借金返済に寄り道を!
「お先に失礼します」
「ああ、お疲れ悠真くん。そっか、今日だもんね」
「はい……。気乗りしないですけどね」
「ふふっ、そりゃそうよ。気をつけてね」
玲奈の言葉を背に、店を出る。
毎月十五日。悠真にとって、この日は給料日よりもずっと重要で、ずっと憂鬱な日だった。
悠真は今、とある場所へと向かっていた。
◇◇◇
『カードを、お入れ下さい』
無機質な声に合わせて、カードを挿入する。何度繰り返しても、この瞬間だけは慣れない。
『ご希望のお取引を、お選び下さい』
画面に並ぶ項目の中から、いつものものを選ぶ。
画面に表示された預金残高に、悠真は小さく息を吐いた。
「こっからほとんど消えるのか……」
この日のために給料日から貯めてきた十万円。そのうちの七割を、様々なところに今から振り込まなくてはならない。
この一ヶ月は、悠真にとって変化があった月だ。
玲奈に助けられ、莉子に頼られ、紬と出かけるために一日だけ休んだ。
楽しいこともあったし、嬉しいこともあった。
けれど、そんな一ヶ月も、ここではただの数字になる。
何度か操作を繰り返し、最後の振込を終える。
『お取引が、完了しました』
機械的な声が、返済の終わりを告げる。画面に表示された残高を、悠真はしばらく見つめていた。
「……花代は、なんとかなりそうだな」
残高三万円。
一ヶ月働いても、大体このくらいの金額にいつもなる。
こっから作品のための資料費が引かれることを考えると、決して無駄遣いは出来ないのだ。
それでも、紬のための花代くらいはなんとか出せそうだ。カードを財布にしまい、ATMを離れる。
自動ドアの向こうには、日が傾きつつも、いつもと変わらない街並みが広がっていた。
行き交う人々の中に、悠真と同じように借金を返している人間がどれだけいるのだろう。
そんなことを考えながら、悠真は不意にスマホを取り出す。
何となく、誰かと無性に話したくなった。
スマホのメッセージアプリを開く。
気づけば、白石紬とのトーク画面が表示されていた。
「……なんで白石さんなんだよ」
別に、用事があるわけじゃないし、今日が返済日だったことを伝えたいわけでもない。
ただ、少しだけ声が聞きたかった。
そこまで考えて、悠真は慌ててスマホを伏せた。
「……いや、何考えてんだ俺」
付き合ってもない女性に何を言おうとしてるんだ。
こんなことまで考えてしまう自分に嫌になる。なのに、画面を閉じるのが少し惜しかった。
今日はもう帰って休んだ方がいいな。そう思い歩き出そうとすると、前に見知った人がいた。
「あれ? 橘先輩?」
「あ、やっぱりここだった。近場のATMここだけだもんね」
悠真の顔を見ると、玲奈は小走りで駆け寄ってくる。その拍子に髪に隠れたピアスがキラリと光った。
「俺になんか用ありました?」
「うーん……いや、用っていうかさ。なんとなく、心配になっちゃって。もう帰り? 途中まで歩こうよ」
「あ、はいもちろん」
二人が並んで歩き出す。女性として、玲奈はかなり背が高い。悠真が意識せずとも歩幅が合う。
「それで……心配っていうのは?」
「悠真くんさ、ここ最近目に見えて明るくなったのよね。今までだったら私が話したら普通に答えてくれるけど、あんな面白いリアクションはしなかった」
「……まあ確かに」
「だからこそさ、今日また借金っていう現実に引き戻されて、落ち込んじゃうんじゃないかって思ったの」
「……なるほど。それでわざわざ来てくれたんですか?」
「まあね。可愛い後輩が落ち込んでたら、先輩として放っておけないでしょ?」
「ありがとうございます。でも、今日は意外と大丈夫ですよ」
「……へえ?」
玲奈が目を丸くする。覗き込んでくるその目に、不思議と引き込まれそうになる。
「もちろん、七万円が一瞬で消えたのは結構きつかったですけど」
「あははっ! そりゃそうよね」
「でも、なんていうか……前ほど嫌な気分じゃないんですよね」
「……そっか」
玲奈はそう呟くと、目を細めて微笑んだ。
「それは、よかった」
「はい。橘先輩たちのおかげでもありますよ」
「えっ、私?」
「そうですよ。いつも助けてもらってますし。今日だって、わざわざ心配して来てくれたじゃないですか」
「……もう。そういうこと、さらっと言うんだから」
「え?」
「なんでもないでーす。それより悠真くんさ、最近何か楽しみなことでもできた?」
「楽しみなこと、ですか?」
「うん。前はさ、何をするにも借金のことが先だったでしょ? でも最近は、ちょっと違う気がするんだよね」
悠真は少し考えた。
確かに、以前と比べれば変わったことは多い。休日に誰かと出かけたり、何気ないメッセージに笑ったり。
今日だって、返済を終えて真っ先に考えたのは、次に出かけるときの花代だった。
「……そうですね。楽しみなことは、あります」
「ふふっ。そっか」
玲奈は悠真の顔を覗き込む。
「もしかして、白石さん?」
「なっ……なんでそこで白石さんが出てくるんですか!」
「あははっ! ほら、その反応!」
「いや、これは違いますって!」
「私、まだ何も言ってないよ? いつも同じ自爆の仕方するよね」
「……橘先輩、ずるくないですか?」
「先輩だからね」
「絶対関係ないですよね、それ」
二人の笑い声が、夕暮れの道に重なった。
しばらく歩いたところで、玲奈がふと口を開く。
「……でも、よかったね。楽しみなことができて」
先ほどまでのからかうような口調とは違う、穏やかな声だった。
「借金を返すのは大事だよ。悠真くんが頑張ってるのも、ちゃんと知ってる」
「……はい」
「でもさ、返し終わるまでずっと我慢してなきゃいけないなんて、そんなことないと思うんだ」
玲奈は前を向いたまま続ける。夕陽を反射したその瞳は、いつもより輝いていた。
「返済するために働いてるんじゃなくて、返済した先で幸せになるために頑張ってるんでしょ?」
「…………」
「だったら、その途中にだって、少しくらい幸せなことがあってもいいじゃない」
「……でも」
何かを言いかけて、やめた。何を言おうとしたか自分でも分からなかったから。
今まで、自分は借金を返すことばかり考えてきた。
もちろん、完済するという目標は変わらない。
けれど、その日が来るまで、楽しいことも嬉しいことも全部後回しにする必要があるのだろうか。
「……橘先輩って、たまにすごいこと言いますよね」
「たまにって何よ。いつもでしょ?」
「ははっ。そうですね」
「……適当にあしらったわね」
玲奈がジトっと悠真を見つめる。
その表情がなんだかおかしくて、悠真は思わず笑ってしまった。
「……ありがとうございます、橘先輩」
「うん?」
「今日、来てくれて嬉しかったです」
玲奈が足を止めた。口をぽかんと開けて立ち尽くしている。
「……え?」
「いや、返済が終わったあと、なんとなく誰かと話したい気分だったので」
「…………」
「橘先輩?」
「……ほんと、悠真くんってさ」
玲奈は小さく息を吐く。
そして、困ったように笑った。
「……いや、いいや。言っても分からないだろうし」
「……え? ど、どういうことですか?」
「なんでもない。ほら、行こっ」
そう言って、玲奈は再び歩き出す。
さっきよりも歩くスピードが一段階上がっているのは、気のせいだろうか?
「橘先輩、ちょっと速くないですか?」
「……気のせいでしょ」
「いや、絶対速くなってますって」
「もう! 悠真くんは黙ってついてきなさい!」
「なんで怒られてるんですか、俺……」
そう言いながらも、悠真は思わず笑ってしまう。
今日、七万円を返済した。残ったのは、たった三万円。
明日からまた働いて、来月の十五日には同じことを繰り返す。
それはきっと、借金を完済するまで変わらない。
けれど。
「……橘先輩」
「今度は何?」
「また、こうして一緒に帰ってくれませんか?」
「…………」
「……先輩?」
「……考えとく」
夕陽に照らされたその横顔が、少しだけ赤く見えた。
来月の十五日も、きっと憂鬱だ。でも、今日みたいな日があるのなら。
借金を返すだけの毎日も、案外悪くないのかもしれない。
【借金返済まで、あと351日】




