盾の魔女と火葬炉の魔女
友樹たちがミサイルに追い掛け回される少し前――
「解らない」
アイランドは朝の若い光に満たされ、生を謳歌する魂の様に輝いている。その街並みを駆け抜ける深緑の高機動装甲車の中で、天白雪鱗がそんな声を上げる。気怠そうに左肩をドアに預けているのは体調が優れないからではない。単純に眠いのだ。
「一応、聞いてやる。何がだ」
常時怠惰な雰囲気を崩すことが無い穂積火蓮は、いつも通りの半目で言葉を返す。だが言葉の調子はしっかりとした芯を持っていた。常に眠たそうな癖をして、意外と朝には強かったりするのだ。
「ほら、みてよ」
雪鱗が顎で指し示す先には、ギラつく朝日に目を細めながら足早に歩いていく人々の姿がある。眠たそうに、ダルそうに。それでも足だけは止めることなく、それぞれの仕事場へ向かう。そんな者たちの列だ。誰も彼もが眉間に皺を寄せているのは、きっと世界が眩しいからという理由だけではないのだろう。
「うん。朝からご苦労様だな。それで?」
「なぁんで人は仕事をするのだろう」
「したいから、だろ?」
「あんなに辛そうに? 嫌そうにしながら? 解んないなぁ。牧場の牛の方が、まだ幸せそうだよ」
雪鱗のそれは子供が抱く人生の疑問と言った所だが、このアイランドにおいては意外と難しい問題だったりする。それを理解している火蓮は「うーん」と低く唸った。
アイランドに住まう人々は、皆ダストの浄化という役目を負っている。その対価として日々の生活を保障されているのだ。つまり、別に働かなくとも生きていける。
アイランドで自ら進んで労働に従事する者の多くは、それによって得られる賃金でより良い生活を手にする事を目的としているのだろう。だが、あの苛立ちと諦めに満ちた集団を見ていると確かに疑問ではある。目的と手段が矛盾している様に思うのだ。
「人はなぜ働くのか、か。確かに難しい問題だ」
「でしょ?」
「しかしだ、その疑問は奈落への入り口だぞ。突き詰めて行けば〝人はなぜ生きるのか〟だなんて事を考えだすに決まってる。新興宗教の財布になるか、富士の樹海で立ち木の仲間入りをしたいのでなければ、その辺りで止めておく事だな」
「コーラを飲んだらゲップが出るくらい、確実?」
「あんまり確実じゃねぇな、それ」
唇を歪ませて、雪鱗は肩を竦める。そして菓子袋を取り出し、朝飯前のおやつタイムを開始した。
「まぁあれだ。何もしないで居るには、人生は些か長すぎるからな」
雪鱗は視線だけを火蓮に向けて、首を傾けて続きを促す。
「生物として生きる事と、人間として生きる事は別物だ。彼らは生物としての安定を手に入れ、そしてアイランドという社会を構成する人間の一部になりたがった。それだけだ」
矛と盾の魔女は菓子を咀嚼するように、ゆっくり火蓮の言葉を吟味する。そして、眉根を寄せて一つ呻いた。
「やっぱ解んないや。お腹が空いたら食べて、眠かったら寝て、敵がいれば殺す。必要なら内臓もぶちまける。それでも私は、どうしようもなく人間だよ。何か問題あるかな?」
「それは獣って言うんだよ」
「右倣えが人間性って事? ぞっとしないね」
「お前はそれでも生きて行けるのだろうが、多くの人はお前ほど強くは無い。それに、誰もがそんな調子では社会が成り立たないんだ」
「群体としての人間性に何の価値があるのかねぇ。蟻の方がまだ理性的な社会を築いているよ」
やがて高機動装甲車はゆっくりと停車した。信号に捕まったようだ。
「お前は、何で清掃部隊なんてやっている」
アイランドの交通事情は、お世辞にもよろしいとは言えない。一度信号に捕まればたっぷり数分は足止めを喰らう。その隙間を埋める様に、火蓮が言葉を投げる。
一瞬の間。
現状、車内に居るのは火蓮と雪鱗の二人だけだ。ここに他の誰かが居れば「真斗の可愛い姿を愛でる為に決まってるじゃん!」と言う所だが、今は何を隠す事も無い。
「はいふぉふぇいふぁほふぁふぇふぃ」
「すまん。訳わからん」
口に詰め込んだスナック菓子をごくりと飲み込み、雪鱗は口元を拭う。手の甲に油が乗り、朝日を反射してきらりと煌めく。
「愛と平和のために」
「なるほど。ローマ法王も真っ青だ」
火蓮の反応は今一つだ。だが彼女のジョークはそれで成立したようで、両肩を大げさに竦めて「HAHAHA」と芝居じみた笑い声を上げた。
「ま、今更だぁね。アンジュの世界を作る。私の目的はずっとそうだよ。ピンキーに留まるのは真斗が居るからさ。あの娘は良い旗印になる」
「ほぅ。あたしじゃ不満か?」
悪戯めいた笑みを浮かべて火蓮が言う。しかし雪鱗は極めて真面目な表情だ。
「相棒として不満は無い。だけど、アンジュの旗印に据えるには一つ足りない」
「辛辣だな。お前がなってみたらどうだ、旗印」
「だめだめ。私は加減が解らないからね。普通にしているつもりでも、いつの間にか死体の山で大地が腐る」
ラジオDJの様に冗談めかして雪鱗は言うが、火蓮には笑いを返す事ができない。正しくその通りだろうと思うからだ。
「アンジュの世界を作って、何をどうするつもりなんだ」
「別に? ただ、今の状況はフェアじゃないなって思うだけだよ」
「なんだって?」
背もたれに深く背中を預けて天井を見遣る。雪鱗はそこにはない太陽を眩しがるように眼を細めた。
「アンジュは強者だ。血反吐を吐いて、汚泥の中を這いずり回って、それでも生を諦めない者たちの名だよ。だけど、今の社会では弱者の立場だ。私はアンジュの頭を踏みつけて得意げで居る奴らに、その行為に対する代償を支払わせたい。それだけだよ」
異能を持つ人間、アンジュに向けられる社会の目は冷たい。多くの場合で人間扱いはされず、家畜かそれ以下と見なす人々も多い。それは〝よく解らない者〟に対する恐怖心によるものであるし、他を蔑む事によって精神の安定を図ろうとする人々の浅ましさでもある。
そして、アンジュがその身に宿すアゾット結晶に利用価値が高い事も、その差別に拍車をかけた。アンジュ狩りが当たり前のように行われ、その行為を狩りと称するにはアンジュと人と認めるわけにはいかない、などという傲慢で身勝手で臆病で嘆かわしい人の心も、その行為を助長した。
雪鱗にはそれが許せない。
自分は人間だ。だがその生き方は獣の様だと誰もが言う。
しかし奴らはどうだ。人間なのか? 弱者を定義し、差別し、踏みつけ、搾取し、知らぬ顔をして利益だけを享受する。もはや悪鬼の類ですらない。傷口にたかる蛆虫だ。
一掃できればどんなに爽快だろうと思う。だが、それは残念ながら不可能だ。
ならば支配してやる。奴らに今までのツケを思い出させてやる。
その情念こそが、雪鱗を突き動かすただ一つの理由だった。
「可能だと思うのか」
「私は可能か不可能かで物を考えないよ。必要だと思うから、それをする。いつだってシンプルに生きる。それにさ」
身体を思い切りシートに預けた体勢のまま、雪鱗はぐるりと首を回して火蓮に微笑み掛ける。
「手伝ってくれるんでしょ?」
「阿保言うな。あたしはお前が奈落に足を踏み出そうとしたときに、その腕を引っ張ってやるだけだ」
「うん。ありがと」
歯を剝いて無邪気な笑顔を浮かべる雪鱗を横目で眺め。視線を前に戻して火蓮は小さくため息をつく。
恐ろしい奴だ、と思う。今までも、そしてこれからもこの無邪気な悪魔は、笑顔で死体の山を築くだろう。それでもその生き様を美しいと思うのは。その行く末を見てみたいと思うのはなぜだろう。
「真斗の目指す世界じゃ駄目なのか?」
「あぁ、共存って奴? 不可能とは言わないけどさ、何百年のスパンで考えているんだか」
雪鱗は身体を戻し、肩を竦めて金平糖を口に放り込む。
「いずれ、落としどころは見つける必要があるけどさ。その前に一度、全部ひっくり返さないと」
世界をひっくり返す。その言葉だけを聞けば、なんて滑稽で馬鹿げた台詞だろうと誰もが思う。この世は銀幕ではないし、アニメ・フィルムでもないのだ。
しかしこいつならば。そう火蓮は思う。
理由は無い。説明もできない。だが、雪鱗は必ず何かをしでかす。この退屈な人類の黄昏に、大きな波紋を生み出す。そう信じさせる気配があるからこそ、火蓮は雪鱗の背中に手を添えてやる。そう決めていた。
「お前さ。本当に真斗の事大好きなのか? さっきから聞いていると、あいつを利用しようとしているだけに思えるんだが」
「はぁ!?」
眼を大きく開き、驚き半分、怒り半分と言った表情で雪鱗が声を上げる。
「大好きに決まってんじゃんー!! もう超ラブリー! 大好き超好きメガ好きテラ好き!! あぁんもう、膝の上に乗せて一日中でも餌付けしたいわぁ」
暴力的な圧力に気圧され、火蓮は「お、おう」と言葉を返すだけで精いっぱいだった。あのチンチクリンのどこがそんなに良いのか、と聞いてみたかったが、そんな事を言えば頭からガブリといかれるのは明白である。腹を空かせた猛獣に身を差し出すような聖人でも、そんな馬鹿な真似はしないだろう。
「全部真斗の為ってのは本心だったのか」
「誤魔化さずに言えば、半分以上は自分の為だけどね。でも真斗が居なければこのやり方に拘る理由もない。ちょっと前までの幹耶くんと同じように、テロリストになっていたかもね」
「怖い事言うなよ。味方としても最悪なのに、お前が敵になったらランボーだって裸足で逃げ出す」
「やぁんもう。褒めても何も出ないよー? 金平糖食べる?」
「褒めてねぇし、いらねぇよ」
ふと、火蓮の脳裏に一つの疑問がよぎる。今しがた話題に上った幹耶の事だ。
アイランドを震撼させたマザーアゾット強奪未遂事件。その全容を把握しているのは、それを仕組んだ張本人である天白雪鱗、その相方である穂積火蓮、ピンキーのオペレーター兼超級ハッカー、萩村雲雀。そして千寿幹耶だけだ。
千寿幹耶は、どちらかと言えば〝真斗側〟の人間だ。しかし雪鱗の行為に賛同も否定もせず、中立的な立場を保っている。そして雪鱗もなぜか、目的の障害になりうる幹耶を放置している。
「なぁユキ。幹耶の事はどう思っているんだ」
「あぁ、彼ねー。どうってー?」
話よりも新作お菓子のほうが気になるようで、菓子袋をまさぐる手を止めずに雪鱗が生返事を返す。
「あいつは全部知ってるんだろ? なぜ放っておく。囲い込もうとは思わないのか?」
「あぁそういう事。幹耶くんはアレで良いんだよ」
「アレって……。あいつ、自分の意見ってものを言わねぇし、何考えてるか解らないな」
「だから、それだよ」
要領を得ない雪鱗の言葉に、火蓮は眉根を寄せる。
「妙な勘の良さも面白いけど、私がネタばらしした時にさ、彼、怒ったんだよ」
「そりゃぁ怒るだろう。あれだけ命の危機に晒されたらな」
「そうじゃなくてさ、私が関係ない人たちを大量に巻き込んだことを、怒ったんだ」
楽しい思い出を語るように雪鱗は言う。
「笑っちゃうよね! 自分だって散々人を殺して来たテロリストの癖してさ! きっと彼には善も悪も無いんだ」
そうだろうか、と火蓮は思う。善悪の区別が無い奴と言うのは、現在隣にいる悪魔じみた少女の事を言うものだ。あの蒼い瞳の少年は、そんな飛びぬけた人間とは思えない。
「もちろん倫理観はある。常識的で、良心の何たるかも理解している。けど、どれも彼自身の物じゃない。周りがそう言うからそう思うだけで、何一つ彼の意見じゃない。〝彼は何者でもない〟んだ。このご時世で! しかもアンジュがよ!? なんてイレギュラー!!」
何者でもない。他人を鏡にした自己投影。個性が無いどころの騒ぎではない。果たしてそれは人なのか。
そのくせ、幹耶のアーツ《神剣》は強力だ。
どれだけ〝力のイメージ〟を強く真っ直ぐ抱けるか。それこそがアーツの強さを決定づける。そのためか、アンジュは誰もが〝自己〟と言うものを強く認識している。他との軋轢を生むほどに。
だが幹耶はどうだ。彼は自己主張と言うものをまるでしない。棒切れを親と思い込む雛鳥のように真斗に付いて回るだけだ。アンジュの常識からは真逆の存在と言える。
まるで自身を一振りの刀と思い込んでいるかのようだ、と火蓮は思う。
「そう考えれば、確かに変な奴だ。真斗が入れ込む理由もそこかな」
「そうだねぇ。なんにせよ、もう少し様子を見ようと思ってね」
面白そうだし、と雪鱗は菓子を頬張りながら含み笑いを漏らす。どこぞの悪代官の様ないやらしい微笑だ。
「ところでさぁ」
「あぁ」
「信号、長くない?」
言われてみればそうだ。いくらアイランドの信号は待ち時間が長いとはいえ、開かずの踏切と言う訳では無い。
火蓮は一つ唸り、煙草を咥える。煙を逃がすために窓を少し降ろすと、代わりとばかりにいくつものクラクションが滑り込んできた。
交差点で事故でも起きたのか。そう思ったが、すぐに否定した。事故と信号が変わらない事には、何の関係も無い。
火蓮はどうすることもできずに、ただ時の流れるままに身を委ねる。友樹と銀子の到着予定時刻はもうじきだ。出迎えが少し遅れてしまうかもしれないが、まぁ別に良いだろう。文句を言われようが知ったことか。道路が悪いのだ、と気怠そうに紫煙を吐き出した。
薄く開いた窓ガラスから、不意にクラクションとは別の音が割り込んできた。
まるで山が動いているような、重く低い轟音。足元がビリビリと鳴動している。それに合わせて金属が擦り合うような、連続的な甲高い音も響いてくる。
なんだ、と火蓮は眉を顰める。見れば雪鱗も菓子を食う手を止めて辺りを伺っている。音の正体は解らないが、十中八九、ロクなものでは無い。
やがて交差点の右手側から、音の発生源と思わしき〝何か〟が現れた。
「……壁? いや、扉?」
それは黒い鋼板だった。本当に山が動いているのかと思えるほど大きい。鋼板の足元にはキャタピラがあり、それが金属の軋む音を上げながら山を動かしている。数多の自動車をすり潰しながら。
雪鱗は窓を一番下まで降ろして、首を出す。その頬を潰された車が爆ぜる爆風と、大気を切り裂くような数々の悲鳴が撫でた。
動く黒い山は恐ろしく巨大で、空と交差点を埋め尽くしていた。
「戦車……?」
雪鱗は呟く。そう、それはまさしく戦車だった。だが黒く巨大な車体の上に乗っているのは長大な砲身を備えた砲塔では無く、岩の塊を削って作った様な、人間の上半身を思わせる武骨で荒々しい、ビルのように巨大な人型の機械だった。
SF映画の世界にでも迷い込んだのか。二人はそう思った。そうでなければ、気が付かないうちに眠りこけ、夢でも見ているのか。だが、雪鱗と火蓮が見ているこの光景は、どうしようもなく現実であった。
呆けたように通り過ぎる戦車もどきを眺めていた二人のバベルに、緊急の通信が入る。響いてきたのは萩村雲雀の、絶妙に間延びしたいつもの声だ。
『どもどーもー。雲雀ですー。お二人に連絡ですー』
『なんだ。ハリウッドの撮影に付き合う気はねぇぞ』
二晩連続で徹夜でもしたかのような、疲れ切った声で火蓮が言うと、萩村は「なんですー?」と、実にとぼけた声を返した。
『ともあれー。もうお二人も気が付いてるかも知れないですけどぉ、アイランドの交通システムがオールダウンしましたー。原因は不明、復旧の目途は立ってませんー』
『そっち!?』
そういえば、そっちの異常もあった。確かにそちらも重大事だが、あの戦車もどきは何なのだ。
『あ、それとですねぇ』
困惑する雪鱗をよそに、萩村はお使いの追加注文をするように言葉を続けた。
『アイランド全域で無人兵器が大暴走中ですー。もうアイランド大爆発! って感じですねぇ。あっ、もしかしてさっきのハリウッドって、これの事ですかぁ?』
あははは、と楽しそうに萩村が笑う。しかし雪鱗と火蓮の二人は
『『笑えねぇ~……』』
と呟いて、がくりと肩を落とした。




