借金返済より難しい問題!
どんよりとした曇り空の下、悠真は重い足取りで通学路を歩いていく。
これまでにない種類の悩みを抱えて、思わずため息をついてしまう。
それは借金の返済でもなければ、小説の構成でもない。
告白を断った相手に、翌日どんな顔をして会えばいいのか。ただ、それだけだった。
「……気まずい」
教室の扉を前に、悠真は小さく呟いた。
昨日のことを思い返す。紬は最後に笑ってくれたし、また学校で会おうとも言った。
だからといって、何事もなかったように接することができるかと言われれば、話は別だ。
悠真は一度深呼吸をして、教室の扉を開けた。
「おはよう、瀬川くん!」
「うおっ!?」
扉を開けた瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。
白石紬だった。
よりによって、心の準備ができる前に本人と鉢合わせてしまった。
「な、なんだ白石さんか……おはよう」
「なんだって何よ……。失礼だなあ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
紬は首を傾げ、悠真の顔を覗き込んだ。
「……もしかして、昨日のこと気にしてる?」
「そりゃまあ……多少は」
「ふーん」
紬は少し考えるように口元へ指を当てた。そして、何かを思いついたようにニヤッと笑う。
「じゃあ、一つだけ言っておくね」
「……何?」
「私、まだ瀬川くんのこと好きだから」
「…………はい?」
「昨日振られたからって、今日から嫌いになるわけないじゃん。ていうか嫌いになるなんて言ってなくない?」
そう言って笑った紬は、一瞬だけ視線を落とした。
「……まあ、ちょっとは落ち込んだけどね」
しかし次の瞬間には、顔を上げて悠真を見つめていた。
「それに、昨日言ったでしょ? 小説家としてはライバルだって」
「……うん」
「だから今日の授業、負けないからね!」
紬は人差し指を悠真に向け、得意げに胸を張った。
どうやら彼女は、昨日のことを理由に距離を置くつもりはないらしい。少なくとも、悠真にはそう見えた。
……それにしても。
告白を断った翌日に、もう一度好きだと言われるとは。
借金八十万円。
完済の目処は、まだまだ先。
どうやら悠真の学校生活も、しばらく落ち着きそうになかった。
◇◇◇
「さて、今日は少し趣向を変えてみようと思います」
教壇に立った先生がそう告げると、教室のあちこちから小さなざわめきが起こった。
「皆さんには、これから一つの物語を考えてもらいます。ただし、今回は条件を三つ設けます」
先生はホワイトボードにペンを走らせた。
一つ、登場人物は二人まで。
二つ、舞台は一か所のみ。
三つ、最後に読者の予想を裏切ること。
「制限時間は三十分。千文字以内で、物語を完成させてください」
悠真は腕を組み、ホワイトボードを見つめた。登場人物は二人。舞台は一か所。最後にどんでん返し。
……面白そうだ。
条件が決まっている方が、かえって発想が広がることもある。
「瀬川くん」
隣から小さな声が聞こえた。
「……何?」
「勝負しよ」
紬がこちらを見て、にんまりと笑っていた。
「先生にどっちの作品が面白いって言ってもらえるか」
「いや、面白さなんて人それぞれじゃ……」
「細かいことはいいの!」
紬はそう言ってノートパソコンを開いた。
「昨日言ったでしょ? 負けないって」
「……分かったよ。受けて立つ」
「よろしい!」
その言葉、昨日も聞いた気がするな……。
悠真は苦笑しながら、キーボードに指を走らせた。
◇◇◇
三十分後。
「それでは、何人か発表してもらいましょうか。まずは……瀬川くん」
「はい」
悠真は立ち上がり、自分の作品を読み始めた。
舞台は病室。
登場人物は、一人の老人と見舞いに来た青年。
老人は毎日同じ青年に、自分の昔話を聞かせていた。
青年は何度も同じ話を聞かされながら、決して嫌な顔をしなかった。
『君とは、どこかで会ったことがあるかね?』
『ありますよ。昨日も、一昨日も』
『そうか……。すまないね。最近、物忘れがひどくて』
老人は申し訳なさそうに笑った。
青年は首を横に振り、いつものように老人の話に耳を傾けた。
しかし、ある日。
『君は、どうして毎日ここに来てくれるんだい?』
老人が尋ねると、青年は寂しそうに微笑んだ。
『あなたが忘れたら、僕は本当にいなくなってしまうから』
その病室は、仮想空間に存在していた。
老人は、亡くなった青年の記憶を保存するために作られた人工知能。そして青年もまた、その記憶から再現された存在だった。
老人の物忘れは、保存データが失われつつある証拠だったのだ。
読み終えると、教室は一瞬静まり返った。
「なるほど。面白いですね」
先生が頷く。
「認知症だと思わせて、実はAIの記憶が失われていた。最後の台詞も、真相を知ることで意味が変わりますね」
「ありがとうございます」
「ただ、結末に比べると、そこに至るまでの描写が少し弱い。読者が老人に感情移入できる場面を増やせば、さらに良くなるでしょう」
「……はい」
悠真は席に座った。
自分でも薄々感じていたことだった。
結末を考えるのは得意だ。けれど、そこに至るまでの過程を描くのは、まだまだ難しい。
「では次に、白石さん」
「はい!」
紬が立ち上がった。
彼女の作品は、雨の日の喫茶店が舞台だった。
窓際に座る女性は、毎週決まった時間に二人分のコーヒーを注文する。
一つはブラック。もう一つには、角砂糖を三つ。
向かいの席には誰もいない。それでも女性は、空席に向かって語りかける。
亡くなった夫との思い出を、まるで本人がそこにいるかのように。
悠真は思わず聞き入っていた。
雨粒が窓を伝う様子。湯気の向こうに浮かぶ女性の表情。
その一つひとつが、目の前に浮かんでくるようだった。
そして最後。
女性が帰った後、店員は二つのカップを片づけようとする。
ブラックのカップは空になっていた。
そして、角砂糖を三つ入れたはずのカップも。
そこには、飲み干されたコーヒーの跡だけが残っていた。
「……以上です」
紬が読み終えると、先生はしばらく考え込んだ。
「情景描写が素晴らしいですね。まるで自分がその喫茶店にいるようでした」
「ありがとうございます!」
「最後の仕掛けも印象的です。ただ、誰が飲んだのかを読者の想像に委ねているので、今回の課題である『予想を裏切る』という点では、もう一工夫欲しいですね」
「……はい!」
紬は頷き、席に座った。
悠真はその横顔をちらりと見る。
……やっぱり、上手い。自分には、あんな文章は書けない。
「では、今日の課題についてですが」
先生が二人を交互に見た。
「瀬川くんは構成力。白石さんは描写力。それぞれに優れた部分がありますね」
二人は思わず顔を見合わせた。
「ただ、どちらもまだ伸びしろがあります。自分の得意な部分だけでなく、苦手な部分にも目を向けてみてください」
その言葉を聞きながら、悠真は小さく頷いた。
◇◇◇
「ねえ、瀬川くん」
授業が終わり、荷物をまとめていると紬が話しかけてきた。
「今日の作品、どうだった?」
「白石さんの?」
「うん」
「……正直、すごかった。特に雨の描写。あれ、どうやって考えてるの?」
「えへへ。褒めても飴しか出ないよ?」
紬はバッグから何種類かのフレーバーが個包装された飴を取り出した。
「いや、真面目に聞いてるんだけど」
「分かってるって!」
紬は笑いながら、自分のパソコンを開いた。
「私はね、まずその場面を頭の中で想像するの。音とか、匂いとか、温度とか。それを言葉にしていく感じ」
「なるほど……」
「逆に私が聞きたいんだけど、瀬川くんはどうやってあんな結末を思いつくの?」
「んー……最初に結末を考えることが多いかな。読者に最後どんな感情になってほしいか決めて、そこから逆算する」
「へえ……!」
紬は目を輝かせた。
「やっぱり瀬川くん、すごいね」
「いや、白石さんこそ」
「……ねえ」
紬が少しだけ身を乗り出した。
「私たち、一緒に作品作ったらすごいの書けるんじゃない?」
「……確かに」
互いの苦手を補い合えば、面白い作品が書けるかもしれない。
しかし、紬はすぐに首を横に振った。
「……でも、やっぱりダメ!」
「え、なんで!?」
「だってライバルだもん! 今は一人で勝てるようになりたい!」
「どっちだよ!」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
昨日、あれほど気まずくなることを恐れていたのが嘘のようだった。
「……あ、そうだ。瀬川くん」
「今度は何?」
「今度の休みって、空いてる? ちょっと行きたいところがあるんだけど」
紬はそう言って、鞄を両手で抱えた。
「……一緒に行かない?」
悠真は思わず言葉に詰まった。
昨日、告白を断ったばかりだというのに。今日もまた、彼女の一言に振り回されている。
……いや、待て。
休みの日に、女の子と二人で出かける。
それって、つまり――。
「……デート?」
「……っ!」
紬の頬が、一瞬で赤く染まった。
「ち、違うし! そういう言い方しなくてもいいじゃん!」
「いや、だって……」
「と、とにかく! 予定だけ教えて!」
悠真は少し考え、口を開いた。
「……バイトのシフト、確認してからでもいい?」
「ま、まあそれは……いいけど……」
紬は顔の横に垂れた髪を指に巻き付けながら、小さく答えた。
借金八十万円。
返済まで、まだ一年近く。
恋人を作るつもりは、今のところない。
それでも。
彼女と過ごす時間を、少しだけ楽しみに思っている自分がいた。
【借金返済まで、あと364日】




