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第4話:起動するオーパーツ【AURA】

泥水に浸かった指先が、その滑らかな表面に触れた瞬間――。


ジュッ、と微かな水蒸気が立ち上るような気配がした。

凍え切っていた雫の指先に伝わってきたのは、濡れたアスファルトの冷たさではなかった。まるで生きている人間の肌に触れたかのような、かすかで、けれど芯のある、じんわりとした温もり。


(……温かい……?)


泥水と油膜で汚れていたはずのガラス板は、雫の指が触れた途端、まるで自浄作用を持つかのように表面の汚れを弾き飛ばした。

水滴が細かな粒となってツツツと四方へ走り、跡形もなく消え失せる。

そこに現れたのは、現代のどんな工業製品にも存在しない、息を呑むほど完璧な透明度を誇る一枚の薄板だった。


厚さは、クレジットカードを二、三枚重ねた程度。

縁には一切の継ぎ目がなく、超伝導ガラスとしか思えない無機質な美しさを湛えている。

そして、雫の指紋がその中心に重なった刹那。


ピシリ――。


青白い光の亀裂が走るようなエフェクトと共に、ガラスの内部から複雑極まりない幾何学模様が浮かび上がった。

細い光の糸が、網の目のように、樹木の根のように、フラクタル構造を描いて全面へと急速に枝分かれしていく。それはまるで、眠っていた神経回路に命が吹き込まれていくかのようだった。


『――生体波長一致。DNA照合、マスタープロファイルを同期します』


頭蓋骨の奥に、直接響いた。

耳から入ってくる空気の振動ではない。脳の感覚野を直接指先で撫でられたような、澄み切った、性別すら曖昧な透明感のある声。


『バイタルサイン:極度の体温低下、低血糖、重度のストレスホルモン過多、末梢神経の痙攣を検知。緊急コンディショニング・プロトコルを承認。……ようこそ、神埼雫様。AURA(オーラ)システム、起動します』


「ひっ……!?」


雫は悲鳴を上げて手を引っ込めようとした。

得体の知れないテクノロジーへの本能的な恐怖。だが、指先がガラス板から離れない。磁石のように吸い付いているのではない。微細な光の粒子が、雫の指先の毛細血管を通じて、皮膚の内側へと溶け込むように浸透してきていたのだ。


手首から前腕、肘、そして肩へ。

まるで温かい白ワインを血管に直接注ぎ込まれたかのような、甘美で心地よい痺れが全身を駆け巡った。

激しい雨に打たれてガチガチと鳴っていた奥歯の震えが、急速に収まっていく。

心臓の鼓動が一定のリズムを取り戻し、鉛のように重かった四肢に、ふわりとした軽やかさが戻ってくる。


(な、なに……これ……夢……? 私、死んじゃうの……?)


混乱する思考のまま、雫は恐る恐るそのガラス板を持ち上げた。

重さはほとんど感じられない。持っていることすら忘れてしまいそうなほど、羽のように軽い。

その画面――透明なガラスの向こう側に、淡いサファイアブルーの文字が、宙に浮遊するように明滅していた。


【AURA ver.9.44 / Quantum Personal Assistant】

【マスター登録完了:神埼 雫(28歳)】

【現在のエネルギー残量:12%(セーフモード稼働中)】

【周囲環境:豪雨 / 湿度98% / 外気温8.2℃――速やかな屋内退避を強く推奨します】


機械の文字が、まるで意思を持っているかのように雫の網膜へ飛び込んでくる。

ヒュウゥッと冷たい夜風が路地裏を吹き抜け、電柱の街灯がパチパチと瞬いた。

我に返った雫は、濡れた靴下履きの足でよろりと立ち上がった。

足裏の痛みが、先ほどより明らかに和らいでいる。


どこかへ逃げなければ。

部屋には戻れない。身元を証明するものも、財布も何もない。

視線を巡らせると、路地裏の先、古びた酒屋の角を曲がったところに、煌々と白い蛍光灯を灯らせている小さな建物が目に入った。


無人の二十四時間営業コインランドリー。


雫は胸元にその不思議なガラス板を抱きしめ、泥水を跳ね上げながら走った。

靴下の底が破れそうだったが、身体の芯に灯った謎の熱源が、凍える足元を力強く前へと押し出してくれた。


*

カランコロン、と昭和の面影を残す引き戸を開けると、ランドリー特有の温い空気と、柔軟剤の甘い匂いが雫を包み込んだ。

大型の洗濯乾燥機が二台、ゴトゴトと低い唸りを上げて回っている。

客は誰もいなかった。真夜中の午前二時半。監視カメラが天井の隅で赤いランプを瞬かせているだけの、世界から切り離されたような四角い空間。


「はぁっ……はぁっ……!」


自動ドアの前にへたり込み、雫は荒い息を吐いた。

ガラス張りの外壁を、激しい雨粒が滝のように叩きつけている。

手元を見下ろす。

青い光を宿したガラス板――【AURA】は、静かに雫の掌の中で息づいていた。


『安全な空間を確保。マスターの生体コンディショニングを継続します』


再び、頭の芯に直接響く澄んだ声。

その瞬間、雫の手首から、目に見えないほど微細な波紋が全身へ向けて放たれた。


「え……?」


雫は自分の着ている服を見下ろし、目を疑った。

土砂降りの雨に打たれ、泥水を吸って鉛のように重く垂れ下がっていたパーカーとスラックス。

その布地から、シューッという微かな音と共に、白い湯気が立ち上っていたのだ。

繊維の隙間に染み込んでいた水分が、目に見えないナノ振動によって瞬時に分子レベルで分解され、霧散していく。

わずか数十秒の間に、湿って肌にへばりついていた不快な冷たさが完全に消え失せ、まるで乾燥機から出したばかりの陽だまりのような温かさが服全体に蘇った。

泥の染みすら、撥水膜によってポロポロと乾いた粉となって床に落ちていく。


「嘘……服が、乾いてる……?」


自分の手でパーカーの胸元を触る。

温かい。ふわふわとしている。

先ほどまで泥水を啜っていたはずの自分が、まるで高級ホテルのラウンジにいるかのように清潔な衣類に包まれている。


だが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。


『外部乾燥プロセス完了。続いて、表皮細胞の急速修復パルスを照射します。所要時間:百八十秒。微弱な痒みを伴いますが、生体に害はありません』


チリチリ、と顔の皮膚がくすぐったいような刺激に包まれた。

三週間の不眠不休。

エナジードリンクとカフェイン錠剤でボロボロに荒れ果て、赤く鬱血していた頬。

マウスダコと乾燥でささくれ立っていた両手の指先。

冷たい雨水でふやけ、小石で擦り傷だらけになっていた足の裏。

そのすべてに、柔らかな光の針が刺し込まれるような感覚が走る。


細胞が、急速に水分を吸い上げ、結合を再構築していく。

荒れ狂っていた肌の炎症が、さざ波が引くように鎮静化していくのが、触れずとも分かった。

喉の奥の焦げるような渇きが潤い、視界を覆っていた疲労の霞が、まるで磨き抜かれたレンズを取り替えたかのようにクリアになっていく。


雫は弾かれたように立ち上がり、ランドリーの奥に設置された姿見の鏡の前へと駆け寄った。

洗剤の自販機の隣にある、細長い全身鏡。

そこに映っていたのは――。


「……これ、私……?」


雫は両手で自分の頬を包み込み、息を呑んだ。


鏡の中にいたのは、さっきまでアパートの玄関で秀人に「女として終わってる」「産業廃棄物」となじられ、くるみに嘲笑われていた、あの惨めな泥沼OLではなかった。


赤黒くくすんでいた肌は、内側から発光しているかのような、透明感に満ちた滑らかな陶器肌へと生まれ変わっていた。

毛穴の一つも見当たらない。

ファンデーションを何層も塗り重ねたような不自然な白さではない。生まれたての赤ん坊のようにみずみずしく、血色の良い桜色が頬の奥にほんのりと差している。

連日の徹夜で墨汁を刷いたように濃く張り付いていた目の下の隈は、完全に消え失せていた。

充血して濁っていた白目は澄み切った青みを帯び、黒目は濡れた黒曜石のように深く光を反射している。

ガサガサにひび割れていた唇は、リップクリームを塗ったかのようにふっくらと潤い、自然な朱色を取り戻していた。


さらに、油分を失ってボサボサに広がっていた髪すらも、一本一本がキューティクルを取り戻し、街灯の光を吸い込んで艶やかな天使の輪を浮かび上がらせていた。


「すごい……肌が……痛くない……」


指先でそっと頬をなでる。

吸い付くような、絹の手触り。

自分の肌が、こんな感触を持っていたことなど、十代の頃ですら一度もなかった。

鳴神から「お前みたいな華のない女」と罵倒され、秀人から「抱く気も起きない」と捨てられた、その原因だと信じ込まされていた自分の外見が、たった数分で、跡形もなく書き換えられていた。


ポロリと、雫の瞳から涙が零れ落ちた。

今度は、絶望の涙ではない。

傷だらけにされ、踏みにじられた自分の尊厳が、肉体の底からそっと救い上げられたような、震えるほどの安堵の涙だった。


『生体基本修復完了。マスターのバイタル、正常値へ回復』


手元のAURAが、控えめにピロンと電子音を鳴らした。

画面を覗き込むと、雫の全身をスキャンしたワイヤーフレームの3Dモデルが、青い光で滑らかに回転していた。


「あなた……一体、なんなの? どうして、こんなことができるの……?」


思わず、独り言のようにガラス板へ問いかけていた。

返事など期待していなかった。だが、AURAは即座に、頭の中へと滑らかな音声を返してきた。


『本端末は、西暦2099年・ネクサス・クアンタム社製。ナノマシン連携型パーソナル・アシスタント【AURA】試作零号機です。特異点発生に伴う時空転移により、現在座標――西暦現代への漂着を確認。マスター・神埼雫様の生体波長を受信し、初期化プロトコルを実行しました』


「にせ……きゅうじゅうきゅうねん……?」


荒唐無稽な言葉に、雫の頭がクラクラとする。

未来。七十年以上も先の未来の機械。

普段の雫なら、そんなSF映画のような話を信じるはずがなかった。

だが、現実に自分の服は一瞬で乾き、ボロボロだった肌は陶器のように修復され、頭の中に直接声が届いている。これを現代の技術だと信じる方が、遥かに無理があった。


『警告:現在のバッテリー残量は11.8%です。本端末の主動力源は【他者から向けられる純粋な感謝・賞賛の念(ポジティブ感情値)】です。現在、周囲に有効な感情放射源が存在しないため、自然放電による完全休眠まで残り約72時間と試算されます』


「感謝……? 賞賛が、エネルギー……?」

『肯定。なお、他者を害する目的、欺瞞、悪意に基づく行動に本端末の予測演算を使用した場合、安全機構(リミッター)が作動し、即座にエネルギー回路が遮断・永久停止します』


悪意ある使い方をすれば、動かなくなる。

他者からの純粋な賞賛によってのみ、動き続ける。

あまりにも厳格で、あまりにも美しい制約だった。


雫は、ぎゅっとガラス板を胸に抱きしめた。

これは、ただの都合のいい魔法の道具ではないのだ。

人を蹴落とすための武器ではなく、自分自身が誰かに認められ、感謝されることでしか輝けない――まるで、雫がずっと目指し、けれど報われずに泥を塗られてきた「ものづくり」の信念そのもののような端末。


手元のAURAの画面が、ふっと切り替わった。

雫の顔写真を多角形メッシュで解析したグラフィックが展開される。


【マスター・プロファイル解析:神埼 雫】

【骨格タイプ:ソフト・ウェーブ(華奢な鎖骨と曲線的なウエストラインを保有)】

【パーソナルカラー:クリア・ウィンター(青みを帯びた高彩度・低明度の色彩と極上の親和性)】

【潜在的美的ポテンシャル:上位0.04%】


「え……? じょ、上位……?」

『マスターはこれまで、不適切な姿勢、疲労による表情筋の硬直、および自己肯定感の欠如による自己隠蔽的スタイリングにより、本来の生体ポテンシャルを約78%損失していました』


AURAの声は淡々としていたが、それは雫が二十八年間抱えてきたコンプレックスの根底を、根こそぎ覆す宣告だった。

地味だから。華がないから。

そう言って自分を閉じ込め、俯いて生きてきた。鳴神の言葉を、秀人の侮蔑を、自分が悪いのだと受け入れてしまっていた。

けれど、この未来の機械は告げている。

お前は、醜くなどない。ただ、自分を輝かせる方法を知らなかっただけなのだと。


ツン、と鼻の奥がツンと痛む。

悔しさが、今度は別の熱となって胸の奥で爆発した。


(私を……あんな風に踏みにじった奴らを、許さない)


手柄を奪い、陰で嘲笑っていたくるみ。

雫を都合のいい作業機械として搾取し、ゴミのように切り捨てた鳴神。

雫の尊厳を踏みにじり、浮気相手と共謀して雨の夜に放り出した秀人。


泣き寝入りなんて、絶対にしてやらない。

死んでやるものか。消えてやるものか。

あいつらが見下した「神埼雫」という人間が、どれほどの光を持っているのか、その目に焼き付けてやる。


雫の瞳に、宿ったことのない強い意志の光が灯った。

その感情の高まりに共鳴するように、AURAのガラス面がカッと青い光を強める。


チリン、と鈴を振るような電子音が鳴り響いた。

ランドリーの鏡を見つめる雫の視界――その網膜の表面に直接、現実の風景に重なるようにして、鮮やかなサファイアブルーのシステムウィンドウがポップアップした。


【AURA:パーソナル・アップデート・シーケンス】

【フェーズ1:自己認識の再定義を完了】

【推奨アクション:表情筋の最適稼働角、および骨格プロファイルに基づく完全黄金比スタイリングを開始します】


視界の端に、雫の顔の輪郭をなぞる無数の赤いガイドラインと、ミリ単位の補正指示が、ARホログラムのように美しく展開され始めた。

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