第3話:雨の路地と、崩れ落ちた世界
玄関のタタキに立ち尽くしたまま、雫の身体は内側から急速に冷え固まっていった。
視界の中心に焼き付いて離れない、パステルピンクのエナメルピンヒール。
細く尖ったヒール、足首を飾る華奢なゴールドのアンクルストラップ。そのエナメルの艶は、薄暗い玄関灯の光を反射して、まるで嘲笑うようにぎらぎらと濡れた光沢を放っていた。
(どうして……? なんで、ここに……)
脳の処理が追いつかない。
指先から血の気が引いていくのが分かる。
持っていたスーパーの白いビニール袋が、ガサリと小さく音を立てた。中に入っているのは、秀人が好きだと言っていた一本三百五十円のプレミアムビールが二本。そして、ポケットの中には、今朝わざわざ合鍵屋で作ってきた真新しい銀色のスペアキー。
「秀人の部屋」ではない。
ここは、雫が学生時代から必死にアルバイトをして貯めたお金で敷金と礼金を払い、契約を更新し続けてきた「雫の部屋」だ。
秀人が転がり込んできてから一年余り、家賃も光熱費も、その八割以上を雫が自分の口座から引き落としで支払ってきた。秀人はいつも「今月は営業の付き合いが多くてカツカツなんだ」「お前の方が固定給で安定してるだろ」と甘え、雫は「私を必要としてくれているから」と自分を騙して財布を開いてきたのだ。
その部屋に、なぜ、今朝自分のデザインと手柄を奪い去っていった後輩の靴があるのか。
トクン、と心臓が重く跳ねた。
狭いワンルームのアパート。玄関から続く短い廊下の突き当たり、すりガラスの引き戸で仕切られた六畳の居住スペースから、微かな物音が漏れ聞こえてくる。
衣擦れの音。
クスクスとした、粘り気のある女の笑い声。
そして――低く喉を鳴らすような、聞き慣れた男の吐息。
「……んもう、秀人さんったら、焦りすぎぃ……♡」
「仕方ねえだろ。今日のお前、マジで可愛すぎるんだよ。昼間のオフィスで見てた時から、ずっと我慢できなかったんだ」
心臓を直接、錆びたナイフで抉り取られたような激痛が走った。
聞き間違いなどあり得ない。
秀人の声だ。
毎晩、雫が「仕事がつらい」とこぼすたびに「要領が悪いお前が悪い」「暗い顔ばかりするな」と冷たく突き放していた、あの男の声。
その男が、今、聞いたこともないほど甘く蕩けた、情欲に濁った声を出していた。
「あはっ、本当ですかぁ? でも、いいんですかぁ? ここ、雫先輩のお部屋なのに……いつ帰ってくるか分かんないですよぉ?」
「あいつ? 帰ってくるわけねえだろ。鳴神のオッサンから聞いたぜ。ネクサスの案件の修正、山ほど押し付けられて事務所で徹夜確定だってよ。どうせ今頃、目の下にクマ作ってキーボード叩いてるさ。あいつ、真面目だけが取り柄のバカだからな」
ガサリ、とベッドの軋む音が響く。
雫がなけなしのボーナスを叩いて買い、秀人が「腰が痛くならなくて最高だな」と喜んでいた、セミダブルのスプリングベッドの音だ。
「酷ぉい。先輩、可哀想……でも、そんなこと言って、秀人さん私のこと本気なんですかぁ? 先輩と三年も付き合ってるくせにぃ」
「本気配に決まってんだろ。あんなボロ雑巾みたいな女、とっくに限界なんだよ。お前と比べたら、月とスッポン……いや、宝石と産業廃棄物だな」
――宝石と、産業廃棄物。
頭の芯が、プツンと音を立てて千切れた。
指の力が抜け、胸に抱えていたレジ袋が手首から滑り落ちた。
ドサリ、と鈍い音がタタキに落ち、缶ビールが二本、袋を突き破って床へと転がり出た。
ゴロゴロゴロ……と、静まり返った玄関に、アルミ缶が擦れ合う音が異様に大きく響き渡る。
奥の部屋の音が、ピタリと止まった。
「……おい、なんの音だ?」
「え……? 嘘でしょ……?」
バサバサとシーツが乱れる音。慌てて衣類を擦り合わせる気配。
雫は、操り人形のようにギクシャクとした動きで、一歩、前へと踏み出していた。
止まらなければならない。引き返して逃げ出さなければならない。頭のどこかで警告のアラートが鳴り響いているのに、足が勝手に動いてしまう。
廊下の突き当たり。薄いすりガラスの引き戸に手をかけ、一気に横へと引いた。
ガララッ――!
視界が開けた瞬間、網膜に飛び込んできた光景に、雫は呼吸を奪われた。
乱れたベッドの上。
上半身裸の秀人が、ベッドの縁に腰掛けていた。胸板にはうっすらと汗が光り、首筋には生々しい赤いキスマークがいくつも散っている。
その背後、シーツを胸元まで引き上げて身を隠すように縮こまっていたのは、早坂くるみだった。
肩から羽織った薄手のカーディガンから、白く艶やかなデコルテが覗いている。枕元には、くるみが身につけていたはずのパステルピンクのニットが、乱雑に脱ぎ捨てられていた。
「……ひ、で……と……?」
震える唇から、かすかな空気の漏れるような音がこぼれた。
夢であってほしかった。
連日の徹夜でカフェインを過剰摂取したせいで、脳が見せている最悪の悪夢であってほしければどれほど救われただろう。
だが、鼻を突く濃厚なバニラの香水の匂いと、男と女が生々しく交わった後の生温かい湿度が、これが紛れもない現実であると告げていた。
秀人は、目を見開いて硬直していた。
一瞬、その顔に「ヤバい」という狼狽の色が浮かぶ。
だが――次の瞬間、その表情は急速に冷え込み、ドス黒い苛立ちへと塗り潰されていった。
「……チッ」
あろうことか、秀人はベッドの上で露骨に舌打ちをしたのだ。
慌てるでもなく、取り乱すでもなく、ただただ面倒なものを見るような目で、床に転がっていた自分のシャツを拾い上げて頭から被る。
「……見られたなら、しょうがねえな」
ボソリと吐き捨てられた言葉に、雫の全身の血が逆流した。
「しょうが……ない……? 秀人、何言ってるの……? ここ、私の部屋だよ……? なんで、くるみちゃんが……なんで二人が……!」
「声がでけえよ、近所迷惑だろ!」
立ち上がった秀人が、怒鳴り声を上げて雫に詰め寄ってきた。
罪悪感など微塵もない。己の不貞を棚に上げ、見咎められたことに対する逆ギレの暴力。
秀人は乱れた前髪を乱暴にかき上げ、見下ろすように雫を睨みつけた。
「なんでって、見りゃ分かんだろ。そういうことだよ。お前がいつまでも帰ってこねえから、くるみちゃんと部屋で飲んでたんだよ」
「飲んでたって……服脱いで……ベッドで……!」
「ああそうだよ! 抱いたよ! 悪ぃかよ!?」
開き直った秀人の怒声が、狭い部屋にビリビリと反響する。
雫の顔色が、白から青へと変わっていく。言葉が出ない。喉が痙攣して、ヒュウと情けない音が漏れる。
「お前さあ、最近鏡見てねえだろ? いつも疲れた顔して、口を開けば会社の愚痴ばっかり。仕事、仕事って、女としての身だしなみも何一つしねえで、家でもブスッとしてよ。お前、自分が女としてどれだけ終わってるか自覚あんのか? 正直、もう抱く気も起きねえんだよ!」
「わ、私は……秀人との生活のために……家賃だって、私がほとんど……!」
「金の恩着せがましいこと言ってんじゃねえよ! 頼んだ覚えはねえんだよ! お前が勝手に払ってただけだろ!」
言葉の一つひとつが、鈍器のように雫の胸を殴打する。
三年間の思い出。
仕事で落ち込んでいた秀人に手料理を作り、「大丈夫だよ、秀人ならできるよ」と励まし続けた夜。
少しでも生活を支えようと、自分の服や化粧品を買うのを我慢して貯金に回していた日々。
そのすべてが、この男にとっては「恩着せがましい施し」であり、「女を捨てたブスの鬱陶しい愚痴」でしかなかったのだ。
ベッドの上で、シーツを巻き付けたくるみが、くすくすと忍び笑いを漏らした。
怯えた様子など、最初からこれっぽっちもなかったのだ。
くるみはベッドからしなやかに抜け出すと、足元に落ちていた自分の服を拾い上げ、秀人の背中にぴったりと身を寄せた。
「そうですよぉ、雫先輩」
くるみは、秀人の鍛えられた腕に自分の胸を押し当てるように抱きつき、上目遣いで雫を見つめた。
その瞳の奥にあるのは、純粋で、無垢で、底知れない悪意。
「お仕事も、男も、要領が悪いと損しますよぉ? 先輩がいくら徹夜して泥臭く頑張ったって、社長に選ばれるのは私だし、秀人さんに愛されるのも私なんです。現実を見なきゃダメですよぉ」
「くるみ……ちゃん……あなた、知ってて……秀人と……」
「当たり前じゃないですかぁ。先輩がいつも嬉しそうに秀人さんの自慢話してくるからぁ、どんな人なのかなーって思って声かけたら、一瞬で私のこと口説いてきたんですよ? ねー、秀人さん♡」
「おい、よせよくるみちゃん、照れるだろ」
秀人が鼻の下を伸ばし、くるみの頭を優しく撫でる。
その手の動きは、かつて秀人が雫に向けてくれていたものと全く同じだった。
二人の世界。
雫が三人で暮らすために整えたこの部屋で、雫だけが完全に排除されていた。
目の前で繰り広げられる地獄のような光景に、雫の視界がぐにゃりと歪む。
「……出て行って」
雫は震える声で言った。
両手を固く握りしめ、爪が手のひらの肉に食い込み、じわりと血が滲むのを感じながら。
「出て行ってよ……! 二人とも、今すぐ私の部屋から出て行って……!!」
「はあ? なんだその態度はよ」
秀人の眉が跳ね上がった。
男はズボンのポケットに手を突っ込み、ツカツカと雫の目の前まで歩み寄ると、その細い肩を乱暴に突き飛ばした。
ドンッ!
「きゃっ……!」
背中が廊下の壁に激突し、息が止まる。
秀人は冷酷な瞳で、床にへたり込んだ雫を見下ろしていた。
「寝言言ってんじゃねえよ。出て行くのはお前の方だろ」
「……え?」
「耳が腐ってんのか? ここは今、俺とくるみちゃんの邪魔をされたくねえんだよ。お前みたいな陰気な顔した疫病神が同じ空間にいたら、気分が悪くてやってらんねえんだよ。頭冷やしてこい」
「な、何を言ってるの……!? ここは私の部屋よ! 私の名義で借りてる部屋なのよ!?」
「うるせえ! 家賃の半分は俺が出してやってるようなもんだろうが! つべこべ言わずに消えろ!」
秀人は雫の腕を乱暴に掴み上げた。ギリギリと骨がきしむほどの力で締め上げられる。
「痛い! 離して、秀人!」
「うるせえよ!」
抵抗する雫を、秀人はまるでゴミ袋でも扱うかのように引きずり、玄関へと向かった。
くるみが部屋の奥から、くすくすと冷笑を浮かべながら見送っている。
「先輩、風邪ひかないでくださいねぇ〜♪」
ガチャリ、と乱暴に玄関のドアが開け放たれた。
外からは、先ほどよりも激しさを増した豪雨の湿った冷気が吹き込んできた。
「秀人、待って! お願いだから……靴も、傘も……!」
「知るかよ! 朝までどっかのファミレスで時間潰してこい!」
ドカッ、と背中を蹴り飛ばされるような衝撃。
雫の身体は、雨が吹きすさぶ外廊下のアスファルトへと放り出された。
バタンッッ――!!
鼓膜を破らんばかりの轟音を立てて、ドアが固く閉ざされた。
直後、内側からガチャリと、無情な鍵の回る音が響いた。
静寂。
そして、激しい雨の音だけが世界を埋め尽くした。
「……あ……」
外階段の踊り場。
コンクリートの冷たさが、薄い部屋着のスラックスを通して太ももへと染み渡っていく。
足元には靴すらない。靴下のまま、雨水が溜まった外廊下に放り出されていた。
傘もない。財布も、スマートフォンも、すべて部屋の中のデスクの上に置いたままだ。
「開けて……! 秀人、開けてよ……!!」
雫は立ち上がり、狂ったようにドアノブを回した。
ドンドンと両手でドアを叩く。金属の冷たい感触が掌を痛めつける。
「開けて! 私の部屋よ! なんで私が追い出されなきゃいけないの!? 開けてよ秀人!!」
返事はなかった。
すりガラスの向こうの明かりが、ふっと消えた。
寝室の明かりだけが、遠くでオレンジ色に灯っている。
二人が、再びあのベッドに戻ったのだということが、残酷なほど正確に理解できてしまった。
ヒュオオオオオッ、と強い突風が吹き抜け、容赦のない豪雨が踊り場へと吹き込んできた。
冷たい雨水が、一瞬で雫の髪を濡らし、顔を打ち据え、着古したパーカーをぐっしょりと重たく沈ませていく。
寒い。
息ができない。
全身の震えが止まらなかった。
足の裏の靴下が雨水を吸って重くなり、爪先が氷のように冷たくなっていく。
雫はドアノブから手を離した。
これ以上叩いたところで、あの男が開けるはずがない。警察を呼ぼうにも、電話すらない。近隣の住人に助けを求めようにも、こんな真夜中に、ずぶ濡れで追い出されたみすぼらしい女の姿を晒す勇気など、今の雫には残されていなかった。
(逃げなきゃ……)
どこへ?
分からない。
ただ、この場所から、あの二人が愛を囁き合っている部屋の前から、一秒でも早く消え去りたかった。
雫は手すりにすがりつきながら、狭い外階段を一段ずつ、転げるようにして駆け下りた。
靴下が濡れた鉄のステップで滑り、膝を強く打ち付ける。痛む足を引きずりながら、アパートの敷地を飛び出し、夜の闇へと走り出た。
土砂降りの雨だった。
空は墨を流したように真っ黒で、街灯の光すら雨煙に霞んでいる。
深夜二時。通り過ぎる車の一台もなく、人影も絶えた住宅街の裏路地。
雨水が滝のように側溝へと流れ込み、ゴオゴオと不気味な唸りを上げていた。
ペタペタと、濡れた靴下がアスファルトを叩く情けない音が響く。
小石を踏むたびに足の裏に鋭い痛みが走ったが、心の痛みに比べれば何でもなかった。
どれくらい走っただろうか。
冷たい雨水が肺に入り込み、激しい咳き込みが雫の足を止めた。
喉の奥から鉄の味がする。視界が急速に狭まり、足の力が完全に抜けた。
バシャアンッ――!
水たまりの中に、前のめりに倒れ込んだ。
泥水が顔にかかり、口の中にジャリリとした砂の感触が広がる。
立ち上がろうと腕に力を込めたが、指先が痺れて力が入らない。
三週間の不眠不休。極度の疲労。そして、全身の尊厳を根こそぎ奪い去られた絶望。
雫の身体は、完全に限界を迎えていた。
濡れたアスファルトに額を押し付けたまま、雫は動けなくなった。
雨粒が容赦なく背中を打ち据える。冷たさが骨の髄まで染み渡り、体温を奪っていく。
視界が、雨水と、とめどなく溢れ出す熱い涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「……私の、二十八年間って……なんだったんだろう……」
泥水の中に、呟きが溶けて消える。
何のために、絵を描いてきたのだろう。
何のために、あんな下請け会社で血を吐く思いで働き続けてきたのだろう。
何のために、自分のすべてを後回しにして、秀人に尽くしてきたのだろう。
真面目に生きれば報われると信じていた。
誰かの役に立ちたくて、誰かに認めてほしくて、文句も言わずに努力を重ねてきた。
その結果が、これだ。
手柄はすべて要領のいい後輩に奪われ。
上司からは「華のない産業廃棄物」と罵倒され。
三年尽くした彼氏からは「女として見れないゴミ」と捨てられ。
財布も靴も奪われて、雨の夜の路地裏で泥水を啜っている。
(誰も……私を必要としてない)
母の顔が浮かんだ。美大に行きたいと言った時、反対しながらも学費の工面をしてくれた優しい両親。
こんな惨めな姿、死んでも見せられない。
東京の誰も、雫のことなど見ていなかった。雫がここで凍えて死んだとしても、明日の朝にはくるみが雫のデザインでスポットライトを浴び、秀人は何食わぬ顔で出社するだけだ。
自分の命には、あの二人が履き捨てたピンヒールほどの価値すらない。
悔しかった。
悲しかった。
そして何より、無力な自分が、ただただ惨めで、殺してやりたいほど憎かった。
「……う……ぅあぁぁっ……!」
声にならない慟哭が、激しい雨音にかき消されていく。
泥水に指を突き立て、爪を剥がすようにアスファルトを掻き毟る。
死んでしまいたかった。このまま雨に流されて、朝が来る前に消えてしまいたかった。
その時だった。
雫が倒れ込んでいたのは、路地裏の狭いゴミ捨て場の脇だった。
回収されずに放置された古タイヤや、濡れた段ボールが山積みになっている薄暗い影。
雷鳴が遠くで轟き、街灯の電球がジジッと瞬いた瞬間。
ぬかるんだ泥水の中から、青白い光が漏れ出しているのが見えた。
(……え……?)
涙で霞む瞳を凝らす。
ネオンの反射ではない。車のライトでもない。
まるで深海に沈む発光生物のような、澄み切った、息を呑むほど美しいサファイアブルーの燐光。
それは、激しい雨粒を弾き飛ばしながら、規則的な呼吸のように淡く、青白い光を明滅させていた。
雨水が跳ねるゴミの山の隙間。
泥にまみれたアスファルトの上に、それは落ちていた。
手のひらほどの大きさ。
厚さはわずか数ミリメートル。
現代のどんなスマートフォンよりも遥かに薄く、一枚の磨き抜かれたクリスタルガラスのように透き通った、長方形の板。
水滴がその表面に落ちた瞬間、青い光の波紋がツツツと走り、まるで水そのものを拒絶するように雨水を霧散させていた。
(……なに、これ……?)
恐怖はなかった。
これ以上失うものなど何一つない雫にとって、その怪しくも神聖な光は、地獄の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた。
導かれるように。
泥と血に汚れた雫の右手が、震えながら伸びていく。
冷え切った指先が、その青く光るガラス板の表面へと、そっと触れた。




