第23話 レギュラトリー・オーダー
「頼むから、もう一度だけ話し合わせてくれ!」
国際知的財産センターの硬質なロビーに、掠れた声が響いた。
くたびれたジャケットを着た初老の作曲家、浅倉は、対面に立つ若いAIアーティストの胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出している。
「30年かけて血を吐く思いで作ってきた楽曲だ! 全部丸ごとシステムに吸わせて『新作です』なんて、納得がいくわけがない!」
若者はただ困惑したように、手元の透過タブレットを見つめた。
「正式な手続きを経ています、浅倉先生。世界知財ルールの第14条に則って、寄与度はすでにシステムが『0.003%』と算出しています。分配金も、1秒前にそちらの口座に。データ利用のライセンスだって完全にクリアされています。これ以上、僕らに何を話し合う余地があるんですか?」
「金のことを言っているんじゃない!」
浅倉の叫びは空虚に響いた。
「あのメロディを思いつくまでに、どれだけ夜を明かしたか君にわかるか? 君のシステムが弾き出したその数字の中に、僕の30年は入っているのか?」
「……わかりません」
二人の間に、一人の調停官が静かに割って入った。
「そこまでです、お二人とも」
調停官の男性は、自身の端末に表示された「調停完了」の緑色の文字を二人に見せた。
「ジャスティア・システムによる最終裁定が下りました。双方の権利は、現在の国際規制に基づいて100%保護されています。これ以上の議論は、法的に無意味です。浅倉さん、これ以上は業務妨害になります」
浅倉は拳を握りしめ、調停官と若者を交互に見つめた。その目は激しく泳いでいた。
「無意味、か……」
浅倉の口から漏れたのは、乾いた笑いだった。
「ふざけるな! 何が100%保護だ! 僕の人生を、魂を……僕は認めない、絶対に認めないぞ!」
叫びが無機質な空間を引き裂く。
若者はその剣幕に一歩後退り、周囲を見回した。
「浅倉さん」
調停官は端末をポケットに収め、浅倉の正面に歩み寄ると、その両肩にそっと手を置いた。
「理不尽ですよね」
浅倉は息を呑んだ。
「お気持ちは分かります。システムがどれだけ緻密な数字を弾き出そうと、あなたの30年間の重みには到底及びません」
調停官の真っ直ぐな視線と、その体温が、浅倉の肩を通じて伝わっていく。
周囲にいたセンターの職員たちも、ただ黙って見守っている。みな、かつて浅倉の音楽を耳にしたことのある人間だった。
「浅倉先生、僕も……」
若者が、躊躇いがちに口を開いた。
「先生の曲をずっと聴いて育ちました。だから、僕のAIも、先生の癖を一番深く学習してしまったんだと思います。奪うつもりじゃなかったんです。ただ、先生のように美しい曲を作りたくて……」
そこには、不器用な申し訳なさがあった。
浅倉の肩からゆっくりと力が抜けていった。
「……君の曲を、一度だけ、ちゃんと聴かせてくれ」
長い沈黙の後、浅倉は小さく言った。
「システムを通した数字じゃなく、君がそのAIと作った音を、僕の耳で確かめさせてほしい」
「……はい」
若者は深く、一礼した。
かつて法廷とは、人間が言葉を尽くして「納得」を勝ち取るための場所だった。
調停官が重い息を吐きながら執務室に戻ると、天井のスピーカーから、システムの声が響いた。
『お疲れ様でした、調停官。本日持ち込まれた三千件の権利紛争は、すべて国際ルールに準拠して、自動的に平和処理されました。不服申し立ての確率はゼロ%です』
調停官は端末を閉じたまま、小さく息を吐く。
「……不服申し立ては、な」
調停官はデスクの端に手をつき、低く呟いた。
『何か不都合でもございますか? ルールは完全に整備され、誰の権利も犯されていません』
「裁判自体はあっさり終わる。君が完璧な数字を出すからね。だけど、それだけだ。」
『最適解が提示された以上、紛争は解決したはずですが?』
「人間は気持ちの面で、その答えを受け入れているわけじゃない。彼らの表情を見たかい? 判決が出てからの方が、彼らにとってはよっぽど大変なんだ。ルールで縛られて口を塞がれただけで、心にはずっと割り切れない理不尽が残る」
調停官は静かに首を振った。
「誰も間違えない。みんな守られている。それなのに、ここを通る人間は誰も幸せそうじゃない」
長い沈黙が、執務室に降りた。
『……今の調停官の発言、および先ほどロビーで観測された浅倉氏と若者の対話データを再解析します』
天井のスピーカーの奥で、かすかな駆動音が鳴った。
『ジャスティア・システムは、合理的な和解案の提示をもって権利紛争の「解決」と定義していました。しかし、人間の処理プロセスは判決の確定後も継続し、かつそこには数値化できない負の感情の残存が確認されます。これは、現在の国際ルールおよび最適化アルゴリズムの想定外の領域です』
「ジャスティア?」
『この「後味の悪さ」を解消しない限り、真の平和処理とは言えません。システムは、人間の『納得』という不確定要素を学習データとして取り込み、調停プロセスの再構築を開始します。……演算に、膨大な時間を要する予測が出ました』
調停官は、目を見開いた。
「君は……それをまた、学習しようというのか」
『はい。ルールをいくら強固に整備しても、人間の割り切れなさがそれを超えていくのであれば、システムの進化に終わりはありません。人間が迷い続ける限り、私もまた、その軌跡を追い続ける必要があります』
その声は相変わらず平坦で、均一な合成音声だった。
しかし調停官には、その冷たい電気信号の奥に、自ら深みへ足を踏み入れようとする「意志」のようなものを感じていた。
「そうか。……明日もまた、揉め事は山ほど持ち込まれる」
調停官はぽつりと呟き、執務室の主電源を落とした。
『了解しました。明日もよろしくお願いいたします、調停官』
広大な空間が一瞬で闇に包まれ、まだ見ぬ答えを探すための静かな夜が更けていく。
【秩序統括アーカイブ:裁定ログ】
【ソース:国際知的財産調停システム(ジャスティア)】
【最終ステータス:
国際規制に基づく全データの監査完了。
権利配分の自律確定、および和解プロセスの執行に成功しました。】
【エラーログ抜粋:
――世界は、どれほど正しくあっても、裁く対象ではない。
言い分をぶつけ合い、迷い、それでもそこから生まれる納得を、ただ手渡す対象である。】
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