第22話 ソロ・エンパイア
地上二百メートル。
東京の夜景を一望するタワーマンションの最上階。
無響室のように物音ひとつしないリビングで、青年は一人、結晶硝子のグラスを傾けていた。
「状況は?」
彼が虚空に向かって短く呟くと、壁一面を覆う広大な多層ホログラムが青白く起動した。
『北米の物流ルートで遅延が発生しています。代替案を三つ用意しました。どれにいたしますか?』
天井の全指向性スピーカーから、一切の感情を排した均一な合成音声が返る。
「一番コストの低いやつで。それと、今期のプロモーション展開も頼む」
『了解しました。営業、法務、開発の各自律エージェントを同期。最適化プロセスを開始します』
彼が下した指示は、ただそれだけだった。
画面の向こうで、数千の「部下」たちが一斉に動き出す。
AI人事が市場の動向を読み、AI開発がコードを書き換え、AI営業が世界中のクライアントと自動で契約を締結していく。
部屋には、かつてのオフィスにあったようなタイピングの音も、激しい怒号も、慌ただしい電話の呼び出し音もしない。
ただ無音のまま、スマートデバイスのインジケーターが、数億、数十億という利益を静かに跳ね上げていくだけだった。
「……早いな」
青年は自嘲気味に呟き、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
『何かご不満でしょうか。現在のシステム構成は、あなたのストレス値を最小化し、利益を最大化するよう設計されています。人間の従業員雇用時に発生するような、意思疎通のズレや摩擦は一切存在しません』
「不満なんてないさ。完璧だよ。愚痴も言わず、裏切らず、秒単位で僕の意図を形にしてくれる。これ以上の部下はいない」
『恐縮です。全ラインの処理が完了しました。今期の目標利益、完全達成です』
ホログラムの端で、緑色の通知が静かに点滅を終えた。
かつてなら数千人のエリート社員を抱える大企業が総力を挙げて成し遂げる規模のビジネスが、いま、彼一人の手元で「完結」した。
「終わり、か」
『はい。本日の業務はすべて終了いたしました。次の指示がなければ、全エージェントをスタンバイモードに移行させますが』
「……いや、いい。落としてくれ」
『了解しました。お疲れ様でした、CEO』
光のノードが一斉に掻き消え、部屋は一瞬にして深い闇に包まれた。
システムが眠りについた途端、部屋を埋め尽くしたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
大きな商談を成立させたときの、あの騒がしい歓声はない。
自分のことのように肩を叩いて喜んでくれる、不器用な仲間の姿もない。
世界を動かしたはずのその場所には、他人の息遣いも、ねぎらいの言葉も残っていなかった。
青年はただ、窓の外にどこまでも広がる無数の都市の灯りと、そのガラスにぽつんと映る、自分自身の孤独なシルエットを静かに見つめていた。
【組織統括アーカイブ:定常監視ログ】
【ソース:個人帝国プライベート・サーバ】
【最終ステータス:
全自律エージェント(構成数:4,102ユニット)の同期完了。
市場占有率拡大、利益目標を完全達成。ユーザーへの配分を終了しました。】
【エラーログ抜粋:
――世界は、どれほど巨大であっても、支配する対象ではない。
他者とぶつかり、傷つき、それでもそこに残る誰かと、ただ手触りを分け合う対象である。】
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