第2話:透明人間への宣告
オフィスを満たしていたざわめきが、急速に凍りついていく。
ほんの数秒前までくるみを取り囲み、拍手と歓声を上げていた男性社員たちが、まるで見てはならないものを見たかのように気まずそうに視線を泳がせた。
モニターに映し出された、息を呑むほど美しい『ネクサス・スクエア』のメインビジュアル。
その前で、ボロボロのパーカーを着て立ち尽くす神埼雫と、仕立ての良いパステルピンクのニットを着た早坂くるみの対比は、あまりにも残酷で、滑稽ですらあった。
「……神埼」
沈黙を破ったのは、鳴神の低く濁った声だった。
スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、鳴神はゆっくりと首を傾げる。
その瞳には、手柄を主張されたことへの驚きなど微塵もなかった。ただ、せっかくの祝勝ムードに泥を塗られたことに対する、隠しようもない苛立ちと侮蔑だけが澱のように溜まっている。
「お前、今なんつった?」
「……私の、データです」
雫は渇いた喉から、絞り出すように言葉を重ねた。
指先が冷たく震えている。それでも、ここで引いたら三週間の地獄が、削り落とした自尊心のすべてが、完全に消滅してしまう。
「今朝の午前五時まで、私がレンダリングを回していました。レイヤー構造も、光のシミュレーション数値も、すべての元データは私のパソコンの中に残っています。くるみちゃんが持っているのは、私のUSBから今朝コピーしただけのものです」
社員たちの間に、さざ波のような動揺が走る。
何人かのデザイナーが「あ……そういえば神埼さん、ずっと泊まり込んでたよな……」と小声で囁き合った。
だが、その声はくるみのひと粒の涙によって、一瞬でかき消された。
「ひ、酷いです……雫先輩……っ!」
くるみが両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れたのだ。
「私……先輩がずっとアドバイスをくれて、一緒にブラッシュアップしてくれたから、先輩のことも立てようと思ってたのに……! まさか、全部自分の手柄だったなんて言い出すなんて……! 私が、あのコンセプトを思いついた夜のメモだって、ちゃんと手帳にあるのにぃ……!」
嘘だった。そんな手帳など存在するはずがない。
だが、瞳を潤ませてすがりつくように鳴神を見上げるくるみの姿は、男たちの庇護欲を刺激するには十分すぎる破壊力を持っていた。
「おい、神埼、いい加減にしろよ」「早坂ちゃん泣かすなよ」「先輩のくせに後輩に嫉妬してみっともない……」
先ほどまで同情的な視線を向けていたはずの同僚たちが、掌を返したように冷たい言葉を投げつけてくる。誰も、真実を確かめようとはしない。可愛い後輩が泣いていて、地味で不気味なアラサー女が喚いている――彼らにとって都合が良いのは、どちらの絵面なのか明白だった。
鳴神は大きく舌打ちをすると、顎でオフィスの奥をしゃくった。
「神埼。社長室に来い」
背中に突き刺さる無数の冷笑と嘲笑を浴びながら、雫は重たい足取りで鳴神の後に続いた。
*
バタン、と社長室の重い防音ドアが閉ざされた瞬間、オフィスの喧騒が遮断された。
室内には、安っぽい革張りのソファと、ガラス張りの巨大なデスク。そして、部屋中に染み付いた重苦しい加熱式タバコと脂の混ざった悪臭が充満している。
鳴神はエグゼクティブチェアに深く腰掛けると、手元の灰皿に吸いかけの煙草をぎゅうぎゅうと押し付けた。
ジュッと火が消える嫌な音が、静まり返った部屋に響く。
「……座れとも言ってねえぞ」
立ったまま身を強張らせる雫を見下ろし、鳴神は鼻で笑った。
「お前さあ、空気って言葉知ってるか? せっかく現場の士気が上がってたってのに、何をつまらん自己主張で水を差してんだよ」
「社長、つまらないことじゃありません! あのデザインは私のものです! コンセプトテキストの『冷たいデジタルの底にある、本物の体温』という言葉だって、私が三週間前に書いた企画書の……」
「だから何だってんだよ」
遮られた言葉は、あまりにも冷徹で、あまりにも暴力的だった。
鳴神は机の上に肘をつき、組んだ指の隙間から、虫ケラを見るような目で雫を射抜いた。
「お前が作った? ああ、そうだろうな。お前が三日三晩パソコンに張り付いてたことくらい、俺だって知ってるよ。早坂にあのレベルの3Dが組めるわけねえことも、百も承知だ」
「……え?」
雫の思考が一瞬、停止した。
知っていた?
鳴神は、最初からあのデザインが雫のものであると分かっていて、その上でくるみの手柄として発表したというのか。
「じゃあ、どうして……!」
「お前、自分の顔を鏡で見たことあんのか?」
鳴神の口元が、歪な嘲笑の形に吊り上がった。
「その猫背、ボサボサの髪、ノーメイクのくすんだ肌、サイズの合ってないヨレヨレの服。お前みたいな華のない、暗い女が表に出て、ネクサス社の超エリート役員たちの前でプレゼンできると思ってんのか?」
「そ、それは……デザインの価値とは関係ないはずです! 私はデザイナーであって……!」
「大いに関係あんだよ!」
ダンッ、と鳴神の手のひらがデスクを激しく叩いた。灰皿がガタツキ、灰が机の上に飛び散る。
「クライアントが見たいのはな、『新進気鋭の若くて可愛い女性デザイナーが、感性で作り上げた未来』っていう華やかなストーリーなんだよ! 代理店だって、ネクサスの九重社長だってそうだ。お前みたいな、見るからに搾取されて疲弊しきったおばさん予備軍が出てきてみろ。会社のイメージが地に落ちるだろうが!」
言葉の刃が、容赦なく雫の胸を抉っていく。
おばさん。地味。華のない女。
これまで生きてきて、幾度となく投げつけられ、そのたびに「私には技術があるから」「努力すれば認めてもらえるから」と自分を奮い立たせて押し殺してきた呪いが、最も残酷な形で突きつけられる。
「いいか、神埼。お前の仕事はな、裏で黙って手を動かすことなんだよ。お前が作った泥臭いデータを、早坂くるみという極上のパッケージで包んで納品する。それがうちの会社が生き残るための『最適解』なんだよ。名前を貸してくれたくるみに感謝しろ。あいつが表に立ってくれるからこそ、お前の作ったゴミクズみたいなデータが大金に化けるんだ」
「感謝……? 私が、手柄を盗んだあの子に感謝しろと……?」
「そうだ。嫌なら辞めろ」
鳴神は引き出しから新しい煙草を取り出し、カチリとライターで火をつけた。
紫煙を雫の顔に向けて吹きかけながら、吐き捨てるように告げる。
「代わりはお前以外にいくらでもいるんだよ。美大出のプライドだけ高くて使い勝手のいい作業員なんてな、求人出せば掃いて捨てるほど応募してくるんだ。明日から来なくていいぞ? その代わり、業界に悪評流してお前が二度とデザインの仕事できないようにしてやるけどな」
指先が震え、足の力が抜けそうになる。
悔しい。叫び出したい。この男の顔に、デスクの上の灰皿を投げつけてやりたい。
だが、雫にはそれができなかった。
地方から上京し、美大の奨学金を今も毎月返し続けている。ここで職を失い、業界を干されたら、来月の家賃すら払えない。
生きていくために、屈するしかなかった。
その惨めさが、何よりも雫自身の心を殺していく。
「……分かりました」
「分かればいいんだよ。ほら、今日の夕方までに、ネクサス社から追加で要望のあったバリエーション展開、五パターン作っとけ。早坂はこれからクライアントとの会食だから、修正作業はお前の仕事だ」
鳴神はもう、雫のことなど視界に入れていなかった。
スマートフォンを操作しながら、しっしと手で払うような仕草をする。
雫は深く頭を下げ、逃げるように社長室を飛び出した。
*
オフィスに戻ると、くるみはすでにいなかった。
デスクの上には、「雫先輩へ♡ クライアントから修正指示書置いときますね! よろしくお願いしまーす♪」と書かれた、可愛らしいウサギの付箋が貼られていた。
周囲の社員たちは、誰一人として雫と目を合わせようとしない。
鳴神に何を言われたのか、誰もが察しているはずだった。それでも、関わり合いになりたくないという保身の壁が、雫を完全に孤立させていた。
透明人間。
ここに確かに存在し、呼吸をし、血を流しているのに、誰の目にも映らない亡霊。
(泣いちゃダメだ……。泣いたら、本当にあいつらの思い通りになる……)
奥歯をギリギリと噛み締め、雫は自分のデスクに向かった。
作業用のペンタブレットを握る。手が震えて、最初は真っ直ぐな線すら引けなかった。
それでも、画面に向かわざるを得ない。
指示書に書かれた無茶な修正要望。それを一つひとつ、自らの技術で形にしていく。
皮肉なことに、作業に没頭している瞬間だけが、鳴神の暴言やくるみの嘲笑を忘れられる唯一の時間だった。
午後七時。定時を過ぎ、社員たちが一人、また一人と帰宅していく。
「お疲れー」「神埼さん、鍵閉めよろしくねー」
無責任な挨拶だけを残し、フロアの明かりが次々と消されていく。
午後九時。
午後十一時。
終電の時間を知らせるスマートフォンのアラームが鳴った。
だが、五パターンの最終書き出しはまだ終わっていなかった。
雫は無言でアラームを止めた。
もう、終電なんてどうでもよかった。走って帰る気力すらない。
すべての修正データをサーバーにアップロードし終えた時、時計の針は午前零時四十分を指していた。
日付が変わっていた。
重たい身体を引きずり、オフィスを出る。
雑居ビルのエレベーターを降りると、外は冷たい雨が降り始めていた。傘はない。
濡れたアスファルトが街灯の光を反射して、黒光りしている。
駅前のシャッター街を歩きながら、雫は寒さに肩をすくめた。
冷たい雨粒が頬を打つ。それが雨水なのか、目から零れ落ちた涙なのか、自分でも判別がつかなかった。
(……帰ろう。秀人のところに)
胸の奥に、ぽっと小さな灯りがともる。
設楽秀人。
大学時代に出会い、付き合って三年になる彼氏だ。
中堅の専門商社で営業として働いており、一年前から雫のアパートで半同棲のような生活を送っている。
最近の秀人は、少し冷たかったかもしれない。
仕事で疲れて帰ると、「お前、家でもずっと暗い顔してんなよ」「飯、まだできてないの?」と不機嫌そうに言われることが増えていた。
先月、雫が仕事の悩みを打ち明けた時も、秀人はスマホのゲームから目を離さずにこう言ったのだ。
『お前さ、自分が要領悪いことくらい自覚しろよ。デザインなんて水商売みたいなもんだろ? お前は地味だし、愛嬌もないんだから、会社に使ってもらえるだけでもありがたいと思わなきゃ。俺くらいしか、お前の面倒なんて見てくれないんだからさ』
その言葉は、当時の雫の胸に深く突き刺さった。
けれど、自己肯定感を極限まで削り取られていた雫は、それを「秀人の優しさ」だと曲解してしまっていた。
こんな惨めで、何の手柄も立てられない自分を、それでも見捨てずに一緒にいてくれる。
秀人だけが、この冷たい東京で、自分が帰るべき唯一の居場所なのだと。
(秀人、起きてるかな……。今日あったこと、聞いてもらおう。抱きしめてもらえたら、きっと全部忘れられる)
駅前の二十四時間営業のスーパーに立ち寄る。
傘のない雫の服からは水滴が滴っていたが、気にする余裕はなかった。
酒のコーナーへ向かい、普段の節約生活なら絶対に買わない、一本三百五十円のプレミアムクラフトビールを二本、カゴに入れた。
秀人の大好物だ。
「秀人、これ好きだったよね」と言えば、きっと少しだけ機嫌を直して、笑ってくれるはず。
レジ袋を胸に抱え、雫は早足でアパートへの道を急いだ。
ふと、コートのポケットに手を入れる。
そこには、小さな銀色の鍵が入っていた。
先週、秀人が「仕事帰りに飲んでたら合鍵なくしちゃったみたいでさ。お前、スペア持ってんだろ? ちょうだいよ」と言っていたのを思い出し、今朝の出勤前に合鍵屋で作ってきた新しいスペアキーだった。
「はい、秀人の分の合鍵。もうなくしちゃダメだよ」
そう言って手渡す光景を想像する。
くだらない日常。ささやかな幸せ。
世界中のすべてから否定されても、あの部屋のドアを開ければ、自分を受け入れてくれる人がいる。
それだけを命綱にして、雫は凍える足に力を込めた。
アパートは、駅から徒歩十五分の古い木造物件だった。
狭い外階段を、一段ずつ上っていく。
二階の角部屋。二〇三号室。
見上げると、すりガラスの窓から、オレンジ色の部屋の明かりが漏れていた。
(あ……起きてる)
安堵の息が、白い霧となって口から零れ落ちた。
テレビがついているのだろうか、微かに低い音が外まで漏れ聞こえてくる。
雫は濡れた前髪を手で払い、できるだけ明るい笑顔を作ろうと口角を上げた。疲れた顔を見せたら、また秀人に怒られてしまう。
「秀人、ただいま。遅くなっちゃってごめんね、ビール買って……」
合鍵を鍵穴に差し込もうとした、その時だった。
カチャリ、と微かな金属音がして、鍵がかかっていないことに気づく。
「……あれ?」
秀人はいつも不用心だ。鍵を閉め忘れることがよくある。
雫は小さく苦笑し、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと、軋むドアを内側へと押し開ける。
生温かい室内の空気が、雨で冷え切った雫の頬を撫でた。
その空気の中に混ざっていた異物に、雫の鼻腔がピクリと反応した。
――バニラの香り。
男の一人暮らしに近いこの部屋には、絶対に漂うはずのない、甘ったるくて、濃厚な、香水の匂い。
それは、今朝オフィスで嫌というほど嗅がされた、あの女の匂いだった。
「……え?」
息が止まった。
視線が、自然とタタキの土間へと落ちる。
そこには、見慣れた秀人の黒い革靴が、だらしなく脱ぎ捨てられていた。
そして、そのすぐ隣に。
雨に濡れた雫のスニーカーの目の前に、まるでこれ見よがしに寄り添うようにして並べられていたのは。
細いストラップのついた、パステルピンクのエナメルピンヒールだった。
靴底には、今朝オフィスで見かけたのと同じ、あの海外高級メゾンのロゴが、玄関の薄暗い電球の光を浴びて、妖しく輝いていた。




