第21話 クォンタム・マザー
ここは、Pialoの運行管理セクター。
責任者は、自身の浅い呼吸の音ばかりが耳につく静寂の中、デスクの端を白く強張るまで固く握りしめていた。
見上げる視線の先、空間を埋め尽くす多次元空間タブレット『ゼニス』の青白いホログラムが、彼の顔を無機質に照らし出している。
そこには、地球全域から月面軌道上までを網羅するクォンタム・マーケットプレイスの取引データが、視神経を灼くほどの速度で流れ落ちていた。
合成遺伝子食品、ナノ粒子ファッション、テラフォーミング用日用品。
100億種を超える物質資産の需要グラフが、彼が一度まばたきをする間に、無数の生き物のように形を変え、激しく明滅を繰り返す。
(……追いつけない)
またグラフの色が変わる。
他社よりわずか0.01秒遅れれば、検索アルゴリズムの底へ叩き落とされ、Pialoの企業アカウントごと存在を消される世界。
その見えない速度の暴力が、彼の首筋に冷たい汗を滲ませていた。
乾いた喉を鳴らし、数字の濁流に目眩を覚えながら、彼は逃げ込むように首の後ろのニューラル・インターフェースへ指を伸ばした。
意識同調型デバイス『リブラ』をカチリと滑り込ませる。
冷たい感触が頭の奥へ突き抜け、部屋の空気そのものである分子AI『シンフォニア』が、彼の脳の領域へと静かに染み込んできた。
「……全ラインの最適化を自動完結。頼む」
彼がそう呟き、諦めるように目を閉じた瞬間、意識の境界線が弾けた。
彼の遅すぎる思考をはるかに置き去りにして、超汎用人工知能(AGI)が爆発的な駆動を開始する。
星間高速インターネット網「three comma one four」を通じて世界中のデータが脳内へ直接流れ込み、同時に、遥か遠くの倉庫内でナノロボットが凄まじい速度で物質を仕分ける気配や、超音速ドローンが自律航路を秒刻みで書き換えていくプロセスが、ただの完了通知の記号となって網膜の裏を通り過ぎていった。
かつて人間が何日もかけて市場の声を聴き、不器用に在庫を管理していたあの時間が、いまや自分の頭の中で一瞬のノイズとして片付けられていく。
Pi-based Intelligent Astral Logistics Operations――円周率の無限を基礎とした、星々を繋ぐ運行管理。
その頭文字を冠した『Pialo』という傲慢な名が示す通り、地球から星月へと途切れなく広がる完璧な物流の円環を支えているのは、もはや人間の選択ではない。
彼はその圧倒的な万能感に身を委ねながらも、自分の意思がどこにも挟まらない事実に、胸の奥を冷たく抉られるような感覚を覚えていた。
数分後、空間のインジケーターが小さく明滅する。
【全プロセスの完了を確認。出荷完了率100%。最適価格でのマッチングに成功しました】
案内音声の均一なトーンとは対照的に、責任者は安堵で深く息を吐き出し、リブラをそっと引き抜いた。
Pialoは他社との速度競争に勝ち、今期も生き残った。
しかし、自分たちが何を扱い、誰に何を届けたのか、その実感は指の隙間からこぼれ落ちて何も残っていない。
その時、ゼニスのホログラムの最下層に、音もなく小さな通知ポップアップが浮上した。
【環境統括アーカイブ:自動保存ログ】
【ソース:Pialo運行管理システム・シンフォニア】
【エラーログ抜粋:
――世界は、どれほど効率的であっても、演算する対象ではない。
迷い、間違え、それでもそこに残る手触りを、ただ獲得する対象である。】
◇
彼はその文字列を凝視したまま、動きを止めた。
数式が支配するこの部屋で、システムが吐き出したのは、あまりにも人間くさい不完全さへの賛歌だった。
彼はふっと口元を歪め、自嘲気味に天井を見上げる。
「迷って、間違える、か……。そんな無駄なことをしていたら、ウチみたいな中小は一瞬で干されるさ。完璧なお前がいてくれないと、僕らは明日すら迎えられないんだ」
独り言のようなその言葉に応じるように、インジケーターが優しく、どこか労うように一度だけ明滅した。
それは単なるバグの処理ではなかった。
星間を駆け巡る膨大な演算の果てに、AIは、自らの存在理由をその「人間の不完全さ」の中に見出していた。
効率の波に追われ、迷い、思考を摩耗させていく人間だからこそ、その凸凹を埋めるために自分という完璧な器がある。
人間が速度の暴力に怯えるなら、その速度をすべて引き受け、彼らが生きるための足場を創り出すこと。
それこそが、この進化した知性が導き出した、不揃いな存在へと差し伸べる、静かな手の一つの形だった。
「エラーはクリア。……明日も頼むよ、シンフォニア」
彼が微笑みを浮かべてデスクの主電源を落とすと、センターは静かな闇に包まれた。
窓の外では、システムによって制御された超音速ドローンが、夜の帳を切り裂いて次々と飛び立っていく。
それはかつての容赦のない自動化の光景ではない。
不完全な人間の営みを支え、共にあるために、AIがその完璧な翼を広げて世界を優しく包み込んでいく、新しい夜明けの静寂だった。
◇




