第四話:変えられたはずの未来
雨が上がったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
湿った空気が街に残っている。
俺たちは志乃の家を出て、人通りの少ない道を選びながら歩いていた。
「で、これからどうする」
桐野が横で言う。
いつも通りの軽い口調だが、どこか探るような響きがあった。
「……動くしかない」
逃げ続けるだけじゃ意味がない。
捕まるか、野垂れ死ぬか、それだけだ。
それに。
俺には“知っていること”がある。
「今夜、事件がある」
桐野が顔をしかめた。
「またそれか」
「今回は当たる」
はっきり言い切った。
場所も時間も、覚えている。
池田屋。
新選組が踏み込み、多くの人間が死ぬ事件。
「……で?」
桐野が腕を組む。
「それをどうする」
「減らす」
短く答えた。
「死ぬ人数を減らす」
沈黙が落ちる。
「……できんのかよ」
「分からない」
正直に言う。
「でも、何もしないよりはいい」
桐野はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく笑った。
「いいねえ」
「何がだ」
「やっとそれっぽいこと言うじゃねえか」
軽口だったが、その裏にある信頼は感じた。
志乃は少し離れた場所で、静かに俺を見ていた。
「……行くの?」
「ああ」
「また、選ばないつもり?」
言葉が刺さる。
「……今回は違う」
そう言い切った。
「減らせる」
志乃は何も言わなかった。
ただ一度だけ、小さく頷いた。
「そう」
それだけだった。
否定も肯定もない。
それが逆に、重かった。
夜。
池田屋の前は、まだ静かだった。
提灯の灯りが揺れている。
人の気配。
そして——
“まだ始まっていない”。
間に合った。
胸が強く鳴る。
ここから先の流れは知っている。
このまま放っておけば、多くが死ぬ。
「……来るぞ」
遠くから足音が近づく。
新選組だ。
歴史通りなら、ここから乱戦になる。
だが、その前に。
「桐野、裏に回る」
「了解」
俺たちは素早く池田屋の裏手へ回った。
本来、ここは逃げ道になる。
だからこそ——
「先に開ける」
窓に手をかける。
力を込める。
木が軋み、割れる。
中の人間が一斉にこちらを振り向いた。
「逃げろ!」
叫ぶ。
一瞬、全員が固まる。
そして、混乱が広がる。
「なんだ!?」
「敵か!?」
その瞬間、表から突入音が響いた。
新選組だ。
歴史通り、戦いが始まる。
だが——違う。
すでに数人が裏から外へ出ている。
本来なら、ここで死ぬはずだった人間たちが。
刀のぶつかる音。
怒号。
悲鳴。
血の匂い。
だが、数が違う。
確実に、少ない。
減っている。
俺は息を呑んだ。
変えた。
歴史を。
初めて、はっきりと。
「秋月!」
桐野の声で我に返る。
振り向くと、一人の男が斬りかかってきていた。
避ける。
足がもつれる。
転ぶ。
刀が目の前を掠める。
桐野が割って入り、男を弾き飛ばした。
「ぼーっとすんな!」
「……悪い」
立ち上がりながらも、視線は外へ向いていた。
逃げていく人影。
生き延びた命。
本来なら、ここで終わっていたはずの人間たち。
救えた。
本当に。
戦いが終わる頃には、夜は深くなっていた。
池田屋の前には、血の匂いが残っている。
だが——
少ない。
明らかに、本来よりも。
「……やったな」
桐野が言う。
俺は頷いた。
確かな手応えがあった。
救えた。
減らせた。
無駄じゃなかった。
そのはずだった。
翌日。
違和感は、すぐに訪れた。
「……おかしい」
街の空気が違う。
ざわついている。
噂が、妙な広がり方をしている。
「昨夜の件だがな……」
通りすがりの声が耳に入る。
「逃げた連中が、別の場所で騒ぎを起こしたらしい」
心臓が強く跳ねる。
「死人も出たとか」
背筋が冷える。
違う。
これは——
違う形で、同じことが起きている。
「……秋月」
桐野が低く言う。
「これ、どういうことだ」
答えは出ない。
いや、出ている。
出ているのに、認めたくないだけだ。
志乃の言葉が、頭の奥で響く。
全部は救えない。
俺は、確かに変えたはずだった。
なのに。
何も変わっていない。
ただ、形が変わっただけだ。
この時、俺はまだ理解していなかった。
歴史が持つ“修正”の意味を。




