第二話裏視点
<宿屋の娘 ミア>
その日は朝から雪だった。
昼を過ぎると、酷い吹雪になってきた。
窓の外は真っ白で、街道なんてもう見えない。
私は窓の外を眺めながら小さく息を吐いた。
こんな日に外を歩く人なんていない。
そう思っていた。
「ミア」
母さんに呼ばれる。
「薪を持ってきておくれ」
「はーい」
私は暖炉の横へ薪を積んだ。
外は寒い。
客も少ない。
退屈な一日になりそうだった。
その時、扉を叩く音が聞こえた。
「誰だ」
父さんが声を上げる。
私は思わず振り返った。
こんな吹雪の中を歩いてきた人がいる。
大丈夫だろうか。
「あの、旅人です」
柔らかい声だった。
「フィリアといいます」
父が扉を開ける。
吹雪が一気に入り込んできた。
その向こうに、一人の少女が立っていた。
私と同じくらいの歳だろうか。
少し痩せているようにも見える。
頭にも肩にも雪が積もっていた。
疲れているはずなのに、寒いはずなのに、不思議と慌てた様子はなかった。
「吹雪で道に迷いました」
彼女が頭を下げて言う。
「一晩だけ泊めていただけませんか」
それが、私とフィリアの最初の出会いだった。
フィリアは、父さんが言うには手持ちが少ないらしい。
父さんはいつも通り宿泊代の話をした。
私は少し呆れていた。
こんな吹雪の日くらい、無賃で泊めてあげればいいのにと思ったからだ。
だいたい、この宿へ来た時点で追い返すつもりなんてないのだ。
それくらい知っている。
結局、フィリアは宿で働くことになった。
そして、驚くほど仕事ができなかった。
初日に皿洗いをしながら、皿を割る。
二日目に掃除をしながら、バケツの水をこぼす。
三日目には雪かきをしながら、雪へ埋まる。
さすがに笑ってしまった。
それなのに、本人は大真面目なのだ。
「すみません……」
本気で落ち込んでいる。
だから余計に面白い。
接客もひどかった。
「姉ちゃん! エール!」
と言われて、スープを持っていった。
あの時の店内の空気は忘れられない。
旅人たちは笑うし、父さんは頭を抱えるし。
本人だけが状況を理解していなかった。
それでも、誰も怒らなかった。
なんだか放っておけない人だったから。
五日目。
私は洗濯物を畳みながら聞いた。
「旅って楽しい?」
フィリアは少し考えた。
「楽しいこともあります」
寂しいかも聞いてみた。
そして少しして。
「寂しいこともあります」
とも言った。
その顔を見て。
私は少しだけ気になった。
旅の話をしない。
家族の話をしない。
過去の話もしない。
それなのに。
嘘をついているようには見えない。
だから聞いてみた。
「帰る場所はないの?」
フィリアは少し考えた。
それから困ったように笑った。
「よく、わかりません」
その言葉が妙に頭へ残った。
分からないなんてあるのだろうか。
私は帰る場所を知っている。
この宿だ。
父さんと母さんがいて、大きな暖炉があって、帰れば安心できる場所。
でも、フィリアにはそれがないらしかった。
寂しそうだと思った。
その日の夜、皆で暖炉を囲んだ。
旅人たちが酒を飲む。
父さんが笑う。
母さんが怒る。
ルドルフお爺ちゃんが同じ話をする。
フィリアも笑っていた。
嬉しそうだった。
でも、どこか遠くへ行ってしまいそうだった。
だから私は、吹雪が終わらなければいいのにと思った。
そうしたら、もう少しだけ話ができたから。
六日目。
煙突が詰まった。
宿中で大騒ぎになった。
父さんは屋根へ登る。
旅人たちは梯子を支える。
母さんはお湯を沸かす。
私はランタンを持つ。
フィリアは道具を渡していた。
不思議だった。
誰か一人が何かをしているんじゃない。
みんなで宿を守っているみたいだった。
やがて煙突が直って、歓声が上がる。
その中でフィリアが笑っていた。
本当に嬉しそうだった。
まるで、昔からこの宿の家族だったみたいに。
そして七日目。
吹雪は終わった。
彼女が出ていく日となった。
荷物をまとめたフィリアは突然言った。
「あの」
皆が振り返る。
「お名前を聞いてもいいですか?」
私は思わず吹き出した。
今さら?
一週間も一緒にいたのに?
でも、すごくフィリアらしいとも思った。
父さんが名前を教える。
母さんも名乗る。
私も名乗った。
するとフィリアは慌てて手帳を取り出した。
宝物みたいに。
大事そうに。
私たちの名前を書いていた。
その姿が少し嬉しかった。
私たちのことを覚えておこうとしてくれている。
そんな気がしたから。
やがて本当に別れの時間が来る。
「気を付けて」
私はそう言った。
本当は他にも言いたいことがあった。
また来てとか。
寂しくなるとか。
もう少し話したかったとか。
でも結局、何も言えなかった。
フィリアはきっと困ったように笑う気がしたから。
フィリアは微笑む。
「はい」
いつもの笑顔だった。
そして歩いていく。
雪道の向こうへ。
一度も振り返らずに。
不思議だった。
普通なら少しくらい振り返ると思っていた。
でもフィリアは、ずっと前だけを見て歩いていた。
まるで、立ち止まったらいけないみたいに。
振り返るのが怖いみたいに。
姿が小さくなる。
やがて見えなくなる。
私はしばらくその方向を眺めていた。
「寂しいか?」
いつの間にか父さんが隣に立っていた。
「別に」
そう答える。
父さんは笑った。
「そうか」
絶対信じていない顔だった。
私は空を見上げる。
綺麗な青空だった。
雨なんて降ってきそうもないのに、少しだけ湿っぽく感じた。
また来るだろうか。
分からない。
でも、また来てほしいと思った。
今度はもっと話してみたい。
旅のこと。
家族のこと。
帰る場所のこと。
そんなことを考えながら。
もう姿は見えないのに、私はしばらく雪道の先を見つめていた。
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<宿屋の夫婦 ガストンとエリーゼ>
フィリアが出て行った、その日の夜。
吹雪はもう止んでいる。
暖炉の火だけが静かに揺れていた。
宿の片付けも終わり。
客たちもそれぞれの部屋へ戻り、ほかにも吹雪が止んで移動した客も多かった。
エリーゼは食器を拭きながら、ふと呟いた。
「行っちゃったねぇ」
ガストンは暖炉へ薪をくべる。
「そうだな」
短い返事だった。
けれども、彼も少し寂しそうだった。
長年連れ添った妻には分かる。
「珍しいね」
「何がだ」
「そんな顔するなんて」
ガストンは眉をひそめた。
「どんな顔だ」
「娘が嫁に行った親みたいな顔」
「馬鹿言え」
即座に否定する。
だがエリーゼは笑った。
図星だったときの反応だ。
しばらく暖炉の音だけが続く。
やがてガストンが口を開いた。
「変な娘だったな」
「うん」
「皿は割るし」「割ったねぇ」
「水もこぼすし」「こぼしたねぇ」
「雪にも埋まる」
エリーゼは吹き出した。
「あれは傑作だった」
思い出しただけで笑ってしまう。
ガストンも少しだけ口元を緩めた。
「なのに」
ぽつりと続ける。
「よく働いた」
エリーゼは頷く。
「そうだね」
文句を言わない。
手を抜かない。
誰かが困っていれば真っ先に動く。
失敗しても、次の日にはまた頑張る。
そんな娘だった。
「妙な子だったよ」エリーゼが言う。
「何か抱えてるみたいなのに、全然話さないし」
「聞かれたくないこともあるだろ」
「そうかもしれないけどねぇ」
少しだけ視線を落とす。
「でも、あの歳で一人旅なんて」
そこから先は言わなかった。
言わなくても伝わる。
心配なのだ。
ガストンも黙っていた。
暖炉がぱちりと音を立てる。
「痩せてたね」
「そうだな」
「服も随分くたびれてた」
「そうだな」
「家族はいるのかね」
「さあな」
ガストンは首を振った。
本当に分からなかった。
あの娘は何も語らない。
けれど、嘘をついているようにも見えなかった。
しばらくしてガストンが口を開く。
「金の使い方も危なっかしかった」
エリーゼが顔を上げる。
「そうかい?」
「ああ」
暖炉の火を見つめながら続ける。
「財布を出した時な」
「うん」
「ありったけ、財布の中全部置きやがった」
エリーゼは少し驚く。
「あの子らしいねぇ」
「らしいで済む話じゃねえ」
ガストンは鼻を鳴らした。
「吹雪が何日続くか分からねえのに、後先考えてねえ」
「旅慣れてないんだろうね」
「それだけじゃねえな」
ガストンは少し考える。
「たぶん、あいつは金を使うこと自体に慣れてねえ」
「そうかもしれないね」
エリーゼは苦笑した。
欲しい物を買う子には見えなかった。
流行のかわいらしい服よりも、きれいな髪飾りよりも、誰かのために使いそうな子だった。
「だから働かせた」
ガストンが言う。
「施して終わりじゃ意味がねえ」
エリーゼは少し笑った。
「優しいねぇ」
「うるせえ」
しばらく暖炉の火を眺めていたエリーゼが、ふと思い出したように言った。
「そういえば」
「あ?」
「お給金、多かったね」
ガストンの動きが少しだけ止まる。
「そんなことねえ」
「嘘お言い」
エリーゼは笑った。
「一週間分にしちゃ、だいぶ多かったじゃないか」
ガストンは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「旅人には金がいる」
「餞別かい?」
返事はない。
暖炉へ薪を放り込む音だけが響く。
「相場も知らなさそうだったしねぇ」
エリーゼが呟く。
「あの子」
「ああ」
「喜んでたね」
ガストンは少しだけ笑った。
「宿屋って儲かるんですね、だとよ」
エリーゼは吹き出した。
「あの子らしいねぇ」
「それにしても帰る場所も分からないなんてねぇ」
エリーゼが小さく呟いた。
それが一番気になっていた。
ミアから聞いた言葉だ。
家族の話より、旅の話より、その言葉が。
「よく、わかりません」
そう答えた時のフィリアは、どこか本当に分からないそうだった。
ガストンは暖炉を見つめ、そして言った。
「帰る場所がなくても」
エリーゼが顔を上げる。
「また来ればいい」
それだけだった。
不器用な男らしい言葉だった。
エリーゼは少し笑う。
「あら」
「……なんだ」
「やっぱり気に入ってたんじゃないかい」
ガストンは返事をしなかった。
代わりに薪を一本放り込む。
図星だった。
「やっぱりあの子、うちの子にしてあげられなかったのかしら」
エリーゼが何度目か分からない言葉を口にする。
ガストンは苦笑した。
「馬鹿言え」
「本気だよ」
「そうか」
「そうだよ」
しばらく沈黙が落ちる。
暖炉の火だけが揺れていた。
やがてガストンが小さく笑う。
「まあ」
「うん?」
「また来たら飯くらい食わせてやる」
エリーゼも笑った。
「あんたらしいね」
窓の外には雪景色が広がっていた。
もうフィリアの姿は見えない。
けれども、二人とも同じことを考えていた。
あの子に、幸せがあらんことを。
そして、いつの日かまたこの宿の扉を叩く日が来るかもしれないと。
そう願わずにはいられなかった。




