばれたこと。
三百年、という数字を突きつけられたこと。
そのどちらも、傷みみたいに遅れて響いている。
気まずい沈黙は、風より先に三人のあいだへ落ちていた。
先に口を開いたのは、イリスだった。
「……あなたは、なぜここに来たんですか」
ルーファは一瞬だけ目を瞬かせた。
けれど、すぐに視線を遠い塔へ返す。
「あの日から、風の流れ方が変わったの」
声はやわらかい。
けれど曖昧には聞こえなかった。
「乱れを追うたび、最後には同じ場所へ戻された。ずっと白く立ってる、あの塔の方へ。だから、世界のずれの根を見に来た」
塔。
その言葉が出た瞬間、イリスの喉の奥が少しだけ冷えた。
外の人間も、あれを原因の中心として見ている。
隠す理由は、もうなかった。
「……核が、割れました」
ルーファの青緑の瞳が、わずかに見開かれる。
イリスは遠い塔を見たまま続けた。
「白の核です。そこから色が飛びました。八つ、外へ」
風鈴が鳴る寸前で震え、止まった。
「じゃあ、あの日飛んだ色は……」
そこまで言って、ルーファは口を閉じた。
空に色が飛んだ。
風の順番が狂った。
街の外で感情喰らいが増えた。
全部が一本の線で繋がりかけているのだと、イリスにも分かった。
ルーファはしばらく黙っていた。
塔を見て、街の方へ視線を流し、それからイリスとアッシュを見る。
その沈黙のあいだに、祈りの地を出たときの優先順位が静かに組み替わっていくのが見える気がした。
やがて、ルーファは小さく息を吐く。
「……見る順番が変わった」
その言葉に、イリスは顔を上げた。
ルーファは低地の先を見たまま、続ける。
「塔で何が起きたかは、もう聞いた。だったら次に見るべきなのは、その結果が人のいる場所で何を始めてるかだと思う」
夕風が、三人のあいだを細く抜けた。
「それに、貴女たちは塔から来た」
そこでようやく、彼女はまっすぐイリスたちを見た。
「このまま放して、あとから塔のことだけ確かめても足りない。いまは、貴女たちを見失えない」
その言葉のあとで、アッシュが短く問う。
「同行の意図は」
問いというより、選別だった。
「監視」
ルーファはためらわずに言った。
「そう思ってくれていい。放っておくには、貴女たちは現象の中心に近すぎる」
「敵対は」
「まだ決めてない」
正直すぎる返答だった。
でも、その正直さの方がイリスには少しだけ信じられた。
最初から味方の顔をしない。
分からないものを、分からないまま見ていようとしている。
その態度は、いまの自分にいちばん近かった。
「……私は、街へ寄ります」
イリスは、ようやく自分の中の理由を言葉にした。
「色の落ちた先を追います。でも、その前に、この街の異常は放っておけません」
まだ街へ入ったわけじゃない。
ただ、低地の先から届く灯りと、人の声と、焼けた生地や甘く煮た果実の匂いだけで分かることがある。
ここにはまだ人の暮らしがある。
その明るさが壊れかけているなら、見ないふりはできなかった。
「外のことは、私にはまだ分かりません。どこから先が普通じゃないのかも、どういうふうに人が壊れていくのかも。あなたの方が先に見えるものがあるなら、離れる理由はないです」
ルーファの目が、わずかにやわらいだ。
親しみではなく、判断をひとつ通したあとのやわらぎだった。
アッシュはそこで結論だけを落とす。
「却下する理由が薄い」
一拍。
「地理。風読。土地勘。使える」
さらに一拍。
「視界の外で勝手に動かれる方が面倒だ」
最低限の許可だった。
最低限の警戒でもあった。
けれど、それで十分だった。
ルーファは小さく息を吐く。
それから、ようやく思い出したみたいに少しだけ視線を伏せた。
「……その前に、ひとつ」
声がやわらぐ。
「さっきはごめん。いきなり、妙な呼び方をした」
断彩の魔女。
その音がまだ胸の奥に引っかかっていることを、イリスは自覚していた。
けれど、謝られるとは思っていなかった。
ルーファは顔を上げる。
「私はルーファ。祈りの地アーヴェルの者」
風の一族の名乗りは、飾りがないのに不思議と耳へ残った。
淡い金から小麦色へほどける髪が夕風にやわらかく揺れ、耳の後ろの細い編み込みの先で、小さな羽根だけが静かに震える。
白から生成りへ落ちる軽い巫女装束の裾には、ごく薄い青が差していて、荒野の中でもその清らかさだけは削れずに残っていた。
イリスも小さく息を吸う。
「……イリスです」
隣で、アッシュが短く続けた。
「アッシュ」
それだけだった。
でも、名前が並んだことで、気まずい沈黙の形が少しだけ変わる。
完全な他人ではなくなった。
まだ仲間ではないけれど、少なくとも、呼べる相手にはなった。
ルーファはイリスを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
「私も、この街は見過ごせないと思ってた」
その言い方は、同意というより風向きの一致を告げる響きだった。
「意外と、気が合うのかもね」
イリスはすぐには返せなかった。
そんな軽い言葉で片づけていいものではない気もしたし、でも、少しだけ救われたのも事実だった。
三人の立つ向きが、そこでようやく決まる。
仲間になったわけじゃない。
信じ合ったわけでもない。
ただ、いまこの街へ入るなら、三人とも別々の理由で同じ方向を見るしかなかった。
ルーファは風の乱れを追うために。
アッシュは異常の芯を切り分けるために。
イリスは、壊れ方を見誤らないために。




