第一話裏視点
<行商人の妻 ソフィア>
寝具の準備をしていた時だった。ふと手が止まる。
使っていた形跡のある、寝具が一つ多かった。
私は首を傾げた。
なぜだろう。
誰かがいた気がする。
旅の途中。馬車の中。
食事をしながら話をしたような気がする。
けれど、顔が思い出せなかった。
名前も思い出せなかった。
「どうした?」
旦那のアルベルトが尋ねる。
「ねえ」
私は少し迷った。
「私たち、誰かと一緒だったわよね?」
主人も首を傾げる。
「そうだった気がするな」
それ以上は出てこない。
二人とも沈黙した。
不思議だった。
何日も一緒に旅をしたはずなのに何も思い出せない。
「旦那」
近くで荷を整理していたレオンが声を掛けてきた。
「どうした?」
「いや」
レオンは首を傾げる。
「俺も今、それを考えてたんですよ」
私たちは思わず顔を見合わせた。
レオンは続ける。
「旅人の方がいた気がするんです」
「やっぱり?」
思わず声を上げる。
「でも顔が思い出せなくて……」
「俺もです」
レオンは困ったように笑った。
「それに変なんですよ」
そう言って腕を曲げる。
「俺の腕、折れてましたよね」
アルベルトが頷く。
「ああ」
「それが何で治ったんでしたっけ」
誰も答えられなかった。
私も。主人も。レオン自身も。
答えを知らない。
それなのに腕は確かに治っている。
奇妙だった。
本当に奇妙だった。
「優しい子だった気がするのよね」
私がそう呟くと、レオンも静かに頷いた。
「ああ」
少し考えてから。
「親切な娘さんだった気がします」
そう言った。
その瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
理由は分からなかった。
<農家のお婆さん ハンナ>
「おや?」
朝起きた後、外を見渡し。
ドアを閉めた後、思わず声が出る。
身体が軽かった。
特に腰だ。
いつもなら起き上がるだけで痛む。
立ち上がる時には机へ手をつく。
畑へ出る頃には何度も腰をさする。
それが今日は違った。
驚くほど痛くない。
ハンナはゆっくり腰を伸ばした。
それでも痛みはなかった。
「変なこともあるもんだねえ」
思わず笑った。
朝食の支度をしながら、ふとドアを閉める前のことを思い出そうとする。
何かあった気がした。
誰かと話した気がする。
若い子だったような。違ったような。
そこまで考えて首を傾げる。
思い出せない。
顔も、名前も、声さえ曖昧だ。
昼前。
ゲオルグが町から帰ってきた。
「おお」
開口一番、目を丸くする。
「婆さん、今日は調子が良さそうだな」
「そうかい?」
「腰はどうした」
そう言われて、改めて気付く。
本当に痛くない。
昨日までは確かに痛かった。
ずっと痛かったはずだ。
それなのに、どうしてこうなったのだろう。
「そういえば」
ハンナはふと呟いた。
「昨日、誰か来たような気がするんだよ」
「誰がだ?」
「それが分からないんだよ」
ゲオルグは首を傾げた。
「町の人か?」
「違う気がするねえ」
「なんだそりゃあ」
旅人だった気もする。
若い娘だった気もする。
そして、とても礼儀正しい子だった気もする。
そこまでは思うのだ。
けれど、それ以上が出てこない。
夕方、ハンナは一人で畑へ出ていた。
冬の風は冷たい。
それでも身体は軽かった。
まるで腰が悪くなる前に戻ったみたいだった。
不思議なものだ。
理由は分からない。
思い出せない。
それなのに、なぜか胸の奥だけは温かかった。
「元気でいるといいねえ」
気付けばそう口にしていた。
誰のことかは分からない。
本当に分からない。
けれど、今朝どこかへ向かって歩いていった誰かを見送った気がする。
若くて、優しくて、少しだけ心配になるような子だった。
そんな気がした。
その夜。
布団へ入る前。
ハンナはもう一度だけ呟いた。
「無事だといいねえ」
名前は思い出せない。
顔も思い出せない。
けれど、優しい子だったような気がする。
それだけは、不思議と忘れられなかった。
<春を待つ少女 エマ>
苦しい。
息を吸うたび胸が痛い。
頭も熱い。
身体は重くて、起き上がることもできなかった。
窓の向こうには海が見える。
昔は好きだった。
お父さんが帰ってくる場所だったから。
でも今は違う。
ただ遠くて、少しだけ寂しい。
お母さんが薬を持ってきてくれる。
優しくしてくれる。
けれど、最近のお母さんは少しだけ泣きそうな顔をしていた。
たぶん、私が見ていない時に泣いている。
そんな気がした。
だから私は笑う。
大丈夫だよ、って。
春まで頑張るよ、って。
そう言うようにしていた。
その日。
知らないお姉ちゃんが家に来た。
旅人だと言っていた。
変な人だと思った。
お医者さんでもない。
神官様でもない。
なのに私の話を聞いてくれる。
春の話も、お父さんの話も、お土産の話も。
変な置物の話まで聞いてくれた。
不思議だった。
今日初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っている人みたいだった。
優しい声だった。
安心する声だった。
「春になったら何をしたいですか?」
そう聞かれて、私はすぐに答えた。
お父さんのお土産を見ること。お父さんと会うこと。
それが楽しみだったから。
春まで頑張る理由だったから。
お姉ちゃんは笑ってくれた。
私の話を、子どもっぽいって笑わなかった。
嬉しかった。
それから、お姉ちゃんが私の手を握った。
冷たかった手が少し温かくなる。
不思議だった。
春の日向にいるみたいだった。
気持ちが良かった。
とても眠かった。
「大丈夫ですよ」
お姉ちゃんがそう言った。
優しい声だった。
そして光が生まれる。
春の日差しみたいな光だった。
ぼんやりする意識の中で。
私はその光を見ていた。
その時だった。
思わず小さく呟く。
「……女神様?」
光の向こうにいるお姉ちゃんが、少しだけ遠く見えた。
春の陽だまりみたいに温かくて。
怖くなくて、ただ優しくて。
まるで絵本に出てくる女神様みたいだと思った。
だから、気付けばそう呼んでいた。
目を開ける。
苦しくなかった。
胸が痛くない。
息ができる。
大きく吸える。
何度吸っても苦しくならない。
「お母さん!」
思わず呼ぶ。
お母さんが泣いていた。
私も泣いた。
嬉しかったから。
本当に、それだけだった。
しばらくして。
目の前にいるお姉ちゃんを見た。
優しそうなお姉ちゃん。
きっと私を助けてくれた人。
そう思った。
「ありがとうございました」
そう言うと、お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
私も嬉しかった。
「お姉ちゃんのお名前は?」
聞いてみる。
「フィリアです」
そう答えてくれた。
―――—お姉ちゃん。
私はその名前を口にする。
なんだか温かい気持ちになった。
けれど、次の瞬間だった。
「あれ……?」
変だった。
今、聞いたばかりなのに。
名前が思い出せない。
私は困ってしまった。
目の前にいるのに、名前が分からない。
忘れたくないのに、思い出せない。
「あの……」
お姉ちゃんを見る。
優しい人だった。
きっと。
とても大切な人だった。
そんな気がする。
でも、名前だけがどうしても出てこない。
お姉ちゃんは微笑みながら、少し頭を下げた。
それから、何も言わずに出て行った。
その日の夜。
眠る前、私は窓の外の海を見ていた。
不思議と心が軽い。
春が来る。
お父さんも帰ってくる。
きっと大丈夫だ。
そんな気がした。
理由は分からない。
けれど。
誰かがそう言ってくれた気がした。
優しい声だった気がする。
その人の顔は思い出せない。
名前も思い出せない。
それでも。
胸の奥に残った温かさだけは、消えなかった。
春が来た。
長かった冬が終わる。
港にはたくさんの人が集まっていた。
海の向こうに船影が見えたからだ。
私は桟橋を走った。
お母さんが後ろで何か言っている。
でも止まれなかった。
だって。
あの船を待っていたのだから。
ずっと。
ずっと。
船が港へ入る。
帆が下ろされる。
乗組員たちが次々と降りてくる。
そして。
一人の男の人がこちらを見た。
少し日に焼けた顔。
見慣れた笑顔。
大きな荷物。
「エマ!」
その声を聞いた瞬間。
私は走り出していた。
_
「お父さん!」
思い切り抱きつく。
絶対に離さないように。
「大きくなったなあ」
お父さんが笑う。
私は首を振った。
伝えたいことがたくさんある。
冬の話。
病気の話。
お母さんの話。
全部。
「帰ってきた」
そう言うと。
お父さんは困ったように笑った。
「約束しただろ」
その時だった。
後ろで小さく嗚咽が聞こえた。
振り返る。
お母さんだった。
泣いていた。
必死に堪えていたみたいに。
今まで我慢していたものが全部あふれたみたいに。
お父さんも黙る。
そして。
何も言わずにお母さんの肩を抱いた。
「……おかえり」
お母さんは泣きながらそう言った。
春の風が吹いていた。
長かった冬が終わったのだと。
私はその時、初めてそう思った。
ふと胸の奥が温かくなる。
春の日差しみたいな。
優しい温もり。
誰かに言われた気がした。
きっと春は来ます。
そんな言葉を。
思い出そうとして。
私は首を傾げる。
誰だっただろう。
思い出せない。
顔も、名前も、分からない。
けれど。
私は空を見上げて笑った。
お父さんは帰ってきた。
お母さんも笑っている。
約束はちゃんと守られたのだ。
だからきっと。
あの時の優しい人も。
どこかで元気にしている。
そんな気がした。




