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第1話 婚約破棄された「雑用係」令嬢

 誰も座っていない玉座から伸びる地面は赤い。深紅色の絨毯が、宮殿の広間の中央を飾る。絨毯の外側、床には真っ白な磨き上げられた石が隙間なく詰められていた。その上にたくさんの靴のかかとが落とされ、そのたびに、こつんとした音が広間のそこここで響いている。とはいえ、今の広間には音楽家たちが組を組んで演奏に励んでいたから、陽気な音楽がこの空間いっぱいに響いていた。石床から上がる足音は、この音楽にまじってささいな拍子となっていた。


 エルナは絨毯の先、玉座の方向から愛しの人が歩いてくるのを見た。エルナは立ち止まっていたが、彼の方向へゆっくりと歩き始めた。彼は長年の相棒で、エルナの婚約者だ。彼の長い脚は、軍隊でよく訓練された歩調をここでも見せていた。


 彼は立ち止まり、エルナを目の前にして、高い身長で見下ろした。エルナは彼を見上げた。


 ルート・フォン・ケッセルハイムは、エルナに対して冷たい言葉で言い放った。


「婚約は破棄する」


 エルナは初め、ルートが何を言っているのか理解できなかった。茫然と、目を丸くしながら、婚約者の言葉を頭の中で浅く繰り返していた。


 その間、先ほどまで婚約者であったルートは、堂々とした佇まいで立ちながら、冷たい目で先ほど自分が婚約破棄を告げたエルナを見つめていた。


 やがて、エルナよりも先に周囲が騒めき始めた。宮殿では秋の盛りを祝うパーティーの最中だった。王都中の貴族たちが宮殿の大広間に集まっていた。広間には白い食卓がいくつも置かれ、その上には銀製の食器が並べられていた。音楽家たちは、指揮者の指図によって曲を演奏していたし、多くの貴族たちがその曲に合わせてゆったりとダンスを踊っていた。エルナの周囲から人のかわす言葉がなくなり、それはだんだんとより遠くへと広がっていった。エルナの周りを人々が円を組むように立ち、こちらを伺う。


 エルナはその中心で、なおも現実感を失いながら茫然と立ち尽くしていた。ルートは目でその様子を見る。エルナに視線を移して、呆れたように小さく鼻を鳴らした。エルナはそれを切っ掛けにして、震える声で小さく聞いた。


「……どうして?」


 ルートは王都に駐屯する王国一の騎士団である「聖王の騎士団」の団長だった。エルナは彼の婚約者として、騎士団の補給係を務めていた。騎士団が王国の各地へ出征するたびに、そこへ婚約者と共に向かい、食事を共にし、時には婚約者から疎ましくさえ思われながらも付き従い、小屋で一人、冷たい藁敷の床で寝ることさえあった。それが……なぜ?


(これだけルートと……騎士団に尽くしてきたのに……)


 つい、エルナの頬に涙のしずくが流れ落ちた。エルナはそれ以上を我慢した。泣くまい、と思った。けれども、目は熱くなるのをやめてくれなかった。


「お前はよくやってくれたよ。お前は隊の雑用をよくこなしてくれたよな」


 ルートのその言葉には何の温もりも含まれていなかった。それに――雑用……。エルナは騎士団の物資を管理し、準備し、戦地ではそれを配給するのを計画した。それは雑用なんかでは決してない。


「お前のおかげでおれにも出世の道が開けたよ。ありがとうな。でも、おれはもっと上位の貴族の娘と結婚することにしたんだよ」



「……」

「お前は伯爵の娘だって言って、身分だけが取り柄だったよな。でも、そうじゃない、本当の高貴な女がおれに相応しいって気づいたんだよ」


「高貴な女って?」


 エルナの声はかすれ、震えている。


「雑用係じゃない女さ!」


★


 三年ほど前のこと――騎士団は王都より遠方のある場所で敵を追いかけていた。ルートが率いる先陣は敵陣深くを切り裂いている。エルナはそれを知っている。彼を心配しながら、ずっと後ろの法で、傷ついた仲間の手当てをしていた。


「エルナ様! ああ――」


 そう言いさした兵士は、すでに鎧を取られ、傷ついた全身を芝草の上に横たえていた。


 エルナはそのすぐそばに、ほとんど滑りこむようにして膝をついた。エルナは看護の知識はない。できることは紙面の上に必要な物資を書き込み王都や近隣の街で調達したり、報告書を読み先々の予想を立てること。だが、紙面上では負傷兵の一として数えられるだけのことも、現場ではこうも凄まじい。


 エルナは司令部に輸送されてきた兵士たちの看護の手伝いをしている。知識はないから、彼らの容体をどうこうはできない。それでも、手伝えることはあるのだ。


 若い女の召使いが、エルナの隣へ座り込んだ。女は手に包帯を持っていて、それを兵士に括り付けた。兵士の血の流れる左手に括り付けられた包帯の先を、エルナに渡した。


「それを思い切り引っ張ってください!」


「わかった!」


 言って、エルナは身体をほとんど後ろに傾けるほど、力強く包帯を締め上げた。兵士が唸り声を上げ

る。それにエルナが怯えそうになると、若い女は声を上げる。


「続けてください!」


 しばらくそういう風に負傷兵の間を右往左往していたら、仲間が声をかけてきて、休憩を促してくれた。エルナが外の司令部の壁際に座り込んで、その光景を眺めていると、先ほどの若い女が近づいてきてそばに腰を下ろしてくれた。


 エルナは俯き、低い声で彼女に声をかける。


「わたしは何もできないね」


「そんなことありませんよ」


 言いながら女は背後から包帯を一つ取り出した。


「これは、あなたが用意したんです!」


★


 エルナは王都の騎士団の本部、その一室で、傷つきながら引継ぎの計画をしていた。自分の知らぬ後任の誰かに手を震わせながら手紙を書く。


(わたし、泣かないわ)


 思いながらも、眼はずっと熱い。眉間に力が入り、手がこわばってうまく文字が書けない。


 これほど彼のために、と何度も思い、それをすぐにやめるを繰り返し続けている。


 手紙には、騎士団の次の遠征計画は現状のところ、負傷者を運ぶための馬車が不足していると書いた。さらに、現地へ向かうまでの休憩所の手配も十分でないし、食料さえ不足していると書く。エルナは補給係で、これらのすべてに責任を負っていた。それは非常な負担だった。だが、実際には騎士団の金銭に関わることはすべてルートが仕切っていた。エルナは補給係として、彼の認可を受けねばならなかったが、彼はそれをよくしぶった。だから今回も、エルナは次の遠征計画の不備をよく認識していたが、それをすぐに是正することができていなかった。


 本部を出る際、多くの人の哀れみの視線が自分に集まっていた。エルナはそれが惨めで仕方ない。エルナは自分のわずかな荷物を手にして、逃げるようにしてその場を去った。


 ルートはその数日後、人づてに手紙を受け取った。


「馬鹿らしい! あの女はなんて未練がましいんだろう! こうも面倒くさい長文の手紙を送ってくるなんて」


 ルートは吐き捨てながら、手紙を破いた。背後の扉がノックされる。入れ、とルートは言った。


 エルナよりさらに若い美しい女が顔を出した。


「ルート、どうしたの? 外からあなたの声が聞こえたの」


「ああ、リーリャ。心配をかけたね。大丈夫だよ。過去の女がうざったく手紙なんか寄越しちゃってさ。彼女の口を借りれば、これは『引継ぎ』なんだってさ」


 まあ、とリーリャは口を両手で抑えた。


「大丈夫? 何か言われたの?」


 ルートは心配げなリーリャの肩に手を添えた。


「いろいろ言われたけど、大丈夫。ただの嫌がらせなんだ。おれは彼女にこれまでちゃんと、できる限りのことをしてきたのに、彼女はまったくおれの求める人間になってくれなかった。なのに、なんで今頃になって――」


「大丈夫だから」


 リーリャは自分の肩をつかむ彼の手に、自分の手をそっと添えた。


「彼女が何を言ったって、大したことにはならないはずだもの。あんな雑用係の女の話を誰が聞くっていうの?」


「あいつがいらない噂を立てないかどうかも心配だ」


 リーリャはルートに抱き着いた。


「あなたは何て不幸が多いの? わたしがたくさん支えてあげるからね」


 リーリャ、とルートは優しくつぶやいた。


★


「それでは、『あの話』は本当でしたか」


 背の高い青年はエルナに、困惑を含んだ視線を投げかけた。王都にあるエルナの小さい屋敷の一室だった。


 今日の昼、エルナの屋敷に辺境に領土を持つ公爵が訪れた。エルナは初対面なはずの彼に困惑しながらも、屋敷の客間に案内したのだった。


「……ええ」 


 エルナは俯きながら、小さく頷く。


 はじめはただの世間話だったから、エルナはこの公爵――レオンハルト・フォン・メルク、と彼は初めに名乗った――の用向きが何かわからなかった。しかし、だんだんと話の流れはエルナの近況になり、レオンハルトが耳にした話、という体裁で、とうとうエルナの婚約破棄の話にまで至った。ここにきて、エルナはレオンハルトが自分のことを探りに来ているのだとわかった。しかしその理由はわからない。


「おれは現在、王都で開かれる会議のために、この街へきています。ですから、近々自らの領地へ帰るつもりです」


 はい、とエルナは頷いた。


 レオンハルトはそれから手を伸ばしてカップを取り紅茶を飲んだ。一息つくと、彼は視線を窓の外へ移した。彼は視線だけエルナに寄越してから、言った。


「おれは何年か前に、ひどい戦いに巻き込まれたのです」


 エルナは何も言わなかった。


「おれの軍はほとんど負けに近い形で、多くの兵が傷つき、退却していました。王都からの援軍はどれだけ待てども来ませんでした。敵は魔物の大軍でした。……運よく天気が荒れました。今でも覚えていますが、空が黒々として、厚い黒い雲が渦を巻いていました。一生に体験するかしないかの嵐でした。魔物が籠る森は、その嵐のせいで多くの木々がなぎ倒され、やつらは混乱し、森の中を逃げ回りました。そのせいでおれたちは時間を稼げたのですが、その嵐は人と魔物の区別を付けませんでした。おれたちは嵐の中で軍を必死に立て直していました」


 エルナはじっとレオンハルトの話に耳を傾ける。レオンハルトがカップを置いて、エルナをじっと見つめる。


「しかし、嵐がようやく止もうというころ、王都から救援物資が届きました。たくさんの食料と武器、甲冑、そして軍馬です! 嵐の収まりは魔物の来襲を当時は意味していましたから、これはまさに天の助けでした。このおかげで、おれは、おれの領地は命を救われたのです」


 エルナははっとした。この話は――。


「お気づきになられましたか?」


 レオンハルトは身体の丈夫な男で、顔立ちは都会の線の細い感じではなくて、田舎の素朴な感じがする。その顔で、彼はにやりと照れるように笑った。


「その補給の手筈を整えてくれたのがあなただと、後になってから聞きました。そして今、あなたは……暇になったとか」


 言いながら、レオンハルトは困ったように笑った。どう表現していいのかわからなかったのだろう。

「どうだろうか、おれの領地へ、辺境へきて仕事をしてみるつもりはないか?」

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