お返しは、デートで!
「……っ!」
痛い。痛すぎる。
駅の改札を抜けた悠真は、思わず顔をしかめた。
太ももが痛い。ふくらはぎも痛い。ついでに腰まで痛い。
「いきなり二十キロはやりすぎだろ……」
昨日はあれだけ動いてくれた足が、一晩で反抗期を迎えていた。
横断歩道の手前で足を止める。
赤信号だ。ありがたい。しばらく休める。……と思った矢先、青に変わった。
「……頼むから、もうちょっと赤でいてくれ」
信号機に懇願したところで、色が戻るはずもない。
悠真はへっぴり腰のまま横断歩道を渡った。
ようやく校舎が見えてきた頃には、すでに帰りたくなっていた。
早く座りたい。しかし、教室があるのは六階。しかも、エレベーターはない。
「……エレベーター、つけてくれよ」
膝に手を添え、一段ずつ階段を上っていく。十八歳にして、老後の苦労を知った気がした。
やっとの思いで教室にたどり着く。扉を開け、一目散に席に着いた。
先週までと変わらない椅子。そのはずなのに、なんて座り心地がいいんだ。
きっとここは天国なのだろう。
しばらく椅子の偉大さに感謝していると、見知った顔が入ってきた。
「あ、白石さん。おはよう」
「……おはよ」
目が合うと紬は頬を膨らませ、ぷいっと顔を背けた。けれど、その耳はほんのり赤い。
……ん? なんかめちゃくちゃ不機嫌じゃないか?
「えっと……白石さん? なんかあった?」
「……別になんもない」
何かしてしまっただろうか。しかし原因がわからない。
なんと声をかけるべきか。悠真が言葉を探していると、紬がぽつりと呟いた。
「……昨日、私。先に帰っちゃった」
「え?」
「せっかく瀬川くんが誘ってくれたのに、お昼に帰っちゃったから」
……ああ、そういうことか。
昨日の別れ際が頭をよぎる。顔を真っ赤にして走り去っていった紬。どうやら、あれを気にしているらしい。
「白石さん……でも、昨日は俺も楽しかったし」
「……こんなことならもう三セットくらい走らせれば良かった」
「いややめて!?」
足にとって環境がブラックすぎるだろう。ベンチじゃなくて労働基準監督署に駆け込むぞ?
「……でも、本当に楽しかったよ。昨日」
「……ほんと?」
「うん。二十キロ走らされたこと以外は」
「そこも含めて楽しかったって言ってよ!」
「それは無理があるだろ……」
紬がようやく笑った。その顔を見て、悠真は鞄の中に入れていたものを思い出す。
「あ、そうだ。白石さん」
「ん?」
「これ、昨日のお弁当箱。ありがとう。すごく美味しかった」
「……あ」
笑っていた紬の目がまん丸くなり、視線が悠真と弁当箱を行ったり来たりしている。
「……美味しかったの?」
「うん、すごく。あんなに美味しい弁当久しぶりに食べたよ」
「……そっか」
紬は伏し目がちに弁当箱を受け取った。紬と悠真の指が軽く触れる。
「あ、ご、ごめん」
「……ううん、いいの。それより、さ。……また作ったら、食べてくれる?」
上目遣いで聞いてくる紬。それは、反則だろう。
「……うん。むしろ、食べたい」
紬は悠真の言葉を聞くと、大きく息をついた。そして、ようやくいつもの眩しいくらいの笑顔に戻った。
「じゃあまた作る! でも! 次は割り箸にします!」
「……そうしてください」
あの箸はお互いのために、絶対に封印すべきだ。
「……それにしても、昨日は本当にありがとう」
「もう、お礼言いすぎ。お弁当くらいいいって」
「それもだけど……昨日、結局一円も使わなかったから」
紬がおもむろに視線を窓に移した。眉が気まずそうに上がっている。
「……ああ、気づいちゃった?」
「やっぱり、気を遣ってくれてたんだ」
「……別に、そんな大したことじゃないよ。私が一緒にいたかっただけだし」
「それでも、ありがとう。今度は俺にも何かお礼させてよ。あんまり高いものは無理だけど」
「……全然いいのに。……あ! じゃあさ!」
紬は何かを思いついたように、パンと手を叩いた。
「私、今度お花屋さんに行きたいんだよね!」
「……花屋?」
「うん! 私お花が好きでさ! いつか瀬川くんと行ってみたかったの!」
「……まあ、それくらいなら」
「やった! 約束ね!」
……花屋、か。正直、花にはあまり詳しくない。
けれど、白石さんがあれだけ嬉しそうにしているのなら、悪くない気がした。
昨日は一円も使わなかった。今度は、少しくらいなら。
……いや、待て。俺は今、何を買おうとしているんだ?
借金八十万円を抱えている男が、女の子に花を贈ることを考えている。
……どうやら、筋肉痛より深刻な問題が発生しているらしい。
◇◇◇
「……瀬川くんってさ、どうして小説家になりたいの?」
放課後。校舎を出て、駅へと続く道を歩いていると、隣の紬が唐突にそんなことを聞いてきた。
「今日の授業で先生が言ってたじゃん。何のために小説を書きたいのか、考えてみてって」
「……ああ、言ってたね」
「それで、瀬川くんはどうなのかなって」
……どうして小説家になりたいのか。
改めて聞かれると、意外と難しい質問だった。
「……最初は、単純に小説を読むのが好きだったからかな」
「うんうん」
「それで、いつか自分でも書いてみたいって思って。実際に書いてみたら、思ったより楽しくて」
「……え? それだけ?」
「それだけって言われても……」
「だって瀬川くんさ、小説の話になるとすっごく楽しそうなんだもん」
「……そうかな」
「そうだよ! 授業中だって、先生に質問するときだけ目の色変わってるし!」
……そんなにわかりやすいのだろうか。
「白石さんは? どうして小説家になりたいの?」
「私はね……」
紬が少しだけ歩く速度を落とした。
「誰かの、一番好きな小説を書きたいんだ」
「……一番好きな小説?」
「うん。世界中の人に読んでもらえなくてもいいの。たった一人でも、その人にとって一番大切な物語になれたら、すっごく嬉しいなって」
紬は照れくさそうに笑い、頬をポリポリと掻いた。
「……なんか、口に出すとちょっと恥ずかしいね」
「いや、いいと思う。白石さんらしいなって」
誰かの一番になりたい。その言葉は、妙に紬らしい気がした。
「……じゃあさ、瀬川くん。私が小説家になったら、一番最初に読んでくれる?」
「もちろん」
「……即答なんだ」
「そりゃそうでしょ。白石さんの小説、好きだし」
「えへへ……そんな褒めなくても……」
紬の歩くペースが今度は早くなった。目尻が垂れている。
「……じゃあ、私も! 瀬川くんが小説家になったら、絶対に一番最初に読むから!」
「……ありがとう」
「それでね、いっぱい感想書く! あ。でも、つまらなかったらちゃんと言うよ?」
「……そこは手加減してくれない?」
「だーめ! ライバルなんだから!」
紬は得意げに胸を張った。
……そうだった。
この人は、俺に告白してきた女の子であると同時に、小説家を目指すライバルでもある。
それなのに。
「……白石さんが小説家になったら、俺も負けてられないな」
「ふふっ。望むところです!」
こんなふうに隣を歩いていると、競争相手だということを忘れそうになる。
駅が見えてきた。
昨日は二十キロも走ったというのに、今日の帰り道はやけに短く感じる。
「……あ、そうだ。瀬川くん!」
「ん?」
「お花屋さん、楽しみにしてるからね!」
「……うん。俺も」
「……うん! じゃあ、また明日!」
紬は大きく手を振り、改札へと駆けていった。
俺も、か。
この前までは、休日に一万円近くの給料を失うことすら考えられなかった。
なのに今は、次の休日を楽しみにしている。
しかも、花屋だ。花の名前なんて、数えるほどしか知らないというのに。
「……参ったな」
俺は小説家になりたい。借金も返さなければならない。
それなのに、最近は考えることが一つ増えてしまった。
悪い気はしないのが、タチが悪いところだ。
【借金返済まで、あと352日】




