プロローグ裏視点
別視点は初投稿です。
<農家の妻 クララ>
その日は朝から冷たい雨が降っていました。
畑仕事は休みです。
私は暖炉の前で編み物をしていました。
マルクスは薪小屋の様子を見に行っています。
こんな日は家で大人しくしているのが一番でした。
けれど、昼を少し過ぎた頃。
玄関の扉が勢いよく開いたのです。
「クララ!」
夫のマルクスでした。
珍しく焦った声でした。
私は驚いて立ち上がります。
「どうしたんだい?」
「人だ」
「人?」
「森で倒れてた」
その言葉に胸がざわつきました。
私は慌てて玄関へ向かいます。
そして。
その姿を見て息を呑みました。
マルクスの腕の中に、一人の少女がいたのです。
まだ若い子でした。
十六歳前後でしょうか。
痩せています。
雨に濡れています。
マルクスが羽織らせた上着だけで他には何も着ておらず、身体はひどく冷え切っていました。
「生きてるのかい!?」
「かろうじてな」
私は少女の頬へ触れました。
冷たい。
あまりにも冷たい。
「早く中へ!」
私たちは急いで少女を家へ運び込みました。
暖炉の火を強くします。
毛布を何枚も持ってきます。
温かいお湯もたくさん用意しました。
けれど。
その前にやらなければならないことがありました。
私はマルクスを見ました。マルクスも私を見ます。
「ああ」
それだけ言って部屋を出ていきました。
私は桶へ湯を張ります。
冷えた身体を温めなければなりません。
そして少女の身体を拭こうとして。
一つ、悪い考えが頭をよぎりました。
旅人なら荷物があるはず。服も。靴も。
けれども、この子は何も持っていないのです。
本当に何も。
まるで突然森へ放り出されたみたいに。
私は少女の髪を拭いてやります。
長い銀色の髪でした。
この辺りでは見ない色です。
綺麗な子でした。
けれど、ひどく痩せています。
骨ばっているわけではありません。
でも長い間まともな食事を取っていなかったような、そんな身体でした。
「何があったんだい……」
返事はありません。
少女は眠ったままでした。
私は身体に傷がないか確認します。
けれど大きな怪我はありません。
不思議なくらいに。
森で倒れていたというのに、擦り傷すらほとんどありませんでした。
それが余計に不気味でした。
私は少女へ寝間着を着せます。
それから毛布を掛けました。
「大丈夫だよ」
聞こえているはずもありません。
それでも声を掛けたくなりました。
「もう大丈夫だからねえ」
まるで。
昔のルチアへ言っていたみたいに。
翌日になっても少女は目を覚ましませんでした。
けれど、高熱は少し落ち着いているようでした。
小さな寝息だけが聞こえます。
その日の夕方、
「あらまあ」
私は思わず笑ってしまいます。
眠っていてもお腹は空くらしい。
ぐうううう。
と少女のお腹が鳴ったからです。
「食い意地だけはありそうだな」
マルクスが言いました。
「良いことだよ」
私はそう返しました。
生きようとしている証拠なのですから。
そして、綺麗な蒼い瞳が開きます。
不安そうでした。
迷子みたいな目をしています。
私は思わず微笑みました。
「ああ、起きたかい」
少女は辺りを見回します。
状況が分からないのでしょう。
当然でした。
「ここは……?」
震える声でした。
「うちの家だよ」
私は優しく答えます。
「村外れの農場さ」
少女は小さく頷きました。
それから恐る恐る尋ねます。
「私を助けてくれたのは……?」
「この人だよ」
私はマルクスを指差しました。
少女は慌てて頭を下げます。
礼儀正しい子でした。
私は少し安心しました。
その後、着替えの話になり。
この子は真っ赤になっていました。
マルクスは相変わらず何が悪いのか分かっていません。
私は呆れてしまいます。
けれど、少女が布団へ潜り込んでしまった後。
小さな笑い声が聞こえたのです。
私は少しだけ安心しました。
笑えるなら大丈夫。
きっと大丈夫。
そう思えたからです。
けれど。
本当に驚いたのはその後でした。
少女は困った顔で言ったのです。
「名前が分からないんです」
私は目を瞬かせました。
「名前?」
「家族も分かりません」
少女は震える声で続けます。
「どこで生まれたのかも」
「どうして森にいたのかも」
「何も思い出せないんです」
私は言葉を失いました。
記憶喪失。
そんなもの、おとぎ話、噂話でしか聞いたことがありません。
それなのに、少女は本気でした。
冗談ではありません。
本当に何も覚えていないのです。
私は胸が苦しくなりました。
会ったときから考えまいとしていたことが頭をよぎります。
何も着ていなかったこと。
何も持っていなかったこと。
そして記憶喪失。
私は首を振りました。
勝手な想像です。
そう決め付けるべきではありません。
けれど、もし。
もしこの子が本当に辛い目に遭ったのだとしたら。
どれほど怖かったのでしょう。
どれほど心細かったのでしょう。
「可哀想に……」
私は思わず呟いていました。
少女は困ったように笑っています。
その笑顔が、余計に胸を締め付けました。
泣きたいのはこの子の方でしょうに。
その夜。
私はマルクスへ言いました。
「しばらく家に置こう」
マルクスは黙ってスープを飲んでいました。
しばらくして、ぶっきらぼうに答えます。
「好きにしろ」
私は笑いました。
こういう時のマルクスの返事は決まっています。
本当は反対する気なんてないのです。
そしてある日の夕食。
少女の名前の話になりました。
ずっと「お嬢ちゃん」では可哀想です。
私はパンを千切りながら考えました。
そして。その名前が浮かんだのです。
「じゃあ、フィリアはどうだい?」
少女は目を瞬かせました。
「フィリア?」
「うん」
「どういう意味なんですか?」
「さあねえ」
本当に分からなかったのです。
ただ、彼女をそう呼びたいと思いました。
それだけでした。
少女は少し考えて。
それから微笑みます。
「……フィリア」
私はその笑顔を見て嬉しくなりました。
不思議なくらい。
胸が温かくなったのです。
その時の私はまだ知りませんでした。
その名前が娘を意味する言葉だったことも。
私が無意識にルチアを重ねていたことも。
そして、その子がほんの短い間だけでも、もう一度私たちの家族になってくれることも。
何一つ、知らなかったのです。
フィリアと名付けてから。
あの子は少しだけ変わりました。
もちろん記憶が戻ったわけではありません。
自分が誰だったのかも分からないままです。
それでも、以前よりよく笑うようになりました。
朝になると私より先に起きてきます。
慌てて朝食の準備を手伝おうとして。
お皿を落として割ります。
卵を運ぼうとして落とします。
洗濯物を持っていけば風に飛ばされます。
「すみません……」
しょんぼりしている姿を見るたびに。
私は笑ってしまいました。
「そのうち慣れるよ」
そう言うと。
フィリアは本当に安心したように頷くのです。
マルクスも最初は無愛想でした。
けれど、畑へ連れ出すようになってからは違いました。
「鍬の持ち方がなっとらん」
「はい」
「そこじゃない」
「はい」
「話を聞いてるのか」
「聞いています」
「聞いておらん」
毎日のようにそんな声が聞こえてきます。
本当に嫌なら。
あの人は畑へ連れて行きません。
それを私は知っていました。
だから何も言いませんでした。
夕方になると。
フィリアは泥だらけになって帰ってきます。
そして食卓で言うのです。
「今日は怒られませんでした」
嬉しそうに。
まるで自慢みたいに。
するとマルクスは鼻を鳴らします。
「怒るほどの仕事をさせなかっただけだ」
そんなことを言いながら。
少しだけ機嫌が良さそうでした。
私は時々。
遠くからフィリアを眺めていました。
畑で笑う姿。家畜へ話しかける姿。薪を運ぶ姿。
どれも自然でした。
まるで昔からここにいたみたいに。
その度に胸の奥が少しだけ痛みました。
思い出すからです。
ルチアを。同じ年頃の頃の娘を。
ある日の夕方でした。
私は納屋から戻るフィリアを見つけます。
両腕いっぱいに薪を抱えていました。
危なっかしい。不安定です。
案の定、足を引っ掛けて転びました。
薪が派手に散らばります。
「いたたた……」
私は思わず駆け寄りました。
「大丈夫かい?」
「はい」
フィリアは笑います。
膝を擦りむいているのに。
笑っているのです。
「怪我してるじゃないか」
「このくらい平気です」
私は呆れました。
そして、なぜだか胸が締め付けられたのです。
もしこの子がいなくなったら。
そう考えてしまったからでした。
その夜、私は眠れませんでした。
暖炉の火を見つめながら考えます。
どうしてなのでしょう。
フィリアはルチアではありません。
血も繋がっていません。
まだ会って数か月の他人です。
それなのに、気付けば。
あの子が笑っていると安心して。
落ち込んでいると心配して。
怪我をすれば胸が痛む。
まるで、本当の娘みたいに。
私は小さく笑いました。
歳を取ったのでしょう。
寂しくなったのでしょう。
理由は分かりません。
けれど一つだけ。
確かに思ったことがありました。
フィリアが笑っていてくれると嬉しい。
それだけでした。
私は気付かないうちに、あの名前のなかった少女を。
大切な家族の一人として見始めていたのです。
ある日。
私は納屋の整理をしていました。
古い箱を動かしていると、布に包まれたものが出てきます。
見覚えのある服でした。
ルチアの服です。
娘が十六歳頃に着ていたものでした。
私は手を止めます。
随分長いこと開けていなかった箱でした。
もう見ても平気だと思っていました。
けれど、やはり胸は痛みます。
その時でした。
「お婆さん?」
後ろからフィリアの声がしました。
私は慌てて振り返ります。
「どうしたんですか?」
フィリアはこちらへ近付いてきました。
私は反射的に箱を閉じます。
「何でもないよ」
嘘でした。
けれど説明する気にはなれませんでした。
フィリアもそれ以上は聞きません。
優しい子です。
人の触れてほしくないことを察するのが上手でした。
「重そうですね」
代わりにそう言って箱を持ち上げます。
そして何でもない顔で運んでしまいました。
私は思わず苦笑します。
ルチアとは全然違う子です。
顔も違う。性格も違う。生まれ育ちだって違うのでしょう。
それなのに。
時々、本当に時々だけ。
娘が生きていたら、こんな風だったのだろうかと思ってしまうのです。
その夜、私はある部屋の前で足を止めました。
フィリアの部屋です。
今はもう当たり前のように使っています。
けれど本当は。
そこはルチアの部屋でした。
何十年も閉じたままだった部屋。
片付けることもできず、ただ掃除だけを続けていた部屋。
そこから今は、少女の寝息が聞こえています。
私は扉へそっと手を添えました。
「おやすみ、フィリア」
小さく呟きます。
返事はありません。当然です。
もう眠っているのでしょう。
私は少しだけ笑いました。
あの子が来てから。
家の中が賑やかになりました。
食卓で笑うことが増えました。
マルクスも以前より怒鳴りながらも機嫌がよくなっているように見えました。
そして私は。
ルチアの部屋の扉を開けることが怖くなくなっていました。
その理由を考えないようにしながら。
私は静かに自室へ戻ったのでした。
けれど。
その穏やかな日々が、長く続かないことを。
この時の私はまだ知らなかったのです。
秋が終わろうとしていました。
収穫は無事に終わり、畑も少し落ち着いていました。
風は冷たくなり始めていましたが、不思議と寂しくはありませんでした。
フィリアがいたからです。
夕方になれば三人で食卓を囲みます。
朝になれば畑へ出ます。
それが当たり前になっていました。
まるで昔みたいに。
家の中に笑い声がある暮らしでした。
その日も変わらない一日でした。
フィリアは畑で歌っていました。
歌詞は滅茶苦茶です。
知らない言葉ばかりでした。
本人にも意味が分からないそうです。
それなのに楽しそうでした。
私は笑います。
マルクスは呆れています。
そんな平和な日でした。
だから、翌朝身体を起こせなかった時。
自分でも何が起きたのか分かりませんでした。
熱がありました。
咳も出ます。
最初は風邪だと思いました。
少し休めば治る。
そんなものだと。
けれど違いました。
次の日も。
その次の日も。
熱は下がりません。
身体は重くなる一方でした。
医者が来ました。
薬も飲みました。
それでも良くなりません。
私は少しずつ理解していました。
治らないのだと。
夜になると、マルクスは部屋を出ていきました。
泣いているのを見られたくないのでしょう。
長い付き合いです。
そのくらい分かります。
フィリアは何も言いませんでした。
ただ、ずっと傍にいてくれました。
額の布を替えてくれます。
水を持ってきてくれます。
眠れない夜は話し相手になってくれました。
「ごめんねえ」
ある夜。
私はそう言いました。
フィリアは首を傾げます。
「何がですか?」
「せっかく居場所ができたのにねえ」
フィリアは少しだけ困った顔をしました。
「お婆さん」
そして、本気で叱るみたいな顔になります。
「そんなこと言わないでください」
私は思わず笑いました。
本当に優しい子です。
その夜でした。
フィリアは私の手を握っていました。
私は朦朧としていました。
熱のせいでしょう。
あまりよく覚えていません。
ただ。
暖かい光を見た気がするのです。
春の日差しみたいな。
優しい光でした。
翌朝。
私は目を覚ましました。
身体が軽い。
熱もありません。
咳もありません。
久しぶりによく眠れた気がしました。
そして。
ベッドの横には少女がいました。
銀色の髪。
綺麗な子でした。
見覚えはありません。
けれど。
とても疲れているように見えました。
私は心配になりました。
「―——。あんた、大丈夫かい?」
誰かの名前を呼んで。そう言って。
けれど、その名前がどうしても思い出せませんでした。
思わず少女の髪を撫でました。
少女は泣きそうな顔で笑っていました。
村は大騒ぎになりました。
奇跡だ。
神様の御業だ。
みんな好き勝手に言っています。
私は苦笑していました。
生きているのだから。
それで十分でした。
その日の夕食。
私は食卓に座ります。
マルクスがいます。
知らない少女がいます。
旅人でしょうか。
そう思いました。
そして、ふと尋ねたのです。
「そういえば、あなたはどちらさま?」
空気が止まった感じがしました。
少女が固まります。
私は首を傾げました。
変なことを聞いたのでしょうか。
けれど、本当に知らなかったのです。
その後、少女は何度も説明してくれました。
ここに住んでいたこと。
一緒に畑を耕したこと。
私たち夫婦が助けたこと。
けれど、どうしても思い出せませんでした。
困った顔をするしかありません。
私はその子を見ていました。
どうしてでしょう。
初めて会うはずなのに。
その子が泣きそうな顔をしているのが。
とても悲しく思えたのです。
翌朝。
旅人の少女はいなくなっていました。
部屋も綺麗に片付いていました。
置き手紙もありません。
名前も知りません。
どこへ行ったのかも分かりません。
私はしばらく門の前に立っていました。
何かを忘れている気がしました。
大切なことを。
とても大切なことを。
けれど。
どうしても思い出せません。
その時でした。
マルクスが不意に言います。
「変なもんだな」
「何がだい?」
「あの旅人」
私は振り返りました。
マルクスは遠くの街道を見ています。
「初めて会った気がしねえ」
私も思わず頷きました。
理由はありません。
根拠もありません。
それでも。
同じことを思っていたのです。
風が畑を吹き抜けていきます。
すると、あの旅人さんが畑の向こうに見えました。
「旅人さん!」
私は彼女に対して手を振りました。
そうすると彼女はこちらに気づいて、手を振り返してくれました。
私は彼女を見送りながら、小さく呟きました。
「元気でいるといいねえ」
誰に向けた言葉だったのか。
それさえ分かりませんでした。
けれど。
胸の奥だけが少し温かかったのです。
まるで。
本当に大切な誰かに向けて言ったみたいに。




