第1話:徹夜の抜け殻と、横取りされた光彩
午前三時十七分。
換気扇がカタカタと乾いた異音を立てるオフィスには、パソコンの空冷ファンが唸る重苦しい音だけが淀んでいた。
蛍光灯の光は青白く、まるで水底に沈んだ部屋のようだ。点滅を繰り返す天井のチューブライトが、床に散らばった丸めたコピー用紙や、コンビニの茶色い紙袋を無機質に照らしている。
デスクの隅に積み上げられたエナジードリンクの空き缶は、すでに六本を超えていた。
そのうちの一本を指先で弾くと、カランと軽薄な音が鳴って床へと転がり落ちる。拾う気力すら湧かない。
神埼雫は、ひび割れそうに乾いた唇を舌先で湿らせると、引き出しの奥から取り出したカフェイン錠剤を二粒、手のひらに放り出した。炭酸の抜けた甘ったるい液体で無理やり喉の奥へと流し込む。胃の腑がきゅっと縮み上がり、焦げ付くような鈍い痛みが走った。
「……あと、四パーセント」
かすれきった声が、乾いた喉から漏れ出る。
デュアルモニターの右側、黒い背景の上に伸びるレンダリングの進行バーが、ミリ単位で右へと這っていた。
3Dグラフィックの演算処理。光の屈折率、テクスチャの陰影、群衆モデルのモーションブラー。画面の隅に表示された時計を見る。午前三時二十五分。
これが終われば、すべての作業が完了する。
大手広告代理店『電通創研』の一次下請けである、ここ『アーク・クリエイティブ』に中途採用で入社して三年。
雫が任されたのは、日本を代表する巨大ITコングロマリット『ネクサス・ホールディングス』が社運を懸けて建設を進めている、次世代型複合商業施設「ネクサス・スクエア」のメインビジュアル開発だった。
下請けのデザイン事務所に回ってくる案件など、本来は元請けの代理店が決めた大枠のレイアウトに、素材を切り貼りするだけの単調な作業が関の山だ。
だが今回は違った。ネクサス社側からの「既存の広告屋が作るような退屈な商業主義を打破しろ」という無茶振りに対し、元請けの敏腕プロデューサーたちすら匙を投げ、現場の末端であるアーク・クリエイティブに丸投げされてきたのだ。
納期は三週間。
「お前、美大で油絵とグラフィックやってたんだろ? 徹夜すりゃ間に合うだろ」
社長の鳴神崇にそう言われて背中を蹴り飛ばされてから、雫の記憶はほとんど白黒だった。
三週間、ほぼ不眠不休。
アパートに帰ったのは着替えを取りに戻った二回だけ。食事はゼリー飲料と冷めたおにぎり。オフィスの片隅にある仮眠用ソファで、泥のように一時間だけ意識を失っては、スマートフォンの無機質なアラームに心臓を抉られるようにして跳ね起きる日々。
ふと、キーボードの上に置いた自分の両手に視線を落とす。
かつて絵の具を握り、繊細なグラデーションを生み出していた指先は、ひどく荒れ果てていた。爪の生え際はささくれ立ち、連日のマウス操作で右手首の腱鞘炎は限界を迎えている。
モニターの黒い画面に反射して映る自分の顔は、見るに堪えないものだった。
目の下には墨汁を刷いたような濃い青隈。頬は不健康にこけ、油分を失った髪は後ろで適当なゴムでひっつめられている。肌は徹夜続きのせいで赤黒く荒れ、毛穴が開ききっていた。
(……ひどい顔。二十八歳って、こんなんだっけ)
胸の奥がちくりと痛む。
学生時代の友人は、今頃結婚して家庭を持ったり、大手のアパレルやメーカーでキラキラとしたキャリアを築いている。それに引き換え、自分は深夜の薄暗い雑居ビルで、安月給に命を削りながら画面を見つめているだけだ。
けれど。
進行バーが『100%』に達し、画面に完成した高解像度のメインビジュアルが広がった瞬間、雫の胸の奥で、小さく火が灯った。
「……できた」
息を呑むような美しさだった。
そびえ立つネクサス・スクエアの近未来的なガラス建築。そこに夕暮れの柔らかな茜色と、街を歩く人々の体温を感じさせる温かな光のグラデーションが溶け合っている。
ただ無機質なテクノロジーを誇示するのではなく、そこに人が集い、息づくための場所。冷徹なスクリーンの向こう側に、確かに息づく人間の温もり。
色彩のバランスをコンマ数ミリ、彩度をわずか一パーセント単位で調整し直し、数百枚のスケッチを重ねてようやく辿り着いた、雫にしか描けない「光」の表現だった。
これなら、勝てる。
ネクサス社の目の肥えた役員たちだって、絶対に足を止めてくれるはずだ。
これだけのものを作り上げたのだ。いくら実績横取り体質のアーク・クリエイティブであっても、この案件ばかりは、自分がメインデザイナーとしてプレゼンに同席できるはず。
自分の名前が、初めて世に出るかもしれない。
疲労困憊の身体に、わずかな達成感という名の麻酔が回っていく。
雫は震える指先でデータを社内共有サーバーと、自前の予備USBメモリへと保存した。
時計の針は午前五時を回っていた。
東の空が白み始め、窓ガラスがうっすらと朝焼けの群青に染まっていく。
「……一時間だけ、横になろう」
限界だった。まぶたが鉛のように重い。
雫はふらつく足取りで、オフィス奥の給湯室の隣にある、埃っぽい仮眠スペースへと倒れ込んだ。薄汚れた合皮のソファに身を沈めた瞬間、意識は深い闇の中へと引きずり込まれていった。
*
甘ったるいバニラの香水の匂いと、高いヒールの乾いた足音で目が覚めた。
「――わあ、すごーい! これ、もうレンダリング終わってるじゃないですかぁ!」
鈴を転がすような、わざとらしいほど甲高い声。
雫は重たい頭を必死に持ち上げた。首の骨がギシギシと悲鳴を上げる。
仮眠室のカーテンの隙間からオフィスを覗くと、いつの間にかフロアの蛍光灯はすべて点灯し、朝の光が差し込んでいた。時計は午前九時を回っている。
雫のデスクの前に立っていたのは、後輩の早坂くるみ(24歳)だった。
ふんわりと巻かれた明るいブラウンの髪に、パステルピンクのブランド物のニット。手元には、二十代前半の安月給では到底買えないはずの、海外高級メゾンの新作トートバッグが揺れている。
完璧なフルメイクを施した顔には、毛穴一つないツヤ肌と、男受けを徹底的に計算したうるうるの涙袋。
「あ、雫先輩! 起きちゃいましたぁ?」
雫がよろよろと仮眠室から出てくると、くるみは悪びれもせず、花が咲くような満面の笑みを向けた。手元には、雫のPCに挿さっていたはずのUSBメモリが握られている。
「……くるみちゃん? 私のパソコン、触ったの?」
「もう、人聞きが悪いですよぉ! 先輩があまりにも死体みたいに寝てたから、親切で最終チェックをしてあげようと思ったんじゃないですかぁ。ほら、今日の午前中、鳴神社長がネクサス社に事前提出するっておっしゃってたでしょ?」
くるみは小さく肩をすくめ、長いまつ毛をパチパチと瞬かせた。
その仕草のすべてが、オフィスにいる男性社員たちの視線を惹きつけていることを、彼女自身が誰よりも熟知している。
「あ……うん。データなら、今朝の五時にサーバーのコンペフォルダに格納しておいたから。メインビジュアルのレイアウトと、プレゼン用のスライド構成書も……」
「はーい、確認しておきまーす! 先輩、ほんっと顔色ヤバいですよ? 目の下のクマ、コンシーラーでも隠せないレベルですってぇ。鏡見ました? お肌ボロボロで可哀想……女捨てすぎですよぉ」
クスリと口元を隠して笑うくるみ。
その言葉の端々に滲む、悪意というよりは純粋な見下しに、雫の胸がきしりと軋んだ。
だが、今の雫にはそれに言い返すだけの気力すら残っていなかった。全身の筋肉が強張り、頭痛が側頭部を締め付けている。
「……ごめん。顔、洗ってくる」
「はぁい、いってらっしゃーい!」
くるみは屈託のない笑顔で手を振ると、雫のUSBメモリを自分のノートパソコンへと差し込み、軽やかにキーボードを叩き始めた。
給湯室の洗面台で、雫は冷たい水で何度も顔を洗った。
鏡を見つめる。くるみの言った通りだ。
そこに映っているのは、生気のない、疲れ果てた惨めなアラサー女の顔。
美大を出て、東京のデザイン業界に飛び込んだ頃は、もっと目が輝いていたはずだった。自分のデザインで、誰かの心を動かしたい。世界を少しでも美しく、鮮やかに変えたい。そんな夢を抱いていた。
それが、いつの間にか下請けの理不尽な搾取構造に絡め取られ、手柄は上流に吸い上げられ、ただ納期に追われるだけの「作業マシーン」に成り果てていた。
(でも……今回は違う。あのビジュアルは、私の最高傑作だ)
冷たい水で肌を引き締め、ペーパータオルで顔を拭う。
鳴神社長だって、あのクオリティを見れば納得するはずだ。プレゼンには自分を同席させざるを得ないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、少しだけ背筋を伸ばしてオフィスフロアへと戻った。
その瞬間だった。
パチパチパチパチ――ッ!
オフィスの中央から、突如として割れんばかりの拍手が湧き起こった。
「すげえよ早坂!」「さすがうちの看板娘だな!」「これならネクサスの九重社長も文句言えねえだろ!」
男性社員たちの称賛の声と、歓声。
雫は足を止めた。心臓が、嫌なリズムでドクンと跳ね上がる。
人だかりの中心にいたのは、社長の鳴神崇だった。
仕立ての崩れた高価なスーツに身を包み、脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべた鳴神が、くるみの華奢な肩をこれ見よがしに抱き寄せている。
「いやあ、大したもんだぞ早坂! お前、いつの間にこんなハイセンスなものを作れるようになったんだ? 今までのうちの泥臭いデザインとはまるで違う。これなら、あの冷徹で有名な九重怜央も一目置くに違いない!」
「えへへ、もう鳴神社長ったら褒めすぎですぅ〜! 私、今回のネクサス・スクエアのコンセプトを何日も徹夜で考えてぇ……どうしても『冷たいデジタルの底にある、本物の人の体温』を表現したかったんですぅ」
くるみは両手を頬に当て、恥ずかしそうに身をよじらせていた。
その姿を囲む社員たちが、口々に持て囃す。
「徹夜したのか? 肌全然荒れてないじゃん、さすがだな」「要領がいい奴は仕事のセンスも違うな」「プレゼンはお前がメインで話せよ、九重社長も若い美人の方が話を聞くだろうしな!」
雫の視界が、急速に色を失っていった。
鳴神のデスクに置かれた五十インチの大型プレゼンモニター。
そこに大写しになっていたのは――。
今朝の午前五時、雫が血を吐くような思いでレンダリングを完了させた、あの茜色と群青のグラデーションが広がる「ネクサス・スクエア」のメインビジュアルだった。
構図も、色彩も、光の粒子一つに至るまで、雫が命を削って作り上げたデータそのもの。
だが、その右下に、明朝体のフォントで誇らしげに刻まれたクレジットの文字が、雫の網膜を焼き焦がした。
『Lead Designer: Kurumi Hayasaka / Ark Creative』
(……え?)
息ができなかった。
肺の中の空気が、すべて氷の塊に変わったかのように喉が張り付く。
くるみが、何日も徹夜で考えた?
冷たいデジタルの底にある、本物の体温?
それは、雫が企画書のスライドの冒頭に、自分の言葉として書き記したコンセプトテキストそのものだった。
足元が崩れ落ちていくような強烈な浮遊感。
三週間の不眠不休。
擦り切れた指先。
エナジードリンクで荒れ果てた胃の痛み。
すべてを犠牲にして、ただ「良いものを作りたい」と願い続けた時間。
そのすべてが、たった今、目の前で、他人の手柄として綺麗に包装され、リボンをかけられて消費されていた。
くるみが、人垣の隙間からこちらを見つめた。
一瞬だけ、その完璧な笑顔の裏で、嘲笑うように細められた瞳。
『文句あるなら言ってみなさいよ』とでも言いたげな、勝ち誇った視線。
許せない。
悔しいとか、悲しいとか、そんな生ぬるい感情ではなかった。
自分の魂を、生きたまま切り刻まれて奪われたような、底知れぬ怒りが足の先から全身を駆け巡った。
雫は震える拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
一歩、また一歩と、歓声に沸く人だかりへと踏み出した。
床を蹴るスニーカーの音が、やけにオフィスに響く。
「……社長」
震える声だった。
けれど、それは確かにオフィスの中央へと届いた。
社員たちの歓声が、ふっと途切れる。
鳴神が煙草の煙を吐き出しながら、不快そうに眉をひそめて振り返った。
その横で、くるみがわざとらしく怯えたように、鳴神のスーツの裾をきゅっと掴む。
雫は、大写しになったモニターのビジュアルを指差した。
声の震えを止めることはできなかったが、瞳だけは逸らさなかった。
「……それ、私のデータです。私が、今朝までかけて作ったものです」
静まり返ったオフィスに、冷え切った沈黙が落ちた。
鳴神の細い目が、値踏みするように、そして底冷えのするような冷酷な光を帯びて、雫の全身を上から下へと舐め回した。




