第二話「吹雪の宿屋」
海辺の村を出てから一週間ほど経ったのでしょうか。
雪はさらに強くなっていました。
空は白く霞み、街道の先もよく見えません。
私は肩へ積もった雪を払います。
「寒いですね……」
そう呟いても返事をする人はいません。
冬の道は、私ひとりだけでした。
朝から降っていた雪は、昼を過ぎて吹雪になってしまいました。
前も後ろも真っ白です。
道がどこにあるのかも分かりません。
私は立ち止まります。
「困りましたね……」
こんな吹雪は初めてでした。
こんなに方向が分からなくなるとは思っていませんでした。
しばらく歩いていると、遠くに灯りが見えました。
私は思わず目を細めます。
「宿でしょうか」
雪の向こうに見えたのは、小さな建物でした。
煙突から煙も上がっています。
その周囲にはいくつか民家も見えます。
小さな集落のようです。
私は少し安心しながら扉を叩きました。
「誰だ」
中から太い声が聞こえます。
「あの、旅人です」
「フィリアといいます」
扉が開きます。
現れたのは大柄な男性でした。
五十歳くらいでしょうか。
腕も太く、少し怖そうな顔です。
「吹雪で道に迷いました」
私は頭を下げました。
「一晩だけ泊めていただけませんか」
宿の主人はじっと私を見ます。
それから一言。
「金はあるか」
私は財布を確認しました。
港町で服や食料、火種を買ったため、お金がだいぶ少なくなってきていますが、泊まるくらいならあるはずです。
「これでどうでしょうか」
私は全財産をカウンターに載せました。
主人はため息をつきました。
「全然足りねえな」
私はしょんぼりしてしまいます。
「すみません」
すると主人は笑いました。
「だから、働け」
私は目を瞬かせます。
「働け、ですか?」
「飯と寝床を出す」
主人は親指で宿の中を指しました。
「その代わりに、働け」
私はその提案に深く頭を下げました。
「よろしく、お願いします」
こうして、私の宿屋生活が始まったのでした。
最初の日。
皿洗いをしていました。
皿を割りました。
「すみません!」
「気にするな」
主人は笑います。
二日目。
バケツの水をひっくり返しました。
「すみません!」
「気にするな」
主人の顔は少し引きつっているように見えました。
三日目。
雪かきをしていて雪の中へ埋まりました。
「何してんだ、お前」
主人も女将さんも呆れ顔です。
私は顔を真っ赤にしました。
ですけれど、不思議と嫌な気持ちはしませんでした。
宿屋の人たちは優しかったからです。
仕事にも少しずつ慣れていきました。
掃除。皿洗い。洗濯。薪運び。
私なりに頑張ったつもりです。
農家での手伝いも役立ったようでした。
ただ、接客だけは今の私には少し難しかったようです。
「姉ちゃん!エール!」
客席から声が飛びました。
「はい!」
私は元気よく返事をします。
そして厨房へ向かいました。
しばらくして戻ってきます。
「お待たせしました」
客席へ置いたのはスープでした。
「違う!」
大声が響きます。
私は首を傾げました。
「スープですよ?」
「それは、そうだな!」
周囲から笑いが起きました。
注文したおじさんが口に出します。
「エールだよ!」
「……あっ」
ようやく気付きました。
「すみません!」
「いいからスープも置いていけ」
結局、その客は笑いながら両方飲んでいました。
「お前は本当に大丈夫なのか」
主人が呆れた顔で言います。
「たぶん、大丈夫です」
少し、意地をしまったような気がします。
「たぶんか」
また笑いが起きました。
女将さんはよくスープを作ってくれました。
「いっぱい食べな」
そう言って、私の皿に少し多めによそってくれました。
ここを常宿にしているおじいさんもいました。
私が来てから、毎日ずっと同じ話をします。
「昔は素手で熊と戦ってな……」
昨日も聞きました。
一昨日も聞きました。
でも楽しそうなので何も言いません。
「すごいですね」
そう答えると、お爺さんは得意そうに頷きました。
5日目の昼時、お爺さんはぽつりと言いました。
「……嘘だけどな」
私は固まりました。
「……嘘なんですか!?」
「おう」
宿中が笑いに包まれます。
主人まで肩を震わせていました。
「お前、ずっと信じてたのか」
「今まで、ずっと信じていました」
「騙されやすいな」
そうなのでしょうか。
少し生きていくのに自信がなくなりました。
宿には私と同じくらいの年頃の娘さんもいました。
主人の娘さんです。
洗濯物を屋内に干しながら、彼女は突然尋ねました。
「旅って楽しい?」
私は少し考えます。
「楽しいこともあります」
「じゃあ寂しいことは?」
先ほどより、少し長く考えました。
「……寂しいこともあります」
彼女は不思議そうに首を傾げます。
「帰る場所はないの?」
私は答えられませんでした。
帰る場所。
あるのでしょうか。
ないのでしょうか。
よく分からなかったのです。
「よく、わかりません」
「私はこの町が好き」
娘さんが言いました。
「小さいし何もないけど」
空を見上げます。
「でも帰ってくると安心するんだよね」
私は黙って聞いていました。
「フィリアは、帰る場所がほしい?」
私は少し考えました。
それから、小さく笑います。
「私も、この町は好きですよ」
娘さんが目を丸くしました。
「まだ来て数日じゃん」
「そうですね」
それでも、暖かいと思ったのです。
人も、家も、この時間も。
5日目の夜。
外はまだ、吹雪で荒れていました。
客たちは暖炉の前へ集まります。
お爺さんの昔話。
ほかの旅人たちの世間話。
主人の愚痴。
女将さんの笑い声。
娘さんの呆れ顔。
私はその輪の中に座っていました。
暖炉の火が揺れています。
なんだか、家族みたいでした。
6日目の夜、事件は置きました。
その騒ぎは突然起きました。
「なんだ?」
最初に声を上げたのは旅人の一人でした。
暖炉の火が弱い。
いつもなら部屋全体を暖めるはずなのに、妙に寒いのです。
ガストンさんが眉をひそめます。
「おかしいな」
そう言って暖炉を覗き込む。
そして顔色を変えました。
「まずい」
立ち上がります。
「煙が戻ってきてる」
実際、部屋の中には微かに煙が漂い始めていました。
エリーゼさんも顔を上げます。
「まさか」
ガストンさんは窓から屋根を見上げました。
「煙突だ」
「雪が詰まったな」
宿に緊張が走ります。
このまま火を焚けなければ困ります。
今夜は特に冷えるのです。
私は思わず立ち上がりました。
「私も、手伝います」
するとガストンさんは即答します。
「駄目だ」
「ですが」
「お前は絶対落ちる」
失礼な言葉でした。
「そんなことありません」
「雪かきで埋まってたやつが何言ってる」
全く反論できませんでした。
結局、私は下で道具を渡す係になります。
吹雪の中、旦那さんは屋根へ上りました。
梯子を支えるのは旅人たち。
道具を渡すのは私。
女将さんは温かいお湯を用意しています。
娘さんはランタンを持っています。
誰か一人ではなく、全員で直しているようでした。
やがて。
「取れたぞ!」
屋根の上から声が響きます。
直後、煙突から勢いよく白い煙が噴き出しました。
歓声に包まれます。
「おおーっ!」
皆が拍手しました。
私は思わず笑ってしまいました。
なんだか、とても嬉しかったのです。
旦那さんは少し照れ臭そうに頭を掻きました。
暖炉に再び火が灯ります。
ぱちり。
火が弾ける音を聞きながら。
私は思いました。
本当に家族みたいですね。
その夜、部屋へ戻った私は手帳を開きます。
『春を待つ少女』
その文字を見つめます。
『春を迎えられそう』
『お父さんに会えますように』
私は小さく息を吐きました。
「あの子の名前」
思わず呟きます。
「聞けばよかったですね」
手帳には残っていません。
顔も、声も、もう思い出せません。
それでも。
春を待っていたことだけは覚えていました。
ページをめくります。
新しいページです。
『吹雪の宿屋』
そこまで書いて、私の手は止まりました。
主人の名前を知りません。
女将さんの名前も。
娘さんの名前も。
また同じでした。
私は苦笑します。
「今度はちゃんと聞きましょう」
それでも。
忘れるのが怖くても。
今度は忘れないようにしようと思ったのです。
翌朝。7日目の朝。
吹雪は止んでいました。
空は青く晴れています。
出発の日でした。
私は荷物をまとめます。
主人がこちらへ来ました。
「おい」
少なくない枚数の銀貨を差し出します。
「給料だ」
私は目を丸くしました。
「ですが」
「一週間、住み込みで働いただろ」
主人は当然のように言います。
「受け取れ」
私はしばらく迷いました。
でも、これは施しではありません。
働いた対価でした。
私は頭を下げます。
「ありがとうございます」
主人は満足そうに頷きました。
「これで次の町まで行けるだろ」
私は笑います。
「はい」
出発の準備を終えた私は、ふと立ち止まりました。
胸元の手帳を見つめます。
それから顔を上げました。
「あの」
主人たちがこちらを見ます。
「どうした?」
私は少しだけ困ったように笑いました。
「お名前を聞いてもいいですか?」
一瞬だけ、みんなが目を丸くします。
「今か?」
主人が呆れたように言いました。
「はい」
「一週間も一緒にいたのに?」
「聞き忘れていました」
主人は大きくため息を吐きました。
「お前なあ……」
娘さんが吹き出します。
女将さんも笑っていました。
「本当に変わった子だね」
私は少しだけ恥ずかしくなりました。
すると主人が笑います。
「俺はガストンだ」
「私はエリーゼ」
「私はミアよ」
私は頷きました。
「ガストンさん」
「エリーゼさん」
「ミアさん」
一人ずつ名前を口にします。
忘れないように。
大切にしまうように。
そして慌てて手帳を開きました。
『吹雪の宿屋』
『宿屋の主人、ガストン』
『宿屋の奥様、エリーゼ』
『宿屋の娘、ミア』
さっと書き留めます。
その様子を見ていたガストンさんが苦笑しました。
「そんなに大事か?」
私は少しだけ考えます。
それから小さく微笑みました。
「はい」
本当は、もっと早く聞けばよかったのです。
けれど、怖かったのです。
忘れられることが。
忘れることが。
それでも、今からでも遅くないと思いました。
私は手帳を開きます。
『吹雪の宿屋』
『宿屋の主人、ガストン』
『宿屋の奥様、エリーゼ』
『宿屋の娘、ミア』
そして少し考えてから、さらに一行を書き足しました。
『また来たい』
私はしばらくその文字を見つめました。
誰かのための願いではありません。
私自身の言葉でした。
「それでは」
私は大きく頭を下げます。
「お世話になりました」
「気を付けるんだよ」
エリーゼさんが言いました。
「また来い」
ガストンさんが言います。
「次は春に来なよ」
ミアさんが笑いました。
私は微笑みます。
「はい」
そして宿を後にしました。
今回は誰も忘れません。
私も忘れません。
だからでしょうか。
雪道を歩きながら、胸の奥が少しだけ温かかったのです。
冬空の下、私は静かに次の町への道を歩き始めました。
***********************
その頃。
遠く離れた王都にて。
冬の夜。
一人の青年が机へ向かっていた。
机の上には地図と書類。
新聞が積み上げられている。
青年は新聞を手に取った。
雪道で骨折した男が一晩で治った。
辺境の村で病に伏せていた少女が回復した。
証言はある、だが記録は曖昧だ。
誰も詳しく思い出せない。
青年はその記事をしばらく見つめていた。
やがて小さく口を開く。
「やはり、まだ続けているのか」
誰に言うでもない独り言だった。
立ち上がり、窓際へ歩く。
王都の夜景が広がっていた。
無数の灯り。
雪のない石畳。
遠くの城壁。
青年は静かに夜空を見上げる。
その瞳には懐かしむような色が浮かんでいた。
長い時間をかけて探していた。
消えたはずの痕跡を。
忘れられたはずの奇跡を。
そして。
その男は静かに呟く。
「――セレス」
その声だけが、冬の夜へ溶けていった。




