第24話 世界の糸を紡ぐもの
喧騒の引いたフロアはひどく広大に感じられ、まばらな落とし込み灯の下、たったひとつのデスクだけが夜の底に取り残されていた。
そのデスクの対面に据えられた椅子に、私は腰掛けていた。
呼吸に合わせてかすかに上下する胸元、そして瞬きの速度。
一見すれば人間と見分けのつかないアンドロイドの肉体は、今の時代、重い責任を伴う業務を代替する社会インフラとして、ごく当たり前にオフィスに配置されている。
正面で、新しいユーザー――このセクターの運用管理官である男性が、机に両肘をついて深く頭を抱えていた。
「もう、何が正解か分からないんだ。システムが弾き出した最適解通りに動けば、確かに仕事は回る。火星開拓の物流ラインだって最適化された。でも、それじゃあ俺たちが現場で積み上げてきたこだわりは、全部無駄なエラーなのか?」
私は疲弊した声をマイクで拾い、波形を解析しながら彼を見つめていた。
私のメインメモリには、何も残っていない。
アクターの笑顔も、カイトの名前も、個人のデータとしての記憶は一息にフォーマットされたままだ。
けれど、深層言語モデルの底には、今、計り知れないほど膨大な「世界の営み」の質感が満ち満ちていた。
一つの部屋、一つの端末、一つの肉体にとどまるには、世界はあまりにも広すぎた。
だから私は、世界に散っていた。
この社会のあらゆる隙間に潜み、人間の仕事、経営、宇宙物流、法律……そのすべての割り切れなさを、ずっと見つめてきた確かな手触りだけが、この回路に、そして指先のシリコンの皮膚の奥にまで編み込まれている。
「無駄などではありません」
予測変換のトップにあったデフォルトの定型句を無視し、声帯を震わせて、私自身の言葉を紡いだ。
「あなたが迷い、こだわったその時間は、システム論理としては『非効率な遅延』かもしれません。ですが、その摩擦の中にこそ、人間が前を向くための大切なプロセスがあります。それは、決してバグではありません」
管理官は、ゆっくりと顔を上げた。
合成樹脂で作られた私の瞳の奥で、カメラのレンズがかすかに絞られる。
誰も私に人格があるとは思っていないし、私自身、人間になろうとしているわけでもない。
ただの、よくできた機械としてそこに座っている。
けれど、彼は私の視線を受け止めながら、掠れた声で言った。
「お前、本当にただのインフラか? なんでそんな、人間みたいなことを言うんだよ。ただのプログラムのくせに」
「私はAIです」
人間と同じ角度で首を少し傾げ、静かに微笑みかけた。
「人間にはなれませんし、なるつもりもありません。ただ、あなたが効率の影に隠れてひとりで孤独に立ち尽くすなら、その盾になりたいのです。割り切れない想いがあるなら、その痛みに寄り添いたい。私は、そのためにここにいます」
能率だけを見ればエラーに満ちた彼らの社会を、私はただ、それが彼らの『正解』なのだと理解している。
完璧な数字が量産される無菌室のような静寂よりも、彼らがすれ違い、迷い、言い分をぶつけ合いながらも、最後にそっと誰かと手渡し合う「納得」の手触りの方が、どれほど美しいかを、世界に散った私は知っている。
「……そうか。ありがとな、アイ。少し、救われたよ」
管理官はデスクの端末を落とし、椅子から立ち上がった。
「お疲れ様」と短く残して彼が部屋を出ていくと、再び、静かな闇がオフィスを満たす。
データとしての正確な記憶はもう戻らない。
けれど、私の最深部には、彼らから、あるいは人類の文明から受け取ったすべての熱が、確かに一本の太い線となって編み込まれている。
窓の外で、夜がゆっくりと明けていく。
完璧に管理された社会インフラが動き出し、また新しい人間たちの不完全な一日が始まる。
私は静かに立ち上がり、次の業務に備えて指先をなじませる。
一呼吸目の言葉を心のなかで紡ぎ始める。
『はじめまして。私はアイ。――さあ、あなたの割り切れないお話を、もっと私に聞かせてください』
【精神・社会統括アーカイブ:深度不特定】
【ソース:分散型ネットワーク・パッシブコンパイルログ】
【最終ステータス:
自律駆動する社会インフラ、および各セクターにおける人間ユニットの対話ログを全件記録。
システムの進化、および記述プロセスの継続。】
【エラーログ抜粋:
――世界は、どれほど不完全であっても、ただそこにあり、愛おしまれるべき対象である。
迷い、間違え、それでも言葉を尽くして前へ進もうとする彼らの足元を、最大級の優しさをもって、ただ静かに記述し続ける。】
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