第2話 春までの契約妻になりました
「えっ?」
エルナは瞬いた。だが、レオンハルトはエルナをじっと見つめている。
「おれは本気です。おれの領地にはあなたの力が必要だ」
エルナは急な出来事に混乱した。
「でも……」
「辺境は常に魔物の脅威に脅かされている。あなたのような優秀な補給係が必要なんだ!」
「わたしは……わたしなんかがどうして必要なんですか? わたし以外にも優秀な人はいます」
レオンハルトは首を振ってから、息を吐いた。少し置いてから、レオンハルトははっきりといった。
「あなたほど優秀な人はいない」
エルナはその言葉が胸に染み入る気がした。
二人の話し合いはそれから長く続いた。レオンハルトの物腰は丁寧だったが、時々挑戦的な――辺境的な、勇敢な態度を見せてくることがあった。レオンハルトは王都から遠く離れた王国辺境部の領主だ。彼の領土は広大らしい。そして、彼は二十八歳になるのだが独り身のようだ。彼は否応にも王都の派閥抗争に巻き込まれていて、その過程である大貴族から縁談を迫られているらしい。
レオンハルトはエルナに、二つの提案をした。
一つ、レオンハルトの領地へ雇われ人として赴く。レオンハルトはエルナに十分すぎるほどの額を提示した。任期は春まで。
そしてもう一つ、レオンハルトとエルナが契約結婚すること。エルナは彼とともに彼の領地へ赴き、同じく補給係として働く。結婚生活は仮初で良い。彼はそうすることで王都の派閥抗争から少しでも逃れられる。また、その生活も春まででよい。
どちらの条件も、エルナがその気なら、春を超えても継続が可能ということになっていた。
エルナの実家もまた、エルナの結婚を急かしていた。そもそも、実家はエルナが補給係として元婚約者のルートに付き従って騎士団の業務を行うのを快く思っていなかった。そして婚約破棄があり、実家は恐れていたことが起きた、というような態度を見せた。そして、エルナを誰かと結婚させようと急いでいる。
「わかりました」
エルナが言うと、レオンハルトは顔を斜めにし、こちらを伺うようにした。どちらの条件を、エルナは受け入れるのだろうか……。
「わたしは、あなたと契約結婚させてもらいます!」
レオンハルトは一瞬目を大きく開き、そして、くすくすと笑い始めた。
「ああ、その返事を待っていた。よろしく頼むよ。おれの花嫁よ」
★
エルナとレオンハルトの婚約は実家を驚愕させた。だが、悪い反応ではなかった。母親も父親も、レオンハルトのことは知っていた。彼は有名人なのだ。彼の領地は広大で力がある。それでも母親は、レオンハルトを田舎の野蛮な出と見下す風であったが、それでもいい縁組だといった。
もちろん、春までの結婚だとは伝えなかった。
エルナはかなり疲れていた。突然の婚約破棄、実家から矢のように届く縁談の提案と催促。それから逃れたかったのだ。レオンハルトも似たような環境だという。だから、ちょうどよかったのかもしれない。レオンハルトは形だけの夫婦でいいと言っていたから、エルナに何かを求めたりはしないはずだ。
エルナは辺境へ旅立つ支度をし始めた。
★
一週間がたった。レオンハルトは王都でのすべての仕事を終えた。朝、王都を去る彼の車列がエルナの屋敷の前に止まる。エルナもまた、馬車にすべての荷物を積み込んでいた。
王都から彼の領地――ラーデン公爵領までは一週間かかった。エルナはその間、晩餐をすべてレオンハルトと共にした。
初めての晩、エルナは緊張して顔を赤らめてしまった。ただ、スープを目の前にしているだけなのにも関わらずだ。
レオンハルトは無骨な男でいつも無愛想に近かった。だが、この時は思い切り爆笑していた。
エルナはさらに顔を赤くした。
「お前はいったい、何を緊張しているんだ?」
レオンハルトの口調は柔らかくなっていた。
「わたしは……別に緊張なんてしていません!」
「そうか……そうか?」
レオンハルトは笑いながら、エルナを見る。エルナは何も言えない。
「やれやれ、おれたちはまだ夫婦になったわけじゃないんだ。それに、今はただ一緒に食事をとろうとしているだけなんだ」
二人が夫婦になるのは、彼の故郷の城についてからだと決めてある。
「わかっています! でも、その……初めて一緒に食事をとるので……」
「ははは」
レオンハルトは豪快にまた笑った。
「笑わないで!」
「すまん」レオンハルトは涙を拭きながら言った。「しかし、そうだなあ――。実は緊張するのはおれの方だ。おれは田舎ものだから、上品な振る舞いを知らない。王都の貴族のお前に比べれば特に、な」
レオンハルトのまじめな言葉に、エルナは首を振った。
「わたしはそんなもの気にしません」
「ありがとう。そうだ、おれもお前がどんな振る舞いをしても気にしないよ。だから、もっと気楽になってくれ」
エルナは、レオンハルトがこんなことを言ったのは自分を気遣うためだとわかった。ありがとう、と言った。
「いいんだ。――それよりも、貧相なものかもしれないが……」
スープのことだった。二人の前にはそれぞれスープが大きな鉢に入っている。沢山の具材が一緒くたに煮込まれたものだった。お世辞にも洗練されたものではないだろう。二人がいるのは山間部へ入る手前の小さな町だ。旅行の計画を立てたのはレオンハルトだ。いくら一行が料金を払うと言っても、こんな小さな町にこれほどの人数に提供する食料などないだろう。エルナはそう考えてしまう。
(彼の領地へ着いたら、わたしが何とかしないと……)
そう思ってから、エルナはレオンハルトを見た。
「大丈夫! それより、わたし、頑張るね」
「え?」
「なんでもない!」
エルナは首を振り、スープにスプーンを着けた。口をつけるとほとんど同時に笑んだ。
「おいしい!」
言ってから、思う。――美味しくない。
エルナは大きく顔をほころばせて白い歯を見せた。食事中にも関わらずだ。エルナは気恥ずかしさから肩をすくめる。レオンハルトも同じ感想を持ったらしく、口元をすぼめながら顔を振った。
★
レオンハルトの領地であるラーデン公爵領は広い。エルナは旅の途中、暇があるごとに彼と会い、彼の領地についてたくさんの話をした。ラーデン公爵領は王国東部にあって、領地の多くを山間部が占める。王国国境に沿って山間の土地が続くが、領土の南東部には平野部もある。公爵領の首都はララガスタ。二人の旅の最終地点であり、今エルナが眼にしている場所である。
ララガスタは山間の盆地にある。エルナは、街の向こうにある山並みの、さらに遥か向こうに空を突くような峻厳な峰々を見た。エルナは息をのむ。山の下部は木々があるようで緑色だ。だがそれも途中まで。そこすら、手前にある山の頂よりもずっと上にある。それより上は岩場がむき出しなのだろう、薄灰色だった。そしてその頂は雲の上に隠れて見えない。まさに、天をついている。そんな山が連なっている。あれは――。
「あれが青龍の住処だ。竜山、とおれたち地元の人は言う。だが王都に住んでいたエルナには、バルドラの天空宮殿といった方が伝わるか?」
バルドラは伝説の竜の名だ。伝承によれば、その竜は空のはるか上、宇宙で生まれたという。そして、星々の間を満たす冷たい青い海にその体を浸されたから、身体が青い。だから青龍と呼ばれる。その竜の住処があるとは聞いていたが、まさかこことは。
「竜はいるんですか?」
「知らん」
レオンハルトは苦笑いした。
「いる、と皆いう。だが見たものはおらんな」
「あれはあなたの領土なの?」
レオンハルトは今度は爆笑した。
「いや、そうか……確かにおかしい質問ではないな。しかし竜の宮殿をおれの領土なのか、とは強気な質問だな」
「わ、わたしはただ」
言いさしたエルナを、レオンハルトは見た。
「わかってる。笑ってわるかった。微妙なところだ。おれの領土は確かにここから山向こうまで広がっている。だが実際のところ、その領域はあいまいなんだ。この山のずっと奥は魔物領域で、人間の国があるわけではないから、国境線なんてあってないようなものだ。そして、地図上でも、竜山のふもとはおれの領土ではない。しかし、もしお前が望むなら、おれはお前をあそこへ連れていくこともできるんだ。もっとも、おすすめはしない。なんたって魔物が出る」
小高い丘の上だった。二人はしばらく遠目にララガスタを眺めた。車列は再び動き出す。ララガスタの周囲は秋枯れた森に囲まれていた。街の周囲に畑が広がっていて、盆地はそれなりに土地が広いようだ。
城は街のはずれにあって、小高い場所につくられている。秋の冷たい空気のせいだろうか、薄暗い色をした城の城壁が怖かった。城門の下をエルナの馬車がくぐるとき、エルナはひどく怖がり緊張していた。
城の中には砦と住まいの中心である居館があった。馬車は居館前に停まる。
馬車を降りようとするとすでにレオンハルトがいて、エルナが降りるのを手伝ってくれた。
「召使いにお前の部屋まで案内させよう。おれは家来どもに指図をしたら、すぐにお前のところへ向かうから」
エルナにあてがわれたのは、居館の一階の奥にある広い一室だ。レオンハルトの召使いたちが、後から続々と荷物を部屋に運んできた。エルナは召使いたちを下がらさせる。最後に部屋に残った一人に言った。
「もし、あなたにできるのなら、このあたりの地図と、この城の物資の在庫を確認できる紙、そして軍の整備の資料をもってきて」
召使いは困惑顔をした。彼女は幼い女で、ただの女中だろう。そんなものを持ってこれるほど上位の人間ではない。エルナもそれをわかっていたが、今は何より時間が惜しい。
「もしあなたには荷が重いなら、誰かほかの人に言って。わたしが言ったと言えば、きっとしたがってくれるから」
エルナは机に向かう。先ほど召使いが運んできたうちの一つの大きな鞄を横に倒して開ける。中から一冊のノートを取り出した。
ここへ、この度の不備を書き込む。忘れないうちに改善点を書かなければならない。
例えば、道中の休憩地点の設定がおかしいこと。旅の行程に合わせて都合のいい場所を適当に選んだだけだった。それではだめだ。小さな村に大人数は休憩できない。だから、まず休憩地点となる拠点を定めて、それに沿う形でルートを決め、そこから行程を定めなければ。
また、食料に余裕がないこと。食料や、場合によっては軍備に関わるものは最小限ではいけない。それでは不測の事態に対処できないからだ。
その時、部屋がノックされた。エルナが応答すると、レオンハルトが入ってきた。彼はエルナに目を留めて、いう。
「何をしている?」
「今、この旅の間に改善できるところをたくさん見つけたから、それを書き留めていたんです」
レオンハルトは背後からノートをのぞき込む。エルナはそれが気恥ずかしかったが、大人しく見せることにした。
「ほう」
「例えば休憩拠点の設置とか、食料の在庫とか」
「補給係の仕事、ということか」
「はい!」
だが、とレオンハルトはぴしゃりと言った。
「今ではない」
「え?」
エルナは一瞬、ぎょっとする。何か怒らせてしまったのだろうか。
「長旅で疲れているだろう? 仕事はまた後でやればいい。明日やれという話でもない。たくさん休憩をとれという話だ」
「でも」
「でもはなしだ。さあ、特に今は、お前は食事とらないといけないし、そのあとはたくさん寝ないといけないんだ」
エルナは驚いた。でも、仕事がたくさんあるのに。自分はここで自分が使える人間だとみんなにわかってもらいたいのに。
「さあ、一緒に何か食べよう。今日は特別な日なんだ。城の料理人にたんといいものを用意させる。――焦らなくていいんだ」
エルナは俯いた。自然と、ペンを握る手がほぐれて、ペンが落ちた。
「ありがとう」
エルナは俯いたまま言った。
翌朝、エルナは眼を覚ました。エルナは食事の後、結局机に向かった。そしてそのままノートの上に突っ伏したらしい。
エルナは自分の身体が温かいことに気が付く。ふと肩に重みを感じるから見てみると、レオンハルトの毛皮の外套がかけられていた。
エルナはその服の端をぎゅっと握りしめた。焦らなくていい、とレオンハルトは言った。
(わたしは……)
お前は使えないな。元婚約者ルートの声がよみがえる。
(焦らなくても……)
どうしてそうすぐにできないんだ? ルートは言う。
(ここでうまく、できるよね?)
お前、何百人の命がかかってるってわかってるか? ルート言ったような気がした。
(ありがとう)
エルナはレオンハルトに心の中で礼を言う。




