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女神救済 世界は彼女を忘れない  作者: 舞
第一章 私の生きる意味
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21/22

第五話裏視点2・中

まだ蛇足。

その案件は、予想以上に長引いた。

正確には、アーネストが長引かせた。


三日後、私は主任官室へ呼ばれた。


「来たか」


机の上には書類が積まれていた。

見慣れた光景である。


「何でしょう」

「相談だ」


嫌な予感しかしない。

アーネストは真顔だった。

「交際に関する一般的な手続きを調べた」

私は頭を抱えた。


「調べたんですか」

「調べた」


真面目な顔だった。

「人間関係に関する書籍も読んだ」

「やめてください」

「なぜだ」

「参考になりましたか」

「ならなかった」



即答だった。

私は少しだけ安心した。


「恋愛論は著者ごとに結論が違う」

「そうですね」

「非常に不便だ」

本当に不便そうに言う。

法律学者が条文解釈で揉めている時の顔だった。


「恋愛に関する、大衆小説も読んでみた」

「……何を読んでいるんですか」

私は少し呆れてしまった、でもかわいいところもあるのだと思った。

「だが、得られるものはそれほど多くなかった」


「だから」

彼は一枚の紙を差し出した。

「君の意見を聞きたい」



読んだ、そして固まった。


紙の上には。

『クラリスとの交際検討事項』

と書いてあった。


私は机に突っ伏した。

「主任官」

「何だ」

「これ何ですか」

「検討事項だ」

「見れば分かります」

「なら問題ないな」


問題しかない。

恐る恐る中を見る。


一、年齢差の問題について。

二、職場内規の問題について。

三、周囲への影響について

四、将来的な家族形成。

五、本人意思の再確認。

六、過去の失敗事例の検証。

七、元妻、そして娘との関係。

八、その他附則事項。


完璧だった。

完璧にアーネストだった。


私は笑うしかなかった。


「本当に作ったんですか」

「昨日の夜にな」

「仕事ですか」

「私事だ」

私事でこれを作る人間を初めて見た。


アーネストは静かに言った。

「私は失敗した」

「……」

「だから確認した」




その声は以前より少しだけ弱かった。


「同じことを繰り返さないために」

私は笑わなかった。


笑えなかった。

この人が、どれだけ真剣に考えているのか分かったからだ。


「それで」

アーネストが言う。

「ひとつの結論を出した」


私は少し緊張した。

心臓がうるさい。

たぶん顔も赤い。


「そうですか」

「そうだ」


アーネストは数秒黙った。



そして、まるで重要な決裁文書でも読むような顔で言った。


「君が良ければ」

言葉を選ぶ。

一語ずつ。

慎重に。

不器用に。

「私と交際してほしい」


私は瞬きをした。

たぶん。

二回くらい。


何だろう。

もっとこう。

雰囲気とか。

流れとか。

そういうものは無かったのだろうか。




いや、この人にそれを求める方が間違っている。


私は吹き出した。

「あのですね」

「何だ」

「それ」

「うむ」

「普通は告白って言うんですよ」

アーネストは少し考えた。


「……そうなのか」

「そうです」

「知らなかった」

でしょうね。


私は笑う。

しばらく笑う。


本当にどうしようもない。

そんな人だった。


「返事は」

アーネストが聞く。

少しだけ緊張した顔だった。


初めて見た。

もしかしたら、刺された時より緊張しているかもしれない。


私は立ち上がった。

机を回る。

彼の前へ行く。

そして、書類の一番上に大きく書いた。


『承認』と。


アーネストはそれを見た。

そして私を見る。


私は笑っていた。

「決裁です」

「そうか」

「承認しました」

「了解した」


相変わらずだった。

けれど、ほんの少しだけ。

本当に少しだけ。


アーネストも笑っていた。


それを見た瞬間、私は思った。


ああ。


たぶん私は、この人を好きになった時から。

ずっとこの顔を見たかったんだな、と。



後にフロントニア市民管理局では、この件は半ば伝説となる。

『主任官、交際申請を決裁書で提出』

という噂が広まり、クラリスは半年ほど後悔した。


アーネストはなぜ周囲が笑うのか最後まで理解していなかった。



交際が始まった。

らしい。

少なくともアーネストはそう言った。

私は承認した。

だから交際している。

理屈としては正しい。

たぶん。


問題は、その後だった。


「アーネストさん」

「何だ」

「私達、恋人なんですよね」

「ああ」


即答だった。


「その認識はあるんですね」

「当然だ」

安心した。

少しだけ。


「では質問です」

「聞こう」

「恋人って何をすると思いますか」



アーネストは考えた。

本気で考えた。


そして。

「相談する」

「それは同僚です」

「食事をする」

「職場でもしてます」

「信頼関係を築く」

「主任官と部下です」

沈黙。


アーネストが困った顔をする。

私は笑った。


「今度の休み」

「うむ」

「一緒に出掛けませんか」

アーネストが固まった。


「嫌ですか?」

「違う」

即答。


「休暇申請が必要だと思った」

私は吹き出した。

「デートですよ」

「なるほど」

数秒後。

「デートか」


その顔は、王都監査案件より緊張していた。


それから少しずつ。

本当に少しずつ。

二人は恋人になった。


本屋へ行く。

法規集を見て盛り上がる。

「普通の恋人はこんなことしません」

「そうなのか」

「そうです」

「知らなかった」

いつも通りだった。


劇的な何かがあるわけではない。

けれど、ある日の帰り道。

雨が降った。


私は走る。

アーネストも走る。


屋根の下へ逃げ込む。


少し肩が触れた。

その瞬間、アーネストが離れた。


私は思わず笑う。

「何ですか」

「いや」

珍しく視線を逸らした。

「恋人同士として適切な距離が分からん」

私は声を出して笑ってしまった。

本当に、この人は。

法令なら何百冊も読めるのに。

たった一人の女性との距離だけは測れないらしい。

やがて一年が過ぎた。


そしてある日、アーネストが言った。

「相談がある」

私は少し笑う。


聞き慣れた言葉だった。

「何でしょう」

「将来についてだ」


珍しく真面目な顔だった。


いや、いつも真面目だ。

違う。

少し緊張していた。


「クラリス」

名前を呼ばれる。

主任官ではなく、恋人として。


「私は以前失敗した」

元妻と娘のことだ。

アーネストは続ける。

「だから軽率なことは言えん」

「はい」

「だが」

そこで言葉が止まる。


何度か深呼吸して。

ようやく言った。

「今度は逃げるつもりがない」

私は何も言わない。


「だから」

アーネストはまっすぐ私を見た。

「結婚してほしい」


前の告白みたいに、決裁書も無かった。

検討事項も無かった。


ただ不器用な男が。

不器用なまま。

必死に言葉を選んでいた。

私は少し泣いた。


そして笑った。

「承認します」


するとアーネストは、本当に少しだけ笑った。


その表情を見た瞬間。

私は思った。


真面目なのも。

私を好きになったのも。

元妻を忘れられないのも。

この人はずっと同じなんだ。

誰より不器用で。

誰より真面目で。

そして誰より誠実なのだと。



ひとしきり、笑いあったあと。

アーネストの顔から笑みが消えた。

「クラリス」

「はい」

少し迷うような沈黙。

こんなアーネストは珍しかった。

「一つだけ」

「何でしょう」

彼は視線を逸らした。

「私は四十二になる」


私は首を傾げる。

「知っています」

「君はまだ二十一だ」

「それも知っています」


また沈黙。そして。

「たぶん」

アーネストは静かに言った。

「私の方が先に死ぬ」

私は少しだけ目を見開いた。

それは今まで一度も聞いたことのない種類の言葉だった。

規則の話ではない。

責任の話でもない。

ただの不安だった。


アーネスト自身の。

「二十年以上違う」

彼は続ける。


「病気になるかもしれん」

「そうですね」

「事故もある」

「ありますね」

「君を一人残す可能性が高い」


私はしばらく黙った。

それからため息を吐く。

「アーネストさん」

「何だ」

「その時は仕方ありません」

アーネストが固まる。

予想していた反応ではなかったらしい。


私は続けた。

「子どもが生まれたら守ります」

「……」

「ちゃんと育てます」

「……」

「ですから」

少し笑った。


「それまでは頑張って働いてください」

アーネストがこちらを見る。

私は笑顔のまま言った。

「家計がありますから」

数秒の沈黙。

やがて、アーネストは小さく息を吐いた。

そして、笑った。

「随分現実的だな」

「役所勤めですので」

「そうか」

「はい」

私はそこで少しだけ声を柔らかくした。


「でも」

アーネストが顔を上げる。

「できれば」

私は少しだけ笑った。

「少しでも健康で、長生きしてください」

それは命令でもお願いでもなく。

たぶん、未来の話だった。

アーネストはしばらく黙っていた。

そして、本当に小さく頷く。

「善処しよう」

私は思わず吹き出した。

健康管理を業務改善計画みたいに言わないでほしい。

けれど、それがアーネストだった。

未来の不安から逃げない。

過去の後悔からも逃げない。

だから私は、この人となら大丈夫だと思えた。



結婚式は親族だけで行った。

私もアーネストも、大規模な式を望まなかったからだ。

正確に言えば、アーネストは事前に式の規模ごとの比較表を作ろうとして私に止められた。

「結婚式を業務計画書みたいにしないでください」

と言ったら、

「そういうものなのか」

と真面目に返された。

たぶん、そういうものだと思う。

式そのものは穏やかだった。

ただ一人を除いて。


父である。

父は終始緊張していた。

無理もない。

私は平民の商家の娘だ。

一方でアーネストは三男とはいえ、王都の名門貴族。

ストリックランド家の人間だった。

私も貴族の一員となるのだ。自覚は薄いが。


「この度は娘をよろしくお願いします」

父は頭を下げた。

アーネストも頭を下げる。

「こちらこそ」

しばらく沈黙。


私は気付いた。

この二人。

実は父よりアーネストの方が年上だった。

二歳だが。

二歳だけだが。


父はそれも気にしているらしかった。

「いや、その」

珍しく歯切れが悪い。

「アーネスト殿」

「何でしょう」

「娘をよろしくお願いします」

二回目だった。


アーネストは真面目に頷く。

「任せてください」

父は少し安心した顔になる。

だけど、私は知っている。

この場で一番緊張しているのは、たぶんアーネストの方なのだ。


「いや、本当に娘は至らないところばかりで」

「異論はない」

私はアーネストの足を踏んだ。

アーネストが少しだけ顔をしかめる。

「失言だった」

私は言う。

「失言ですよ、本当に」

父は一人で慌てていた。

「いえ、そんな」


アーネストは少し考えた後、珍しく言葉を探すように口を開いた。

「不出来ではない」

父が固まる。

「優秀だ」

しばし沈黙。

「責任感がある」

「はい」

「仕事も正確だ」

「はい」

「信頼している」

父は何度も頷いていた。

たぶん、あの時少し泣いていたと思う。


帰り道、父は私に言った。

「立派な人だな」

「そう?」

「ああ」

少し考えてから続けた。

「だいぶ変わっているが」

私は吹き出した。

その評価はたぶん世界で一番正確だった。

そして、私はアーネスト・ストリックランドの妻になった。

クラリス・ストリックランドとなったのだ。


なお本人はその翌日、

「出産管理と計画について相談がある」

少しは別の話題が無かったのだろうか。

たぶん無かったのだと思う。


でも、それでいい。

この人は昔からそういう人だ。


誰より真面目で。

誰より面倒で。

そして誰より誠実な人だった。


だから私はきっと、これから先も退屈しない。と思い始めた。


その後。


勤務計画。

引継ぎ手順。

休職期間。

復職時期。

緊急時対応。


全部資料になっていた。

正直、少し引いた。

本人へそう言ったら。


「問題があるか」


と真顔で聞かれた。

問題しかない。

けれど、おかげで何も困らなかった。

そして半年で引継ぎを終わらせ、退職。


そしてその1年後予定通り。

とは言わない。

さすがに出産は計画書通りには進まなかった。

特に最後の一か月は周囲に散々心配された。

私としては元気だったのだが、周囲はそう思わなかったらしい。

特にアーネストが酷かった。


「無理をするな」

「してません」

「本当か」

「本当です」

「医師には相談したのか」

「しました」

「記録はあるか」

私はため息を吐いた。

そんな調子だった。


でも、私達の息子は無事に生まれた。


初めて抱いた時の感想は。

小さい。

だった。


本当に小さかった。

こんなに小さいのに。

ちゃんと泣いている。

ちゃんと生きている。


私は少し笑った。

「こんにちは」

たぶん聞こえていない。

でも言いたかった。

会えてよかった。と。


その時だけは。

役所のことも。

仕事のことも。

何も考えていなかった。


アーネストは助産師に抱かされた息子を見て、しばらく固まっていた。

「アーネストさん」

返事がない。

「アーネストさん」

まだ返事がない。

息子を見ていた。


私は少し心配になった。

「どうしました」

すると、ようやく口を開いた。


「そうか」

それだけだった。

「感想がそれですか」

「そうか」

二回目だった。

しばらく息子を見つめる。

指を見る。

顔を見る。

寝顔を見る。


そして。

「責任重大だな」

と呟いた。


私は吹き出した。

「第一声がそれですか」

「重要だ」

真面目に返された。

たぶん、この人は今、世界で一番幸せで。

世界で一番緊張していた。


そして父である。

病室へ来た瞬間、固まっていた。


「父さん」

返事がない。

「父さん」

まだ返事がない。

息子を見ている。


「可愛いな」

一回目。

「そうね」

「可愛いな」

二回目。

「そうですね」

「可愛いな」

三回目だった。


母がため息を吐く。

「壊れますよ」

父は慌てた。

「壊さない!」

「誰も壊すとは言ってません」

私は笑った。


父は恐る恐る息子を抱き上げる。

そして泣いた。

「父さん」

「泣いてない」

泣いていた。

完全に泣いていた。


隣を見る。

アーネストも息子を見ている。

同じような顔だった。

四十代の男が二人。

泣きそうな顔で、いや泣いている。

片方は父親。

片方は祖父。

なのに、二人とも初めて宝物を見つけた子供みたいな顔をしていた。

その光景を見ながら、私は思った。

ああ、きっと大丈夫だ。

この子は、たくさん愛されて育つ。


生まれて三か月。

息子は順調に育っていた。

順調過ぎるくらいだった。


よく泣く。

よく飲む。

よく寝る。


そして父親によく似ていた。


真顔になるところまで含めて。

それを見て、私は愛おしく思うのだ。


私はその日も息子を寝かしつけていた。

居間へ戻る。


するとアーネストが机に向かっていた。


紙がある。


手紙だった。


私はその光景に見覚えがあった。


昔も見た。


フィリアの件より前。


いや。

正確には息子が生まれる前にも見た。


アーネストは手紙を書く。


止まる。


考える。


書く。


止まる。


そして紙を見つめる。


前回との違いは一つ。


今度は破っていないことだった。


「進歩しましたね」


アーネストが顔を上げる。


「何がだ」


「前は破ってました」


沈黙。


否定しなかった。


図星らしい。


私は机に近付く。


手紙の宛名は書かれていない。


でも分かる。


娘だ。


「送るんですか」


「分からん」


「またそれですか」


「分からん」


本当に分かっていないらしい。


私はため息を吐いた。


「何年目ですか」


「何がだ」


「悩み始めてからです」


アーネストは答えない。


答えなくても分かる。


長い。

相当長い。


「会えばいいじゃないですか」


「……」


沈黙。


「それは」


珍しく歯切れが悪い。


「難しい」


私は思わず笑った。


王都監査も。


貴族との交渉も。


不法入国者の取り調べも。


全部やる男が。


娘に会うのだけ難しいらしい。


「怖いんですか」


アーネストが黙る。


そして。


本当に小さく頷いた。


私は少し驚いた。


この人が認めた。


怖いと。


「今さら会って」


彼は言う。


「何と言えばいいのか分からん」


「こんにちは、とか」


「違う」


即答だった。


「そうでしょうね」


私は笑う。


そして。


寝息の聞こえる部屋を見る。


私達の息子だった。


三か月前に生まれた。


アーネストが毎日見ている。


抱っこしている。


寝顔を眺めている。


その姿を私は知っている。


しばらくして。


アーネストがぽつりと言った。


「クラリス」


「はい」


「私は最近になって気付いた」


静かな声だった。


「息子が生まれてからだ」


私は黙って聞く。


アーネストは視線を息子の部屋へ向けた。


「毎日抱いている」


「ええ」


「泣けば起きる」


「そうですね」


「寝れば安心する」


「ええ」


「笑えば嬉しい」


私は小さく頷く。


アーネストは続ける。


「私は娘にそれをしていない」


息が止まった。


彼は前を見たまま言う。


「使用人に任せた」


「妻に任せた」


「生活に困らないだけの金は出した」


「必要な物も与えた」


淡々としていた。


だからこそ重かった。


「父親としての責任は果たしていると思っていた」


長い沈黙。


「だが違った」


小さく呟く。


「何も知らなかった」


拳が握られる。


「娘が何を好きだったのか」


「何を怖がっていたのか」


「何を読んでいたのか」


「いつ笑っていたのか」


「いつ泣いていたのか」


「私は何一つ知らん」


部屋は静かだった。


息子の寝息だけが聞こえる。


アーネストは目を閉じた。


「愛していなかった訳じゃない」


その声は掠れていた。


「だが」


長い沈黙。


そして。


「愛し方を間違えた」


私は何も言えなかった。


それは誰かへの言い訳ではない。


アーネスト自身が。


アーネスト自身へ下した判決だった。


「だから怖い」


彼は言う。


「会えば全部思い出す」


「私が父親として何をしなかったかも」


私は少し考えた。


そして。


笑った。


「じゃあ会いに行きましょう」


アーネストが固まる。


「今何と言った」


「会いに行くんです」


「いや」


完全に及び腰だった。


「心の準備が」


「何年準備するつもりですか」


沈黙。


私の勝ちだった。


「でも」


アーネストは息子のいる部屋を見る。


「私一人では」


その言葉を聞いた瞬間。


私は少し笑った。


この人は変わった。


昔なら絶対に言わなかった。


不安だと。


怖いと。


一人では無理だと。


だから私は言う。


「じゃあ」


アーネストが顔を上げる。


「私も行きます」


「……」


「息子も連れて」


「……」


「家族で行きましょう」


長い沈黙。


アーネストは机の上の手紙を見る。


それから私を見る。


そして息子のいる部屋を見る。


やがて。


本当に小さく息を吐いた。


「そうだな」


そして。


手紙を折り畳んだ。


今度は破らなかった。


それだけで。


私には十分だった。


私は笑う。


たぶん。


あの日フィリアを救った時から。


いや。


もっと前から。


この人は一人で全部抱え込む癖があった。


だから今度くらい。


少しくらい私を頼ってほしい。


私はもう。


主任官の部下ではなく。


アーネスト・ストリックランドの妻なのだから。



それから3か月が過ぎた。


「必要なものは持ちましたか」

アーネストが固まる。

「いや、ちょっと待ってくれ」


珍しく本気で動揺していた。

「何を待つんですか」

「心の準備をだ」


「昨日も言っていました」

「昨日と今日では状況が違う」


「違いません」

違わない。

私は断言した。


なぜなら昨日も今日も。

目的地は変わらないからだ。

元妻。そして娘。

会いに行く場所は同じだった。


アーネストは助けを求めるように息子を見る。


もちろん助けてくれることもなかった。


六か月の息子は父親の危機など知らず、機嫌良く手を振っていた。

「ほら」


私は笑う。

「息子も行く気ですよ」


「分からんだろう」

「行くそうです」


「そうか」

納得しないでほしい。

けれど少しだけ。


その表情が和らいだ。


私は息子を抱き上げる。

準備は終わっていた。


皆の着替え。

子どものおむつ。

毛布。飲み物。

全部確認済み。


夫の心だけが未確認だった。


「行きますよ」

「……分かった」


そう言った声は、どこか死地へ向かう兵士みたいだった。


私は吹き出す。

「そんな顔しないでください」


「難しい」

「またですか」

「難しいものは難しい」


本当にこの人はこういう時だけ弱い。

王都の貴族相手には平然としているのに。

娘相手には勝てないらしい。


馬車へ乗り込む。息子はすぐに眠った。

揺れが気持ちいいのだろう。


私はその寝顔を見て笑う。


アーネストは窓の外を見ていた。


たぶん、緊張している。


かなり、いや、とても。


だから私は言った。

「初めてですね」

「何がだ」

「家族旅行です」

アーネストがこちらを見る。


私は続けた。


「結婚して」

「息子が生まれて」

「三人で出掛けるのは初めてです」


少し沈黙。

それからアーネストは外を見る。

そして、小さく答えた。

「ああ」

その返事はどこか不思議そうだった。


今まで考えたこともなかったのかもしれない。

私は少し笑う。

この人は目的地ばかり見ている。


だから途中にある幸せを見落とす。




私の時もそうだった。


たぶん今も娘に会うことばかり考えている。


でも、本当は違う。


これは謝罪の旅ではない。

恐怖と向き合う旅でもない。

私達の家族がもう一つの家族へ会いに行く旅だった。


私は眠る息子の手を握る。

小さな指が握り返してきた。

思わず笑う。


その横でアーネストは静かに拳を握っていた。


怖いのだろう。

当たり前だ。

何十年も避け続けてきた相手なのだから。


でも今の彼は一人じゃない。


隣には私がいる。

膝の上には息子がいる。

だからきっと大丈夫だ。


馬車は揺れる。

元妻と娘の住む町へ向かって。


アーネスト・ストリックランドが、父親としてもう一度歩き出す場所へ向かって。

まさかの三段構成となりました。下段に続く。

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