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女神救済 世界は彼女を忘れない  作者: 舞
第一章 私の生きる意味
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7/22

第二話「吹雪の宿屋」

海辺の村を出てから一週間ほど経ったのでしょうか。


雪はさらに強くなっていました。

空は白く霞み、街道の先もよく見えません。


私は肩へ積もった雪を払います。

「寒いですね……」

そう呟いても返事をする人はいません。

冬の道は、私ひとりだけでした。

朝から降っていた雪は、昼を過ぎて吹雪になってしまいました。

前も後ろも真っ白です。

道がどこにあるのかも分かりません。


私は立ち止まります。

「困りましたね……」

こんな吹雪は初めてでした。

こんなに方向が分からなくなるとは思っていませんでした。


しばらく歩いていると、遠くに灯りが見えました。


私は思わず目を細めます。

「宿でしょうか」


雪の向こうに見えたのは、小さな建物でした。

煙突から煙も上がっています。

その周囲にはいくつか民家も見えます。

小さな集落のようです。

私は少し安心しながら扉を叩きました。


「誰だ」

中から太い声が聞こえます。

「あの、旅人です」

「フィリアといいます」


扉が開きます。


現れたのは大柄な男性でした。

五十歳くらいでしょうか。

腕も太く、少し怖そうな顔です。


「吹雪で道に迷いました」

私は頭を下げました。

「一晩だけ泊めていただけませんか」

宿の主人はじっと私を見ます。

それから一言。

「金はあるか」

私は財布を確認しました。

港町で服や食料、火種を買ったため、お金がだいぶ少なくなってきていますが、泊まるくらいならあるはずです。

「これでどうでしょうか」

私は全財産をカウンターに載せました。


主人はため息をつきました。

「全然足りねえな」

私はしょんぼりしてしまいます。

「すみません」


すると主人は笑いました。

「だから、働け」

私は目を瞬かせます。

「働け、ですか?」

「飯と寝床を出す」

主人は親指で宿の中を指しました。

「その代わりに、働け」

私はその提案に深く頭を下げました。

「よろしく、お願いします」


こうして、私の宿屋生活が始まったのでした。


最初の日。


皿洗いをしていました。

皿を割りました。

「すみません!」

「気にするな」

主人は笑います。


二日目。

バケツの水をひっくり返しました。

「すみません!」

「気にするな」

主人の顔は少し引きつっているように見えました。


三日目。

雪かきをしていて雪の中へ埋まりました。

「何してんだ、お前」

主人も女将さんも呆れ顔です。

私は顔を真っ赤にしました。


ですけれど、不思議と嫌な気持ちはしませんでした。

宿屋の人たちは優しかったからです。

仕事にも少しずつ慣れていきました。


掃除。皿洗い。洗濯。薪運び。


私なりに頑張ったつもりです。

農家での手伝いも役立ったようでした。


ただ、接客だけは今の私には少し難しかったようです。


「姉ちゃん!エール!」

客席から声が飛びました。


「はい!」

私は元気よく返事をします。

そして厨房へ向かいました。

しばらくして戻ってきます。

「お待たせしました」

客席へ置いたのはスープでした。


「違う!」

大声が響きます。

私は首を傾げました。


「スープですよ?」

「それは、そうだな!」

周囲から笑いが起きました。


注文したおじさんが口に出します。

「エールだよ!」

「……あっ」

ようやく気付きました。

「すみません!」

「いいからスープも置いていけ」


結局、その客は笑いながら両方飲んでいました。

「お前は本当に大丈夫なのか」

主人が呆れた顔で言います。

「たぶん、大丈夫です」

少し、意地をしまったような気がします。

「たぶんか」

また笑いが起きました。


女将さんはよくスープを作ってくれました。

「いっぱい食べな」

そう言って、私の皿に少し多めによそってくれました。


ここを常宿にしているおじいさんもいました。

私が来てから、毎日ずっと同じ話をします。

「昔は素手で熊と戦ってな……」

昨日も聞きました。

一昨日も聞きました。

でも楽しそうなので何も言いません。

「すごいですね」

そう答えると、お爺さんは得意そうに頷きました。


5日目の昼時、お爺さんはぽつりと言いました。

「……嘘だけどな」

私は固まりました。

「……嘘なんですか!?」

「おう」

宿中が笑いに包まれます。

主人まで肩を震わせていました。

「お前、ずっと信じてたのか」

「今まで、ずっと信じていました」

「騙されやすいな」

そうなのでしょうか。

少し生きていくのに自信がなくなりました。


宿には私と同じくらいの年頃の娘さんもいました。

主人の娘さんです。

洗濯物を屋内に干しながら、彼女は突然尋ねました。

「旅って楽しい?」

私は少し考えます。

「楽しいこともあります」

「じゃあ寂しいことは?」

先ほどより、少し長く考えました。

「……寂しいこともあります」

彼女は不思議そうに首を傾げます。



「帰る場所はないの?」

私は答えられませんでした。

帰る場所。

あるのでしょうか。

ないのでしょうか。

よく分からなかったのです。

「よく、わかりません」


「私はこの町が好き」

娘さんが言いました。

「小さいし何もないけど」

空を見上げます。

「でも帰ってくると安心するんだよね」

私は黙って聞いていました。

「フィリアは、帰る場所がほしい?」

私は少し考えました。


それから、小さく笑います。

「私も、この町は好きですよ」

娘さんが目を丸くしました。

「まだ来て数日じゃん」

「そうですね」


それでも、暖かいと思ったのです。

人も、家も、この時間も。


5日目の夜。

外はまだ、吹雪で荒れていました。

客たちは暖炉の前へ集まります。


お爺さんの昔話。

ほかの旅人たちの世間話。

主人の愚痴。

女将さんの笑い声。

娘さんの呆れ顔。

私はその輪の中に座っていました。


暖炉の火が揺れています。

なんだか、家族みたいでした。


6日目の夜、事件は置きました。

その騒ぎは突然起きました。


「なんだ?」

最初に声を上げたのは旅人の一人でした。


暖炉の火が弱い。

いつもなら部屋全体を暖めるはずなのに、妙に寒いのです。


ガストンさんが眉をひそめます。


「おかしいな」


そう言って暖炉を覗き込む。

そして顔色を変えました。


「まずい」

立ち上がります。


「煙が戻ってきてる」


実際、部屋の中には微かに煙が漂い始めていました。


エリーゼさんも顔を上げます。

「まさか」


ガストンさんは窓から屋根を見上げました。

「煙突だ」

「雪が詰まったな」

宿に緊張が走ります。


このまま火を焚けなければ困ります。

今夜は特に冷えるのです。


私は思わず立ち上がりました。

「私も、手伝います」

するとガストンさんは即答します。

「駄目だ」

「ですが」

「お前は絶対落ちる」

失礼な言葉でした。


「そんなことありません」

「雪かきで埋まってたやつが何言ってる」

全く反論できませんでした。


結局、私は下で道具を渡す係になります。


吹雪の中、旦那さんは屋根へ上りました。


梯子を支えるのは旅人たち。


道具を渡すのは私。


女将さんは温かいお湯を用意しています。

娘さんはランタンを持っています。


誰か一人ではなく、全員で直しているようでした。


やがて。

「取れたぞ!」

屋根の上から声が響きます。


直後、煙突から勢いよく白い煙が噴き出しました。


歓声に包まれます。

「おおーっ!」

皆が拍手しました。


私は思わず笑ってしまいました。


なんだか、とても嬉しかったのです。


旦那さんは少し照れ臭そうに頭を掻きました。

暖炉に再び火が灯ります。

ぱちり。


火が弾ける音を聞きながら。

私は思いました。


本当に家族みたいですね。


その夜、部屋へ戻った私は手帳を開きます。

『春を待つ少女』

その文字を見つめます。

『春を迎えられそう』

『お父さんに会えますように』

私は小さく息を吐きました。

「あの子の名前」

思わず呟きます。

「聞けばよかったですね」

手帳には残っていません。

顔も、声も、もう思い出せません。

それでも。

春を待っていたことだけは覚えていました。


ページをめくります。

新しいページです。

『吹雪の宿屋』

そこまで書いて、私の手は止まりました。

主人の名前を知りません。

女将さんの名前も。

娘さんの名前も。

また同じでした。


私は苦笑します。

「今度はちゃんと聞きましょう」

それでも。

忘れるのが怖くても。

今度は忘れないようにしようと思ったのです。



翌朝。7日目の朝。

吹雪は止んでいました。

空は青く晴れています。

出発の日でした。

私は荷物をまとめます。

主人がこちらへ来ました。

「おい」

少なくない枚数の銀貨を差し出します。


「給料だ」

私は目を丸くしました。

「ですが」

「一週間、住み込みで働いただろ」

主人は当然のように言います。

「受け取れ」

私はしばらく迷いました。


でも、これは施しではありません。

働いた対価でした。


私は頭を下げます。

「ありがとうございます」

主人は満足そうに頷きました。

「これで次の町まで行けるだろ」

私は笑います。

「はい」


出発の準備を終えた私は、ふと立ち止まりました。

胸元の手帳を見つめます。

それから顔を上げました。

「あの」

主人たちがこちらを見ます。

「どうした?」


私は少しだけ困ったように笑いました。

「お名前を聞いてもいいですか?」


一瞬だけ、みんなが目を丸くします。


「今か?」

主人が呆れたように言いました。

「はい」

「一週間も一緒にいたのに?」

「聞き忘れていました」

主人は大きくため息を吐きました。

「お前なあ……」

娘さんが吹き出します。

女将さんも笑っていました。

「本当に変わった子だね」

私は少しだけ恥ずかしくなりました。


すると主人が笑います。

「俺はガストンだ」

「私はエリーゼ」

「私はミアよ」

私は頷きました。

「ガストンさん」

「エリーゼさん」

「ミアさん」

一人ずつ名前を口にします。

忘れないように。

大切にしまうように。

そして慌てて手帳を開きました。

『吹雪の宿屋』

『宿屋の主人、ガストン』

『宿屋の奥様、エリーゼ』

『宿屋の娘、ミア』

さっと書き留めます。


その様子を見ていたガストンさんが苦笑しました。

「そんなに大事か?」

私は少しだけ考えます。

それから小さく微笑みました。


「はい」


本当は、もっと早く聞けばよかったのです。

けれど、怖かったのです。

忘れられることが。

忘れることが。


それでも、今からでも遅くないと思いました。

私は手帳を開きます。

『吹雪の宿屋』

『宿屋の主人、ガストン』

『宿屋の奥様、エリーゼ』

『宿屋の娘、ミア』


そして少し考えてから、さらに一行を書き足しました。


『また来たい』


私はしばらくその文字を見つめました。

誰かのための願いではありません。

私自身の言葉でした。


「それでは」

私は大きく頭を下げます。

「お世話になりました」

「気を付けるんだよ」

エリーゼさんが言いました。

「また来い」

ガストンさんが言います。

「次は春に来なよ」

ミアさんが笑いました。

私は微笑みます。

「はい」


そして宿を後にしました。

今回は誰も忘れません。

私も忘れません。

だからでしょうか。


雪道を歩きながら、胸の奥が少しだけ温かかったのです。

冬空の下、私は静かに次の町への道を歩き始めました。



***********************



その頃。

遠く離れた王都にて。

冬の夜。

一人の青年が机へ向かっていた。


机の上には地図と書類。

新聞が積み上げられている。


青年は新聞を手に取った。


雪道で骨折した男が一晩で治った。

辺境の村で病に伏せていた少女が回復した。


証言はある、だが記録は曖昧だ。

誰も詳しく思い出せない。

青年はその記事をしばらく見つめていた。

やがて小さく口を開く。


「やはり、まだ続けているのか」


誰に言うでもない独り言だった。

立ち上がり、窓際へ歩く。

王都の夜景が広がっていた。


無数の灯り。

雪のない石畳。

遠くの城壁。


青年は静かに夜空を見上げる。

その瞳には懐かしむような色が浮かんでいた。

長い時間をかけて探していた。

消えたはずの痕跡を。

忘れられたはずの奇跡を。

そして。

その男は静かに呟く。


「――セレス」

その声だけが、冬の夜へ溶けていった。



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