借金返済が終わったら!
恋愛とは、実に恐ろしいものである。
昨日まで気にも留めなかったことが、たった一日で頭から離れなくなる。
例えば、女の子の笑顔。例えば、何気ない一言。
例えば――。
「……何年先も一緒にいてくれるってこと?」
「…………」
ああ、もう。なんであんなことを言うんだ、あの人は。
「……瀬川先輩?」
「…………」
「せーがーわーせーんーぱーい!」
「うわっ!?」
突然耳元で響いた大声に、悠真は思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると、小宮山莉子が不満そうに頬を膨らませていた。
「もう! さっきから三回も呼んでるんですけど!」
「ご、ごめん。ちょっと考え事してた」
「考え事ですか?」
「うん、まあ……」
莉子はじっと悠真の顔を見つめた。そして、何かに気づいたように目を見開く。
「……先輩。なんか今日、機嫌よくないですか?」
「……そう?」
「そうですよ! さっきからずっとニヤニヤしてます!」
「してないよ!?」
「してましたって! 私見ましたもん! 不審者みたいに笑ってました!」
「不審者ではないだろ!」
そんなはずはない。昨日はただ、白石さんと水族館に行っただけだ。
クラゲを見て、イルカを見て、小説の話をして。
それから、また一緒に出かける約束をしてしまって。
「…………」
「ほら! またニヤニヤしてる!」
「してないってば!」
莉子は何やら考え込むように顎へ手を当てた。やがて、その表情がぱっと明るくなる。
「……あっ! もしかして先輩、好きな人できました!?」
「できてない!!」
思わず店内に響く声を上げてしまった。
近くの客席から視線が向けられ、悠真は慌てて頭を下げる。
「……小宮山さん、仕事中だから」
「先輩が一番大きい声出したじゃないですか!」
「それは小宮山さんが変なこと言うから……!」
「でも、あんなに否定するの怪しいですよ?」
「…………」
好きな人。
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは白いニットに身を包み、楽しそうに笑う一人の少女だった。
悠真は頭をブンブンと振った。
「……先輩?」
「……いや。そういうのは、今はいいんだ」
「今は?」
莉子が不思議そうに首を傾げた。
そのとき。
「こら、二人とも。お喋りしてないで仕事しなさい」
背後から聞き慣れた声が飛んできた。振り返ると、橘玲奈が呆れたような顔で立っていた。
「す、すみません!」
「ごめんなさい橘さん! でも聞いてください! 瀬川先輩に好きな人ができたかもしれないんです!」
「ちょっと小宮山さん!?」
「……へえ」
玲奈は一瞬だけ目を丸くした。そして、いつもの落ち着いた笑みを浮かべる。
「悠真くん、そうなの?」
「違いますって!」
「ふーん。……そっか」
玲奈はそれ以上何も言わず、レジの方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、悠真は深いため息をつく。
……勘弁してほしい。
借金の返済だけでも大変だというのに。
どうやら俺には、もう一つ厄介な問題が増えてしまったらしい。
◇◇◇
「ありがとうございましたー!」
時計の針は既に閉店時間の午後十時を回っていた。
最後の客を見送り、悠真はカウンターに置かれたグラスを片付ける。
今日は比較的落ち着いた営業だった。大きなトラブルもなく、予定通りに仕事を終えられそうだ。
「悠真くん、お疲れ」
「あ、橘先輩。お疲れ様です」
振り返ると、玲奈が二つのグラスを手に立っていた。アイスティーに浮いた氷がカランと音を立てる。
「はい、これ。先輩からの奢り。ドリンクバーのだけどね」
「おお、ありがとうございます」
受け取ったグラスに口をつける。冷たい飲み物が喉を通り、ようやく一日の疲れが和らいだ気がした。
「……ねえ、悠真くん」
「はい?」
「さっきの話なんだけどさ」
「……さっき?」
「ほら。莉子ちゃんが騒いでたやつ」
「ああ……」
思い出したくもない。
好きな人ができたとかなんだとか。小宮山さんには悪いが、まったくもって余計なお世話である。
「あれは本当に違いますからね。小宮山さんが勝手にワーワー言ってただけです」
「ふふっ。まだ何も聞いてないんだけど?」
「……くそう」
玲奈は小さく笑い、悠真の隣でカウンターに寄りかかった。
「でも、ちょっと安心した」
「……何がですか?」
「悠真くんにも、そういう話が出るようになったんだなって」
「……どういう意味ですか、それ」
「そのままの意味よ」
玲奈はグラスを傾け、一口飲んだ。
「悠真くん、最近ずっと働いてばっかりだったじゃない。学校行って、バイトして、帰ったら小説書いて。休みの日までシフト入れたりしてさ」
「……まあ、借金がありますから」
「知ってる。でも、そればっかりじゃ疲れちゃうでしょ。ていうか、見てる私が疲れる」
言い返そうとして、言葉が止まった。
確かに、ここ最近はまともに遊びに出かけた記憶がない。
休日があればアルバイトを入れ、空いた時間は小説を書く。そうやって過ごしてきた。
昨日の水族館は、久しぶりに何も考えず笑えた一日だったのかもしれない。
「……そうですね」
「でしょ?」
玲奈は得意げに笑った。
「悠真くんってさ、誰かのためならいくらでも頑張れるのに、自分のことになると途端に不器用になるよね」
「……そんなことないですよ」
「あるよ。私、悠真くんが入ってきた頃から見てるんだから」
そう言われると、反論しづらい。仕事を覚えられずに落ち込んでいた頃も、初めて一人でホールを任された日も。
橘先輩は、いつも近くにいた。
「……橘先輩には敵わないですね」
「今さら気づいた?」
「いや、前から思ってましたけど」
「あははっ。素直なところ好きだよ」
玲奈は満足そうに笑った。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れる。店内に響くのは、空調の音と、キッチンから聞こえる食器の触れ合う音だけだった。
「……ねえ、悠真くん。借金、返し終わったら何したい?」
「……え?」
思いがけない質問だった。
「ほら、八十万円。全部返し終わったら、今より自由な時間も増えるでしょ?」
「……まあ、そうですね」
「何かやりたいこととか、ないの? 昔やってた趣味とか、新しくやりたいこととか」
「……新人賞に向けて新しい作品書きます」
「もう、そういうことじゃないの。やることじゃなくて、やりたいこと。」
「やりたいこと……」
悠真は少し考えた。
アルバイトを減らして、小説を書く時間を増やす。読みたかった本を買う。たまには、どこかへ遊びに行く。
漠然としたものしか出てこない。
「……まだ、考えてないです」
「そっか」
玲奈は、それ以上聞かなかった。
ただ、どこか優しい表情で悠真を見つめていた。
「じゃあ、今から考えておきなよ」
「……今から?」
「うん。返済が終わったら何をしようって。そういう楽しみがあった方が、頑張れるでしょ?」
……なるほど。そういえば返し終わった後のことなんて、考えたこともなかった。
「……そうですね。考えてみます」
「うん。それがいいと思う」
玲奈は笑ってから、空になったグラスを持ち上げた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「……あ、そうだ」
「はい?」
「そのときさ、私も誘ってくれたら嬉しいな」
「……橘先輩を、ですか?」
「そ。ほら、今まで頑張ってきたんだし、みんなでお祝いとかしたいじゃない?」
「ああ、なるほど」
確かに、橘先輩には随分と世話になった。借金を返し終わったら、真っ先に報告したい人の一人でもある。
「もちろんです。そのときは俺がご馳走しますよ」
「……ふふっ。期待してる」
玲奈はそう言って、グラスを片付けに向かった。その背中が、いつもより少しだけ小さく見えたのは気のせいだろうか。
「……さて、俺も片付けるか」
悠真は残ったグラスを手に取り、キッチンへと向かった。
借金を返し終わった後の自分なんて、想像もしていなかった。けれど橘先輩のおかげで、返済の先にある生活を初めて思い描けた気がする。
なんとなく、その日が待ち遠しくなった。
◇◇◇
帰り道。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、悠真は思わず足を止める。
白石紬。
『瀬川くん! 昨日はありがと!』
『次のお出かけ、ちゃんと覚えてるよね?』
「…………」
どうやら、忘れさせてくれるつもりはないらしい。
悠真は小さく息を吐き、返信を打ち込んだ。
『覚えてるよ。多分誘う』
送信して、わずか数秒。
『やった! 楽しみにしてるね! それと、多分じゃなくて絶対ね!』
「……早いな」
思わず笑ってしまった。
画面を閉じ、夜空を見上げる。借金を返し終わったら、何をしたいのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど。
「……まずいな、これ」
少なくとも、今の俺には、借金を返すこと以外にも、楽しみなことができてしまったらしい。
【借金返済まで、あと361日】




