第三話 泣けない少女
男の声が、またひとつ名を呼ぶ。
そのたび、輪の外の小さな肩が、ほんのわずかに強ばった。
薄青の肩掛けを握る指先だけが、きゅっと白くなる。
泣いていない。
けれど、泣けないまま名の重さを受け止めているのだと分かった。
イリスは視線を切れなかった。
あの子の胸の奥には、たしかに何かがある。
呼ばれる名ごとに胸の奥がつかえ、息だけが短くなる。
けれど涙だけがどこにも届いていない。
「……アッシュ」
呼ぶと、視線だけを寄越した。
「観測中だ」
「なら、分かりますか」
「分かる」
短く答えて、群衆の一点へ視線を細める。
「悲しみはある。出口だけが塞がってる」
イリスの胸の内側に、細い棘が立った。
その言い方は、あまりに正確で、あまりに冷たい。
「均せば、この苦しさは少し薄くできますか」
アッシュはすぐには答えなかった。
広場ではまた別の名が読まれ、別の肩が沈み、別の誰かの涙が朝の光へ落ちる。
「……可能性はある」
やがて落ちた声は低かった。
「だが、何がこぼれるかを、先にこっちが決める」
イリスは白杖を握る指へ力を入れた。
楽にすることと、奪うことが、近すぎる。
そのあいだへ、ルーファがそっと声を置く。
「急がないで」
風鈴は鳴らさないまま、やわらかい声だけが落ちた。
「あの子、いま“泣けないこと”まで見られてる。たぶん、それだけで苦しい」
その言葉で、イリスは初めて気づいた。
あの子は輪の外にいるだけじゃない。
輪の外にいる自分を、輪の中からずっと見られている。
泣ける国で、泣けない子であることを。
それはたしかに、均すより先に隠れたくなる痛みだった。
名を読む声が一度途切れ、人の動きが少しだけ緩む。
水鉢の前に小さな列ができる。
その隙を縫うように、幼い少女が足を動かした。
輪から半歩だけ離れた場所へ寄り、泣き崩れた老婆の足元へ落ちた紙片を拾う。
濡れた端が土へつかないよう両手で支え、すぐ隣で鼻をすすっていた少年へは、浅い鉢の縁に置かれていた布をそっと差し出した。
手つきに迷いがなかった。
泣けないくせに、泣いている人のそばで何をすればいいかは、ちゃんと知っている手だった。
「……優しい子ですね」
思わず漏れた声へ、ルーファが小さく頷く。
「うん。だから、なおさら苦しいんだと思う」
少女が差し出した布を断られて、小さく手を引いた。
断った相手は悪くない。
ただ、いまは誰かの手を借りるより、自分の涙へ両手を使いたかっただけだ。
それでも少女は気まずそうな顔をしない。
ただ、倒れかけていた小瓶だけを静かに立て直す。
その時、目が合った。
薄灰を噛んだ水青の瞳が、こちらを見た。
逃げたいのに逃げられない子の目だった。
イリスは、できるだけ脅かさない速度で一歩だけ近づいた。
「……驚かせたなら、すみません」
言ってから、違う、と自分で思う。
謝りたいわけじゃない。
けれど、ほかの言葉が見つからない。
少女は肩掛けの端を握り直した。
「……だいじょうぶ」
掠れた、小さな声だった。
アッシュが横から即座に言う。
「大丈夫ではない」
「アッシュ」
「観測結果だ」
「直球すぎます」
「事実の迂回は、誤差になる」
「いまは誤差でいいんです」
「理解不能」
そのやり取りを、少女はぽかんとした顔で見た。
次の瞬間、ルーファがふっと息だけで笑う。
「ごめんね。このふたり、ちょっと不器用で」
その言い方があまりに自然で、少女のこわばりがほんの少しだけ緩んだ。
ルーファは少女と同じ高さへしゃがみ込む。
「私はルーファ。こっちはイリス。あっちはアッシュ」
紹介され、イリスは軽く会釈をした。
アッシュも必要最低限の角度だけ首を下げる。
少女は口を開きかけて、閉じた。
名を言うだけのことが、喉のどこかへ引っかかっているみたいだった。
イリスはその詰まりを見てしまう。
見てしまうから、余計に手を出したくなる。
ほんの少しだけ落とせば、この苦しさは軽くできるかもしれない。
けれど、その先で何がこぼれるかまで、自分の手が決めてはいけない気がした。
白杖を持つ手が、じわりと熱を帯びる。
鎖の先が、ひやりと肌を打った。
だめだ、と直感が先に来る。
この子を楽にしたい。
でも、それはこの子の悲しみの形を、自分のやり方へ寄せることでもある。
イリスは指先に集まりかけた均しの気配を、息ごと押し戻した。
ルーファがこちらを見ずに言う。
「泣けないなら、まだ泣かなくていいよ」
少女の睫毛が、ぴくりと揺れる。
「……いい、の?」
「うん。ここで泣けない人が、悪いわけじゃないから」
少女は広場の中央を見たまま、小さく言った。
「……わたし、かなしいのに」
そこで喉が詰まる。
「出て、こないだけ」
イリスの胸の奥で、何かがひどく静かに軋んだ。
その言い方は、痛みの場所だけを正確に指している。
「……喉、痛みますか」
問うた瞬間、自分でも違うと思った。
けれど、もっと別の言葉も出てこない。
少女は少し驚いた顔をしたあと、自分の喉元へ指を触れた。
「……たまに」
「そう、ですか」
それだけしか返せない自分が情けない。
アッシュが横から落とす。
「呼吸も浅い。四つに一回、止まりかけてる」
「順番を考えてください」
「考えた。必要だと判断した」
イリスが睨むと、アッシュは一瞬だけ返答を止め、それから少女を見た。
それから、少女を見て言う。
「怖がらせるつもりはない」
その前置きが、彼にしては珍しかった。
「……何もないわけじゃない。それだけは事実だ」
少女は目を瞬いた。
「……ある、の?」
「ある」
アッシュは迷わない。
「感情はある。出口だけがない」
少女の肩が、ほんの少しだけ下がった。
泣いたわけではない。
でも、どこかひとつだけ強張りを解けたみたいに見えた。
その時、広場の中央で低い呻き声が上がった。
名を読まれていた中年の男が、その場へ膝をついている。
泣くというより、呼吸がうまくできなくなっていた。
胸を押さえ、肩だけで浅く息を吸っている。
周囲がざわめくより先に、幼い少女が動いた。
「みず」
短く言って、水鉢のそばへ駆ける。
横に置かれていた小さな注器を掴み、布を濡らし、男の手へ押しつける。
動作にためらいがない。
ルーファもすぐ立ち上がった。
「大丈夫。吐くほうから」
男の背中へ触れず、呼吸の合間だけを整えるように声を置く。
風鈴が、ごく小さく一度だけ鳴った。
イリスは一歩だけ出て、止まった。
いまここで均せば、この人の苦しさは少し落とせるかもしれない。
でも、その一拍で落ちるのは何だ。
息の詰まりだけか。
それとも、この場にいる誰かが誰かの名を抱いている、その形までか。
迷った、その一瞬だった。
少女が男の前へ膝をつき、濡れた布を差し出したまま、小さく言う。
「……ゆっくりで、いいから」
声は震えているのに、手は震えていない。
男はその言葉に従うみたいに、長く息を吐いた。
詰まっていた呼吸が少し戻る。
ルーファが頷き、周囲のざわめきを風で散らす。
イリスは、そこでようやく自分の手を下ろした。
均さなくても、戻るものがある。
薄くしなくても、支えられる痛みがある。
それを、目の前の小さな背中が先に示してしまった。
男が落ち着いた頃には、広場のざわめきもまた低く沈んでいた。
少女は立ち上がろうとして、少しだけよろめいた。
反射で前へ出たのは、イリスだった。
「危ない」
手首を支える。
軽い。
だが軽いだけではなく、中でどこかがずっと力んでいるみたいに固い。
少女はびくりと身を震わせた。
その瞬間、イリスの銀輪が熱を持つ。
胸の奥の欠けと、目の前の喉の詰まりが、どこか遠い場所で触れ合ったみたいに。
痛い。
けれど懐かしい、に似た何かが、ほんの一瞬だけ混じる。
イリスは慌てて手を離した。
「……すみません」
「う、ううん」
少女は首を振った。
「わたし、平気」
「平気ではありません」
思わず出た声は、少しだけ強かった。
少女が目を丸くする。
イリスは自分でも驚き、それから言い直す。
「……立ちくらみがしています。だから、平気と言い切らないでください」
アッシュが横から足す。
「声の高さも下がってる」
「今はあなたの補足はいりません」
「補足だ」
ルーファがまた、くす、と息だけで笑う。
「ほんとに不器用だね、ふたりとも」
少女の口元が、初めて少しだけ緩んだ。
笑った、と呼ぶにはあまりに小さい。
けれど、たしかに何かが動いた。
少女はまだ自分の手首を気にするみたいに片手でそっと押さえながら、広場の中央を見た。
「……あのね」
小さな声だった。
「わたし、泣いてる人のそばにいるのは、できるの」
「おみず、わたしたり、ぬれたの、しぼったり。名前、いっしょに聞いたり」
そこまで言って、唇を噛む。
「でも、わたしは、そっちに行けない」
ルーファが静かに問う。
「誰かに、そう言われた?」
少女は首を振った。
「だれも、言わない」
その返事がいちばん苦しかった。
誰も責めない。
誰も追い出さない。
優しいまま、輪の中へ置いてくれる。
その優しさの中で、自分だけが入れない。
「……泣けなくてもここにいていいって、言ってくれた人はいるの」
少女は肩掛けの端を指先で丸めながら言った。
「あの人は、そう言ってくれた」
イリスは小さく息を飲んだ。
「……ミラさま」
その名は、祈るみたいに小さかった。
「ミラさまは、泣けなくてもいいって言った。ここにいていいって」
それから、少しだけ困ったように目を伏せる。
「でも、わたしが泣けないと、あの人にまで、だいじょうぶじゃない気持ちが増える気がして」
イリスは答えを失った。
自分が苦しいだけじゃない。
自分が苦しいことで、誰かを困らせてしまうと思っている。
それで先に「平気」と言ってしまう。
あまりに幼いのに、あまりにも分かりすぎている。
「困らせているわけじゃない」
アッシュが低く言った。
「気にかけられているだけだ」
「……気にかけることと、困ることは同じではありません」
イリスが間に入る。
少し迷って、それでも続けた。
「少なくとも、私はそう思います」
言葉は硬かった。
けれど少女は、その不器用さごと受け取るみたいに、ゆっくり瞬いた。
「……うん」
今度の返事は、さっきの「だいじょうぶ」より少しだけ柔らかかった。
広場の中央では、名前読みが終わりへ近づいていた。
人々はすぐに散らない。
泣き終わった者も、泣かなかった者も、その場へ少しだけ余韻を置いてから、それぞれの暮らしへ戻っていく。
悲しみを終わらせるのではなく、抱いたまま生活へ戻る国だった。
その中で、この幼い少女だけが、どこへ戻ればいいのか少し分からなくなっている。
ルーファが立ち上がる。
「私たち、少しだけこの国を歩くんだ。また会える?」
少女は驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「……たぶん」
「その“たぶん”で十分だよ」
アッシュが最後にひとつだけ問う。
「名前」
少女はまた喉を詰まらせかけ、それでも今度は言えた。
「……ノア」
本当に小さな声だった。
けれど、死者の名とは違う、生きている子の名前だった。
「ノア」
イリスはできるだけ静かに呼んだ。
ノアが顔を上げる。
「……また、会います」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも少し分からなかった。
けれど、それでも言わずにいられなかった。
ノアは驚いたまま、ほんの少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「……うん」
その返事は、まだ泣けない子のものだった。
でも、輪の外からこちらへ橋を掛け返してくれた声でもあった。
*
広場を離れてからもしばらく、イリスの耳には名前を読む声が残っていた。
低く揺れる追悼の布。
鼻をすする音。
水鉢へ触れる指先の小さな水音。
どれも静かで、どれも終わっていない。
「……均せませんでした」
思わず零した声へ、アッシュが隣で返す。
「均さなかった、だ」
イリスは眉を寄せた。
「……私には、同じです」
「違う」
アッシュは即答した。
「できるのに止めた」
イリスは白杖を握る手に力を込めた。
「楽にすることは、できたかもしれません」
「かもしれない」
「でも、それでよかったのか、分からないんです」
「分からないまま止まった。それは前進だ」
ただ事実として置かれただけなのに、その一言が胸のどこかへ思ったより深く落ちた。
「……評価は求めていません」
「評価じゃない。記録だ」
「そういうところです」
ルーファがその横で、やわらかく笑った。
「でも、よかったよ。ノアが欲しかったの、最初から涙じゃなかったと思う」
イリスはそちらを見る。
「泣けない自分を、悲しんでないって決めつけられないこと」
答えられなかった。
それはたしかに、さっきアッシュがぶっきらぼうに渡したものでもあったからだ。
感情はある。
出口だけがない。
たったそれだけのことで、ノアの肩は少しだけ下がった。
均すことだけが救いじゃない。
そんな当たり前みたいなことを、イリスはまだうまく飲み込めない。
飲み込めないのに、目の前で見せられてしまった。
通りの向こうで、低く鐘が鳴った。
生活の区切りを打つ鐘だった。
その音に混じって、遠く高いところから風が流れてくる。
ルーファがふと立ち止まる。
「……あそこ」
視線を辿ると、国の奥まった方角に、細く高い塔影が見えた。
濡れた青灰の輪郭。
空へ突き刺すというより、空から落ちてくる悲しみを受け止め続けているみたいな、静かな高さだった。
ルーファが小さく言う。
「風がいちばん集まってる」
アッシュも短く頷く。
「悲哀の拍が深い」
イリスはその影を見つめた。
広場で見たノアの喉の詰まり。
生活に根づいた追悼。
泣ける人と、泣けない人。
優しいのに、どこかで誰かが輪の外へこぼれていく国。
その中心に、答えに近いものがある。
あるいは、その優しさを保つ代わりに、誰かをこぼし続けている中枢が。
「……行きます」
今度は迷わず言えた。
「ノアが戻る場所を、見ておきたいです」
一拍置いて、さらに続ける。
「それだけじゃない。この国を保っているものを、ちゃんと見ます」
ルーファが静かに頷く。
アッシュは先に半拍ぶん前へ出た。
いつもの位置だ。
けれど、さっきまでとは少しだけ違って見えた。
追跡のためだけじゃない。
残った痛みを、残ったまま見に行くための歩幅だった。
イリスは白杖を握り直す。
外套の内側で、銀輪がもう一度だけ小さく熱を持った。
ノアの喉の詰まりに触れた時と同じ、答えにならない熱だった。
欠けが疼く。
けれど、いまはそれを解こうとは思わない。
分からないものは、まだ分からないままで見に行くしかない。
三人は、泣ける国の中心へ歩き出した。
そこが優しさの支柱なのか、優しさを鎖へ変えた場所なのかを、見極めるために。




