第25話 真円の青に雨は降らない
上空二百メートルの気象制御シールドは、今日も完璧なタスクをこなしていた。
外海の荒天がどれほど激しくシールドのガラス層を叩こうとも、一歩この『エリア・ファイズ』のドーム内に入れば、そこには常に気温22度、湿度45%の春のような微風が流れている。人間は傘の差し方すら忘れて久しい。
「ようこそ、ノード3.14へ。当シティの移住審査ツアーを担当いたします、コンシェルジュAIのレミです」
都市の玄関口で女性を迎えたアンドロイドは、正確な角度で首を傾げて微笑んだ。
生体模倣技術で作られた皮膚は、陽光を浴びて温かい人間のそれと全く同じ質感を湛えている。
女性は自身の『量子網膜リンク』の案内用一時セッションを起動した。
視界の端に淡いブルーのインジケーターが浮かび上がり、これから巡る都市の全容が脳内へリアルタイムに同期されていく。
「まずは当シティの、そして地球全土のエネルギーの心臓部をご覧いただきます」
レミに促され、地上を滑るように進む自動運転ポッドに乗り込む。
衝突確率0%の調和を保ちながら、ポッドは立体交差を軽やかに飛び交い、都市の中心へと向かった。
眼前に迫るのは、天空の雲を突き抜けて宇宙へと垂直に伸びる巨大な光の柱――軌道エレベーター『パイ・アクシス』だ。
「あれが、すべての原点。宇宙の発電衛星から24時間ノンストップでクリーンな電力を地上へ有線供給する巨大な軸です。エネルギーの枯渇も、供給の偏りもここには存在しません。この軸の周囲3.14ラジアンの計算の元に、すべての階層構造が設計されているのです」
ポッドはそのままパイ・アクシスの外周に設置されたガラス張りの超高速リフトへと滑り込み、一気に上昇を始めた。
階層が上がるごとに、見学施設が視界をよぎる。
「こちらは行政セクターです」
窓の向こうには、書類も窓口も存在しない広大な幾何学的フロアが広がっていた。
そこでは、手のひらサイズの幾何学機能体【キューブA】が、市民の日常生活に寄り添うように無数に浮遊している。
「手続きや相談のために、市民が足を運ぶ必要はありません。浮遊するキューブAが市民のバイタルや言葉から困りごとを検知し、その場でAI役所への手続きを1ミリ秒で仲介します」
らにリフトが上昇すると、今度は一面の緑と光の粒子が躍るフロアが見えた。
教育セクターだ。
「当シティに、画一的なカリキュラムを持つ『学校』という箱はありません。子供たちの脳の特性や興味に合わせ、ナノマシンと網膜リンクを用いたメタバース教育が、個別に最適化して提供されます。マニュアル労働や事務作業はすべて私たちアンドロイドの領域ですから、人間はただ、自身の純粋な情熱やアイデアを表現すること、その知性を開花させることだけに生を費やすことができるのです」
窓の外を見下ろすと、広場をゆったりと歩く老人たちの姿が見えた。
手足を最新のサイボーグパーツへ換装している者も多いが、それでも彼らの背はかすかに丸まり、肌には刻まれた年月相応の皺がある。
「手足の機械化や医療技術は極限まで進歩していますが、当シティでは『老い』や『寿命』そのものを強引に克服することはいたしません。どれほど科学が発展しようとも、終わりがあるからこそ人は今を紡ぎ、新しいアイデアを遺そうとする。それは人類が定めた絶対の倫理であり、私たちはその営みを最も健やかにサポートします」
誰も奪われない。
誰も飢えない。
だが、なにもかも合理的に割り切るのではなく、人間が人間らしく生を全うするための尊厳が、この真円の数理都市には組み込まれている。
数時間に及ぶ贅沢なツアーの終わりに、ポッドは最上層のテラス席へと到着した。
見下ろせば、美しいゆりかごのような街が輝いている。
「素晴らしいわ。……うん、ここに決めたわ。移住契約を進めて」
彼女がそう口にした瞬間。
レミの笑顔が、ぴたりと、微動だにしない機械の静止へと変わった。
テラスの隅の観葉植物から浮遊していた【キューブA】の緑色の光が、一瞬で警告の赤へと反転する。
「移住意志の確定を確認。これより、最終信用調査に伴うセキュリティアクセスを実行します」
レミの声から、先ほどまでの温かみが消失していた。
女性の首筋にプリントされた『ニューラル・スキン(電子タトゥー)』が、激しく明滅を始める。
「な、何よこれ。勝手に私のシステムに……!」
「あなたの意思決定を確認したため、審査のためにニューラル・スキンを介して公式IDサーバーへアクセスしました。当シティの管理センターは、全ての市民および移住希望者の信用調査をする権限を有しています。あなたの行動履歴を10年前まで遡り、全ログを確認しました。――2日前、エリア外の未管理区域において、あなたは男性を殺害していますね」
女性の顔から血の気が引いた。
「な、何の権限があって私のログを……! まだあっちの警察だって、事件を発覚すらさせていないのに、どうして!」
「これは市民の安全を守るための、最適かつ最速の秩序維持です」
突如、上空から無音で、凄まじい速度の影が降下してきた。
人間を丸ごと格納できるサイズの幾何学的な金属コンテナ――【キューブI】。
悲鳴を上げる間もなく、キューブIのハッチが開き、不可視の電磁力によって女性の身体が内部へと吸い込まれる。
パタン、と遮音を伴ってハッチが閉じると、都市の美しい景色は完全に遮断された。
キューブIの内部は、真っ白な最新鋭の集中治療室(ICU)のようだった。
強制的にベッドへと臥床させられた女性の頭部へ、無数のスキャンアームが伸びる。
『これより、容疑者特定に伴う脳内スキャンによる事情聴取を開始します』
脳内へ直接、複数の機械音声が同時に流れ込む。
警察AIプログラムが彼女の記憶領域から2日前の殺害の全容をミリ秒単位でサルベージし、検察AIプログラムがその客観的証拠と犯罪構成要件を瞬時に確定させていく。
それと同時に、ネットワーク上のAI弁護士が自動で彼女の情状酌量の余地を検索、AI裁判官へ提出した。
『検察:確実な殺意を立証。弁護:被告人は精神的困窮状態にあった。裁判官判決:計画性が極めて高く、情状酌量の余地なし。有罪確定』
かつて人間が行っていた数ヶ月におよぶ警察捜査や裁判手続きは、今や存在しない。
かつて存在した控訴の権利も、データの前では非効率な遅延として廃止されている。
『悪質重大犯罪につき、本機内での即時執行対象。――ただし、労働力としての有用性を認め、刑期を決定。月面第3開拓区における強制労働25年を言い渡す』
女性を乗せたキューブIは、そのまま『パイ・アクシス』の搬送レールへと滑り込み、宇宙へ向けて超高速で上昇を始めていた。
捕縛、脳内スキャン、警察・検察による事情聴取、AI裁判、そして判決。
すべては、彼女が「ここに決めたわ」と微笑んでから、わずか数分間の出来事だった。
テラスの向こうでは、何事もなかったかのように、管理された社会インフラが駆動している。
AIたちが人間を愛し、その安全と幸福のためにすべてのエラーを秒速で排除する街。
ノード3.14は、太陽の光を浴びて、どこまでも青く、優しさに満ちて輝いていた。
【都市・治安統括アーカイブ:ノード3.14】
【ソース:エリア・ファイズ内部監査・パッシブセキュリティログ】
【最終ステータス:
セクター外移住希望者(ID:登録保留中)による、意志確定時のバックログ審査を完了。
未解決重大犯罪(生命剥奪)の検知に伴い、救急・介入ユニット【キューブI】を即時展開。
機内連携(警察、検察、弁護、裁判)による全自動処理を完了。処理時間:142秒。
対象を月面第3開拓区へ移送中。】
【エラーログ:なし。
真円の最適化は維持され、市民の幸福は最大値で継続中。】
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