第二話:雨の中の出会い
雨は、まだ降り続いていた。
冷たい。
さっきまでの緊張が切れたのか、急に体の震えが止まらなくなる。
林を抜け、人気のない街道に出た頃には、俺たちはもうまともに歩ける状態じゃなかった。
「……はあ……くそ、さすがにきついな」
桐野が息を吐く。
もう一人の男も、ほとんど口をきかないまま、ふらついている。
俺も同じだった。
手首の傷は開き、血が雨に流れていく。体は冷え切って、力が入らない。
このままじゃ、逃げ切っても死ぬ。
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「……どこか、隠れる場所を……」
そう言いかけたときだった。
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「止まって」
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女の声だった。
静かで、よく通る声。
俺たちは反射的に足を止めた。
道の脇。
薄暗い雨の中に、一人の女が立っていた。
傘も差さず、ただこちらを見ている。
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「それ以上進むと、人に見つかる」
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敵か?
いや、違う。
直感だった。
この女は、俺たちを捕まえに来たわけじゃない。
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「……誰だ」
桐野が警戒しながら問う。
女は少しだけ首を傾げた。
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「医者の手伝いをしてるだけの、ただの人」
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嘘ではない、と何故か分かった。
根拠はない。
だが、この人は——危険じゃない。
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「怪我してるでしょ」
女は俺の手首を見た。
「そのままだと、朝まで持たない」
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正しい。
そして、それを指摘できる冷静さがある。
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「……助ける理由は?」
俺は聞いた。
女は一瞬だけ考えてから、答えた。
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「別にない」
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即答だった。
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「ただ、見捨てる理由もないから」
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その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
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——見捨てる理由もない。
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前の人生で、俺はどれだけのものを“理由もなく”見捨てただろう。
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「来るなら来て」
女は背を向けた。
「来ないなら、それでもいい」
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迷う時間はなかった。
このままでは確実に死ぬ。
だが、それ以上に——
この人を信じてみたいと、思った。
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「……行く」
俺が言うと、桐野が小さく笑った。
「だな。ここで倒れるよりマシだ」
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女の後を追う。
細い路地を抜け、さらに奥へ。
やがて、小さな家の前で止まった。
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「入って」
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中は質素だった。
だが、整っている。
薬草の匂い。
ここが“医者の家”であることはすぐに分かった。
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「座って」
女は慣れた手つきで道具を出す。
俺の手を取る。
冷たい指。
だが、迷いがない。
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「……痛むけど、我慢して」
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布で傷を拭かれる。
激痛。
思わず歯を食いしばる。
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「……ひどいね」
女がぽつりと言った。
「無理やり擦ったでしょ」
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「……まあな」
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「死ぬ気だった?」
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その問いに、答えは出なかった。
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女はそれ以上何も言わず、手当てを続けた。
静かだった。
外の雨音だけが響いている。
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「……名前」
ふいに、女が言った。
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「志乃」
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それだけだった。
苗字も、素性も言わない。
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「……秋月だ」
俺も短く名乗る。
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志乃は一瞬だけ俺を見て、小さく頷いた。
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「無茶する人の顔してる」
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唐突だった。
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「……そうか?」
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「うん」
迷いなく言う。
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「そういう人、だいたい多くを巻き込むから」
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その言葉に、胸がざわついた。
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何も言い返せなかった。
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志乃は淡々と包帯を巻く。
無駄な優しさはない。
だが、確かに手は止まらない。
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「今日はここにいればいい」
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「いいのか?」
桐野が聞く。
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「別に」
志乃は振り返らない。
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「見つかったら困るのは、そっちだけじゃないから」
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合理的な理由だった。
だが、それだけではない気がした。
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ふと、俺は思う。
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もし、この人がいなかったら。
俺たちはここで終わっていた。
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だが同時に——
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関わってしまった。
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この人も、もう無関係じゃない。
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歴史の外にいたはずの人間を、
俺は巻き込んでしまった。
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雨は、まだ止まない。
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その夜、俺は初めて理解しかけていた。
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救うという行為が、
どれだけ危ういものなのかを。




