第三話:選ばなかった代償
朝になっても、雨は止んでいなかった。
薄暗い光が障子越しに滲んでいる。
俺は、畳の上で目を覚ました。
……生きている。
それを確認するみたいに、ゆっくり息を吐く。
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「起きた?」
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声に振り向くと、志乃がいた。
すでに起きていたらしい。火を起こし、薬草を刻んでいる。
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「……ああ」
体を起こすと、手首の痛みが走った。
だが、昨夜よりはずっとましだ。
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「動けるなら、すぐ出た方がいい」
志乃は淡々と言う。
「ここ、そんなに安全じゃないから」
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「追手は……」
「来る可能性はある」
短い答え。
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当然だ。
俺たちは脱走した人間だ。
ここに留まる理由はない。
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「……助かった」
俺は言った。
志乃は手を止めずに答える。
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「別に」
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素っ気ない。
だが、それでいい気がした。
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そのときだった。
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「秋月」
桐野が声をかけてきた。
顔色が悪い。
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「庄助のこと、考えてたか?」
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胸が、重くなる。
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「……ああ」
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「俺さ」
桐野は壁にもたれたまま言う。
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「昨日、あいつ引っ張ろうとしたんだよ」
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息が止まった。
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「でもな、手ぇ届かなかった」
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沈黙。
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「……あいつ、本当なら逃げられたよな」
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答えられない。
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「俺たちが先に動いたせいで、タイミングずれたんじゃねえのか?」
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それは、俺も考えていた。
だが——
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「……違う」
俺は言った。
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「違わねえだろ」
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桐野の声が、少しだけ強くなる。
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「俺たちが逃げたから、あいつが死んだ」
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その言葉は、真っ直ぐだった。
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否定できない。
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だが。
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「……あのままなら、全員死んでた」
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それが事実だ。
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「だから何だよ」
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桐野が顔を上げる。
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「一人減ったら、マシってことか?」
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言葉が詰まる。
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違う。
そうじゃない。
そう言いたいのに、うまく言葉にならない。
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その時だった。
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「その通りでしょ」
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志乃だった。
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静かな声だった。
だが、はっきりとした断定だった。
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桐野が睨む。
「なんだと?」
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「全員死ぬより、一人で済んだ方がマシ」
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迷いがない。
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「そういう話じゃねえだろ!」
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桐野が声を荒げる。
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「俺たちは仲間だぞ!」
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「だから何?」
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志乃は手を止めない。
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「仲間なら、全員一緒に死んだ方がいいの?」
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その一言で、空気が凍る。
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桐野は言葉を失った。
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「違うだろ」
志乃は続ける。
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「生き残れるなら、生きた方がいい」
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「でもよ……!」
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「でもじゃない」
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志乃は初めて顔を上げた。
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「選ばないといけないの」
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その目は、冷静だった。
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「全部は救えない」
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はっきりと、言い切る。
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「だから、どれを捨てるか決めるしかない」
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その言葉は、刃みたいだった。
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俺の胸に、突き刺さる。
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「……ふざけんなよ」
桐野が低く言う。
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「そんな簡単に割り切れるかよ」
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「割り切れないなら、全部失うだけ」
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志乃は一歩も引かない。
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「昨日みたいに」
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沈黙。
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桐野の拳が震えている。
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「……じゃあよ」
絞り出すような声。
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「誰を見捨てるか、どうやって決めるんだよ」
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志乃は一瞬だけ考えて、
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「近い人から」
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と答えた。
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あまりにも、あっさりと。
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「自分にとって大事な人を優先する」
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合理的で、残酷な答えだった。
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桐野は何も言えなくなった。
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俺も同じだった。
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分かる。
正しい。
理屈としては。
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でも、それを認めた瞬間、
何かを完全に失う気がした。
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「……俺は」
気づけば、口が動いていた。
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「俺は、誰も見捨てたくない」
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静かな声だった。
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だが、それが俺の本音だった。
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志乃は、俺を見る。
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「そう」
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それだけ言った。
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「じゃあ、多くを壊すね」
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否定でも肯定でもない。
ただの事実として。
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それが一番、重かった。
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外では、まだ雨が降っている。
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その音を聞きながら、俺は思った。
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この人は正しい。
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でも——
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それでも。
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それでも俺は。
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選びたくなかった。




