42 エピローグ
清々しい朝の日差しが、綺麗に磨かれた大窓を通って室内にまで届く。
ベッドを囲む天蓋を静かに捲り上げたシェリーは、そこに眠るロワを見つけると微笑んだ。
天使も弓矢を投げ出すような愛らしい表情を浮かべながら、そうっとベッドの脇に腰掛ける。
そして、上半身を伸ばすと、安らかな寝顔にその微笑みを近付けた。
淡く染まる頬を寝息が撫でていく。天蓋に映る影が重なり合おうとした。
「ほら起きなさい、魔王」
「ぐおっ!?」
ロワの眉間に、シェリーの指先が勢い良く突き刺さる。
整えられた爪によって攻撃力は上乗せされ、無防備に眠っていたロワは眉間を押さえて呻き悶えた。
ベッドの上でごろごろと転がるロワを、シェリーは微笑みを湛えたまま眺めている。
しかし、その笑みは天使の皮を被った悪魔だった。
「な、にしやがる……っ!」
地味ながらも結構なダメージがある攻撃を受けて、ロワは涙目になりながらもシェリーを睨みつける。
それに対してシェリーは脅える事も無く、その視線を鼻先で笑って簡単にあしらった。
「貴方がいつまでも寝てるから悪いんでしょう? 今日は来客の予定があるって言っていたのは誰だったかしら?」
「……あ」
それを聞いた途端、ロワは軽く目を見開いた。
そして、面倒臭そうに顔を顰めて起き上がった。
「そうだ、蜥蜴男の爺さんが来るんだった……。話がいつも説教臭いから嫌なんだよな……」
「それほど貴方の事を気に掛けてくれてるって事よ。とにかく早く着替えて、朝ご飯片付けてよね」
寝癖のついた頭を掻きながら愚痴を零すロワを置いて、シェリーは天蓋の外へと出て行く。
それを見送ったロワは一度大きく欠伸をして、まだ痛む眉間を擦りながらベッドから降りた。
着替えを済ませたロワがリビングに行けば、テーブルにはパンの盛られた籠と牛乳が注がれたコップ、空の皿が置いてあった。
リビングと繋がるキッチンからは、何かを焼いている音が聞こえてくる。
気になって覗き込んでみれば、フライパンを振るっているシェリーの後ろ姿が見えた。エプロンの結び目から垂れる紐が、少し調子外れな鼻歌に合わせて揺れている。
ロワはその光景を暫く黙って眺めていたが、ふっと口元を緩めると、足音を立てずに背後へと歩み寄った。
「随分と隙だらけだな」
「ひゃあっ!?」
小さな体を後ろから抱き竦めたロワは、丸い肩に顎を乗せてその耳元で囁いた。
不意を突かれたシェリーは甲高い声を上げる。
その拍子にフライパンの中にあったオムレツが形を崩したが、気にする余裕も無かった。
「な、あ、貴方ねえ……っ!」
「うわ、顔真っ赤だぞ。本当にお前、こういうのには弱いのな」
「……!!」
腕を振り払うように振り向いたシェリーの顔を見て、ロワはにやついた笑みを浮かべる。
慌てたシェリーは自分の両頬に手を当てた。掌に熱を感じながら、目の前で笑っている相手を悔しそうに睨み付ける。
「あ、あんまり調子乗ってたら、食事に毒盛ってやるんだから……!」
その脅し文句に、ロワは思わず噴き出しそうになったのを堪えた。同じような言葉を今まで幾度か吐かれてきたが、結局は実行された試しが無い。
淡く暖かな気持ちを胸の内に秘めつつ、それを表に出さないようにしながら、ロワはシェリーの白い額を小突いた。
「おう、俺がくたばる程の猛毒が手に入るといいな」
「……何か貴方、余裕そうね。苛つくわ」
シェリーは小突かれた箇所を押さえながら、不満そうに紅い唇を尖らせる。
すると、ロワは目をぱちくりさせ、それから薄い笑みを湛えながら片手を伸ばした。しっかりとした大きな手が、シェリーの細くしなやかな腰を抱き寄せる。
一気に近付いた二人の距離。
それに対応しきれず、顔を赤らめたまま固まっているシェリーを見て、ロワはくつくつと喉を鳴らした。
「余裕なんかねえよ。嫁が可愛すぎるからな」
そう言ってロワは滑らかな額に口付ける。
額に触れた感触に、シェリーは数秒きょとんとしていたが、それが唇だと認識すると更に顔を赤らめた。
「か、かか、かわ……っ!?」
羞恥や嬉しさが一気にこみ上げてきた。その所為で上手く舌が回らず、シェリーは言葉にならない声を上げながら口を何回も開閉させる。
その様子を見ていたロワは、自身の中にある加虐心が煽られるのを感じた。溢れる笑みが抑えきれない。
そうして、更に何か仕掛けてやろうと企みかけた時、腕に抱かれていたシェリーが動いた。
「何、にやついてるのよ……!」
傍らの調理台に手を伸ばしたと思ったのも束の間、何かを掴んだ手が高々と振り上げられる。
「……っ!?」
それを目で追っていたロワは、その手に掴まれた物を視界に捉えると、咄嗟にシェリーを離して後ろに退いた。
目の前を銀色が通り過ぎていく。
鼻先を掠める一歩手前で何とかそれを避けたロワは、顔を引きつらせながら口を開いた。
「お前、幾ら恥ずかしいからって、フォークで人を刺そうとするなよ!?」
「うるさい! 大体貴方がここ最近、人の事を嫁だの何だのってやたら言うから……!」
「嫁に嫁って言って何が悪いんだよ? それともお前以外の奴にそう言っていいのか?」
「……っ!!」
再びフォークを振り下ろそうとしていた手が止まる。
シェリーは何か言おうとして口を開きかけるも、顔をますます真っ赤にさせて、結局言葉を詰まらせた。
しかし、余裕そうに笑って自分を見ているロワを睨みつけると、調理台の下の戸棚を素早く開けた。
そして、中に収納されていたナイフやフォークを無造作に掴み取り、それらを両手の指の隙間に挟み込んで構えた。
「分かってるくせに聞かないで! 馬鹿っ!」
家中に怒鳴り声が響いて、シェリーの両手から銀食器が真っ直ぐにロワへと放たれる。
「げっ!?」
予想外の武器を使われて一瞬怯んだロワだったが、飛んできた銀食器を俊敏な動きで全て指で受け止めた。
まるで大道芸のようなやり取りだが、勇者が本気で投げた物が当たりでもしたら大怪我に繋がる。
ロワは秘かに少しだけ冷や汗を浮かべながら、二回目の攻撃を行おうとしていたシェリーに慌てて声を掛けた。
「待て、ちょっと待て!」
「何よ! また変な事言って私をからかおうって言うなら、今度こそ……」
「違うっての! そろそろ仕事行かねえとソルダに怒られるんだって!」
「え? ……あ、本当、もうこんな時間だったのね」
壁に掛かる時計を見上げたシェリーは、あっさりと武器を元の戸棚に戻す。
それからフライパンを持ってリビングに行くと、籠から取ったパンに焦げたオムレツを挟んだ。
「はい、どうぞ」
「あ? むぐっ!?」
受け止めた銀食器を片付けていたロワに声を掛け、振り向いた所で口にそのパンを押し込んだ。
突然口を塞がれて目を白黒させるロワに、シェリーは先程の仕返しだと言いたげな笑みを浮かべる。
「朝ご飯は大事だもの、ちゃんと食べさせるのも嫁の役目よね?」
「ぐっ……」
言い返したくとも、口内を埋め尽くすパンの所為で何も言えないロワは、悔しそうに視線を送るしか出来ない。
やがて、どうにかパンを飲み込むと、忌々しそうに鼻を鳴らしてリビングを出て行った。
その後をシェリーは平然とした顔で追いかけて玄関に向かう。
「今日は遅いの?」
「あー……蜥蜴ジジイがさっさと解放してくれりゃ、遅くはならねえと思う」
「……そう」
返事を聞いたシェリーの眉が少しだけ下がる。
それに気付いたロワは口端を上げ、シェリーの眉間を人差し指でくりくりと軽く押した。
「なるべく早く帰ってきて構ってやるから、そんな湿気た顔すんなって。この寂しがり勇者が」
「だ、誰も寂しがってなんかないわよ! いいから早く仕事行きなさい!」
手を振り払ったシェリーは両腕を組んでそっぽを向く。
あからさまな照れ隠しの態度に、ロワは再び加虐心が疼いたのを感じたが、時間が差し迫っているのも事実だったので、それを抑え込んでドアノブに手を掛ける。
「じゃあ、行ってく……あっ」
「え? 何、忘れ物でもした?」
出て行こうとして足を止めたロワに小首を傾げる。
するとロワは「おう」と頷き、ドアノブから手を離して、きょとんとした顔で自分を見上げているシェリーに向かい合った。
「忘れ物、貰うぜ」
そう言ってロワは身を屈め、無防備な唇に自分のそれを躊躇い無く重ねた。
突然降ってきた口付けに驚き、体を強ばらせたシェリーは目を真ん丸にさせる。
やがて唇を離しても、驚いた状態のままで硬直しているシェリーを見て、ロワは悪戯な笑みをふっと零した。
「じゃあ、行ってくるな」
今度こそロワはドアを開け、外に出て行く。
「……!」
ドアの閉まる音で我に返ったシェリーが、急いで玄関を飛び出すも、ロワの背中は既に大分離れた所に見えた。
その事を確認したシェリーは、せめて文句を飛ばしてやろうと息を吸い込みかけて止める。
それから自分の唇をそっと撫でると、もう追いかけるには遠くなった背中を見て、今度こそ大きく息を吸い込んだ。
「ロワ、行ってらっしゃい!」
青空の下でシェリーの声が響き渡る。
すると、遠ざかりつつあった背中が一旦止まった。
「……あっ」
ひょいと挙げられた片手。そこの薬指で銀色がきらりと煌めいた。
思わず声を漏らしたシェリーは、じわじわと口元を緩ませると、蜂蜜色の髪を柔らかく靡かせて踵を返した。
(さて、まずは洗濯して……それから掃除、夕飯は……二人分用意しておいても大丈夫よね。……あとは時間があったら、マドレーヌでも焼いておいてあげようかしら?)
戦場の光景でも戦闘の方法でもない。今日一日の家事の流れを考えながら、シェリーは穏やかな表情で自宅へと帰って行く。
勇者と魔王の夫婦生活は、まだまだ当分は終わりそうにない。
END.