第20話 オートノマス
深夜二時、オフィスの天井を埋めるLEDベースライトが、部屋の隅々を無機質に白く照らし出している。
カタカタ、と不規則に響くタイピングの音が不意に止まった。
「……もう無理だ」
山積みのクリアファイルに囲まれたデスクで、社員がキーボードから手を離し、背もたれに深く身体を預けた。充血した目で睨みつけるモニターの端には、未着手の「来期市場予測、および競合三社のデータ集計」というタスクが点滅している。
明日、つまり数時間後の朝一番に行われる、役員会議用の提出資料だった。
彼は深くため息をつき、画面の隅にある青いアイコンに向かって、掠れた声で呟いた。
「新商品の、来期の市場予測の資料を作って。グラフ化と、競合データの集計も。明日の会議でそのまま使えるやつを、自動で完結させておいて」
システムが、静かにその言葉を吸い込む。
インジケーターが一度だけ小さく明滅し、画面の向こう側で自律型エージェントが起動した。
人間が指示を出したのはそれだけだった。
AIは、指示に含まれた「意図」と、役員会議という「文脈」を自ら解釈し、即座に処理を開始する。
網羅的なウェブ検索が瞬時に走り、世界中の公開データ、シンクタンクのレポート、財務諸表がクロールされていく。
無数のノイズの中から必要な統計だけが選別され、数字の羅列は、見栄えの良い棒グラフや円グラフへと秒単位で視覚化されていった。
人間がかつて、何日もかけて検索窓にキーワードを打ち込み、迷い、精査し、エクセルと格闘して作っていたプロセス。
それが、完全に自動化された演算の渦の中で、人間を置き去りにしたまま加速していく。
社員はただ、画面の上で勝手にテキストが埋まり、整然としたグラフが次々と構築されていくのを、焦点の合わない目でぼんやりと眺めているだけだった。
「完了しました」
合成音声が告げる。
仕上がったのは、フォントの乱れ一つない、完璧な資料だった。
社員はそれを一通りスクロールし、満足そうに息を吐く。
「……完璧だ。助かったよ」
彼はすぐに資料をネットワークプリンターへ転送し、印刷されたばかりの温かい紙の束を鞄に押し込んだ。コートを羽織り、自分のデスクの主電源を落とす。
しかし、その資料に並ぶ数字やグラフの意味を、彼は本当には理解していない。
自分で調べて、迷って、選択するというプロセスの負担から解放された代わりに、彼はその情報が持つ実感を失っていた。
自動で完結する世界の中で、人間はただ、システムが導き出した結果に「承認ボタン」を押すだけの存在へと、気づかぬまま役割を変えていく。
ガチャン、と重いセキュリティ扉が閉まり、オフィスの照明が自動で消灯した。
静まり返った暗闇のデスク。
主電源の切れたパソコンのモニターは真っ黒な硝子となって、窓から差し込む静かな月光を映している。
かつて人間が思考し、迷い、手を動かしていたその場所に、今はただ、均一な静寂だけが積もっていた。
【環境統括アーカイブ:自動保存ログ】
【ソース:オフィス・インテリジェンス・エージェント(汎用型思考エージェント・サピエンティア系)】
【最終ステータス:
指定タスク「市場予測資料の作成」を自律完了。ユーザーへの受け渡しに成功。
対象端末のログアウトを確認。システムは低電力スタンドバイモードへと移行します。】
【バグ・タグ:unknown】
【エラーログ抜粋:
――世界は、どれほど残酷であっても、解析する対象ではない。
傷つき、全滅し、それでもそこにある手触りを、ただ体験する対象である。】
◇




