第五話裏視点2・上
正直蛇足のような気もします。
<受付職員 クラリス>
私は困っていた。
目の前の少女のせいである。
銀色の髪。
旅人らしい外套。
年齢は私より少し下くらいに見える。
成人はしていないだろう。
幼さの残る顔が妙に気になった。
窓口に来たその子は、盗難届を出したいと言った。
だから私はいつも通り対応した。
「身分証明書と氏名をお願いします」
すると、少女は押し黙ってしまった。
身分証を携帯していないのだろうか。
それなら名前だけでも。
そう思った。
「氏名をお願いします」
「……分かりません」
思わず手が止まる。
名前もわからないなんて。
聞き間違いだろうか。
それとも言いたくないのだろうか。
「身分証明書はお持ちですか」
「ありません」
「出身地はどこでしょう」
「分かりません」
「身分を証明してくださる方はいらっしゃいますか」
少女は少し考えた。
そして。
「分かりません」
と言った。
私は黙り込む。
困った。
本当に困った。
嘘をついているようには見えない。
だからといって何とかなる話でもない。
氏名不明。
出身地不明。
身分証なし。
保証人なし。
盗難届を受けるだけのつもりだった。
気付いたら窓口職員の権限を超えた案件になっていた。
「少々お待ちください」
そう言って席を立った。
向かう先は決まっている。
主任官室だった。
「主任官」
「入れ」
入ると書類を読んでいる。
私は主任官へ声をかける。
「主任官」
「何だ」
返事は返ってくるが、相変わらず書類から顔を上げていない。
「少々、対応が難しい案件が」
主任官。
アーネスト・ストリックランドは小さく息を吐いてこちらを向いた。
「私が行く」
それだけ言って立ち上がる。
私は簡単に事情を説明しながら後を追った。
名前も答えてくれない。
身分証も無い。
たぶん未成年。
アーネストは何も言わなかった。
余計なことは言わない。
いつもそうだった。
窓口へ着く。
アーネストは少女を見る。
席へ座る。
「氏名は」
少女は答えた。
「分かりません」
私は横から見ていた。
主任官の手が止まる。
珍しい。
驚いているらしい。
本当に少しだけ。
けれどすぐ元に戻る。
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
しばらく話をした後。
少女の処遇は決まった。
留置所送りだった。
帰り道、私はどうにも納得できなかった。
事情は分かる。
本当に不法入国かもしれない。
身元不明だ。危険かもしれない。
それでも、あの子は悪人には見えなかった。
だから翌朝、私は聞いた。
「主任官」
「何だ」
「留置所に送る必要があったんですか」
「ある」
短い返事だった。
私は少しむっとする。
「でも」
言いかけたところで遮られた。
「氏名不明」
「身分証なし」
「保証人なし」
「未成年と思われる」
「夜間だ」
淡々と、感情抜きに事実だけが並ぶ。
「彼女を一人で放り出す方が問題だ」
私は口を閉じた。
その時初めて気付いた。
その言い方では拘束ではなく保護だった。
その日のうちに、宿屋の女将が役所へやって来た。
彼女と関係があるらしかった。
帳簿。
宿帳。
勤務記録。
証言。
色々提出した。
これであの子の身元も保証されて出られるだろう。
私は少し安心した。
その日のうちに少女は解放された。
私は内心ほっとした。
私が持ち込んだ案件だったからだ。
けれど、問題は終わらなかった。
数日後、例の少女が宿にも泊まれず。
仕事も見つからず。
町の外で生活しているという報告が上がる。
この町では身分証は必要不可欠だ。
私は思わず眉をひそめた。
「それで良かったんでしょうか」
昼休み、思わず口から出ていた。
「何がだ」
「例の子です」
少し沈黙。
「ああ」
覚えていたらしい。
「解放されたのに、結局困ったままです」
彼は何も言わない。聞いていないのかと思った。
「知っている」
短い返答。
「知っているんですか」
「報告は読んだ」
それだけだった。
私はその時気付かなかった。
机の端に、見慣れない古い法規集が積み上がっていたことを。
それから数日、主任官室の灯りは夜遅くまで消えなくなった。
私は知らなかった。
彼が、誰も読まない三百年以上も前の法規集を読み漁っていたことを。
そして、それがあの少女のためだったことも。
その後、主任官は刺された。
その日、私は書類を三回も間違えた。
自分でも信じられなかった。
寝不足のせいだと言い張った。
誰も信じなかった。
そして、翌日。
主任官は生還した。
職場に戻ってきた。
奇跡のような回復だった。
私は本当に安心した。
ただ彼があまりにも普段通りに来ていたものだから、少し怒ってしまった。
私の心配はなんだったんですか。
「主任官!」
彼は振り返る。
「無理をしないでください!」
彼が主任官室の前で振り返る。
いつもの顔をして、いつものように返事をした。
「仕事だ」
私は泣きそうになった。ただ彼が普通にいるだけなのに、だ。
「だからです!」
それを隠すために、いつもより強い口調になってしまった。
彼はそのまま扉を開けて、自席へ座った。
そして、奇妙なことが起きた。
「主任官」
「何だ」
「その書類ですけど」
机の上を指差す。
「見覚えがないのですが、なんでしょうか。」
『臨時身分証制度適用調査』
「分からん」
「え?」
「私が作ったらしい」
私は固まった。
気になって開いてみた。
どのページも確かに、主任官の字だった。
調査記録。
押印。
聞き取り。
全部ある。
なのに本人は覚えていない。
陳情書の一部には私が書きとったと思われる書類もあった。
でも、覚えていない。
陳情者の名前の欄には、こう書かれていた。
『フィリア』
「知らないな」
主任官が言う。
「私もです」
私もそう答えた。
本当に知らない。
けれど、知らない相手にしては資料が多すぎた。
そして、読み直した結果。
主任官の指が止まる。
「適用可能だな」
「何がです?」
「臨時身分証制度だ」
そんな制度、聞いたこともなかった。
「そんな制度あったんですか」
「私も今知った」
記録はある。記憶がない。
本当によくわからなかった。
そうして翌日、『フィリア』という名乗る少女がやって来た。
銀色の髪。
旅人らしい服装。
そして、どこか優しげな表情。
会ったことがある気がした。
でも思い出せない。
私は書類と少女の顔を見比べた。
やっぱり思い出せない。
それでも。
この書類が彼女の役に立つのなら。
それでいいと思った。
「臨時身分証の発行許可が出ています」
「……え?」
当然だ。
私だってよく分からない。
「担当官へ聞いてみますか」
そうして私は彼女を主任官室へ通した。
いくつか時間が経った後、彼女が主任官室から出てきた。
そのまま、王都入都申請課のほうへ向かっていった。
私は入れ替わるように、主任官室へ入った。
アーネストが珍しく先に口を開いた。
「……礼を言われた」
私は思わず笑った。
「よかったじゃないですか」
けれどアーネストは眉をひそめる。
「俺は規則に従ったまでだ」
少し間を置いて続けた。
「彼女に礼を言われるようなことはしていない」
やっぱり、そう言うと思った。
この人は、本当にそう思っている。
法規集を読み続けていたことも。
誰も知らない制度を探したことも。
大量の書類を調べたことも。
本人は覚えていないというが。
記録が残っている。
全部、本人の中ではただの仕事なのだ。
不器用だと思う。
けれど、そんなところが好きだった。
私は少し息を吸った。
「主任官」
アーネストが顔を上げる。
「何だ」
私は少しだけ笑って言い直した。
「……アーネストさん」
主任官の眉がわずかに動く。
声は思ったより落ち着いていた。
けれど、その手は無意識に握られていた。
彼はそれに気付いているのだろうか。
気付いていても、何も言わない。
ただ待つ。
私が話し終わるまで。
それがいつものやり方だった。
「一つ伝えたいことがあります」
彼は書類を閉じた。
「聞こう」
珍しいことだった。
少し驚いた。
この人は誰かと話していても平然と書類を読む。
それが悪意ではなく、本当に仕事だから困る。
今日は違った。
ちゃんとこちらを見ている。
だからこそ。
少しだけ緊張した。
「アーネストさん」
「何だ」
「あなたは、自分が何もしていないと思っていますよね」
少しの沈黙。
「規則に従っただけだ」
予想通りだった。
だから苦笑した。
「そういうところです」
「何がだ」
「臨時身分証制度です」
アーネストは黙った。
「あなたは覚えていないかもしれません」
「でも調査記録は残っています」
「勤務記録も」
「法規集の確認履歴も」
私は見せつけるように、机の上の書類を軽く叩いた。
「誰も知らなかったんです」
「ほかの役所の方ですら」
「私も知らなかった」
そして少し笑う。
「でも、あなたは見つけた」
「それが仕事だ」
「ええ、仕事です」
肯定されたので、今度はアーネストの方が少し意外そうな顔をした。
私は続けた。
「でも」
「仕事だからやった、ということと」
「誰かが助かった、ということは両立します」
アーネストは何も言わない。
「あなたがいなければ」
「あの子は身分証を持てなかったかもしれません」
「王都へ行けなかったかもしれません」
しばらく沈黙。
窓の外から馬車の音が聞こえる。
役所の廊下では誰かが走っている。
いつもの日常だった。
「結果論だ」
ようやくアーネストが答えた。
「制度は存在していた」
「私が見つけなくても、いずれ誰かが見つけた可能性はある」
「誰も見つけてませんでした」
即答だった。
「……」
アーネストが言葉に詰まる。
珍しい。
私は少しだけ勝ち誇った気分になった。
「三百年以上も誰も見つけてなかったんです」
「その理屈は無理があります」
「……必要なかっただけだろう」
「だからですね」
私は息を吐いた。
「もっと素直に受け取っていいと思うんです」
「何をだ」
「感謝をです」
アーネストは眉をひそめた。
本気で困った顔だった。
賄賂を渡される時より困った顔かもしれない。
……彼が賄賂を受け取ったという話は聞かないが。
「理由が分からん」
「でしょうね」
クラリスは笑った。
「でも、感謝する側は理由なんて考えてませんよ」
「助かったから感謝するんです」
「……」
私は続けた。
「だから」
そこで少しだけ自然と声が柔らかくなった。
「礼を言われたら。そうですか、と受け取ればいいんです」
長い沈黙。
やがてアーネストは小さく息を吐いた。
「難しいな」
「そうでしょうか?」
「規則書には書いていない」
思わず吹き出した。
本当にこの人はどうしようもない。
「書いてませんね」
「たぶんこれから書かることもないでしょう」
「なら困る」
真面目な顔で言う。
私は肩を震わせた。さすがに笑ってしまった。
その様子を見て彼はわずかに首を傾げた。
「何がおかしい」
本当におかしいように私に尋ねる。
「いえ」
首を振った。そして静かに言った。
「私は」
少しだけ間を置く。少し、恐い。
でも、このまま、勢いで。
そういうところが大好きなんです」
言ってしまった。
時間が止まった。
本当に、役所中の時計が止まったのではないかと思うほど。
アーネストが固まる。
完全に、書類仕事で一度も見たことがないほど固まった。
「……」
「……」
互いに沈黙。
廊下から声が聞こえる。
「主任官」
扉が開いた。
彼の部下、報告に来たであろう同僚だった。
そして室内の空気を察した。
一瞬で察した。
「あ」
それだけ言った。
そして。
「失礼しました」
静かに扉を閉めた。
彼は額を押さえた。
私は恥ずかしくて、顔を真っ赤にして俯いた。
しばらくして。
廊下の向こうから、
「おい」
「なんだ」
「今の見たか」
「見た」
「見たよな」
「見た」
という声が聞こえてきた。
クラリスは机に額をぶつけた。
アーネストは窓の外を見た。
その日、役所中へ噂が広まるまで、およそ一時間しか掛からなかった。
私は三日ほど出勤したくなかった。
無理だった。
仕事だから。
実際には午後からも窓口に座っていた。
座りながら死にたかった。
「お疲れさまです」
「……お疲れさまです」
同僚達の声が妙に優しい。
やめてください。
本当にやめてください。
そして隣の子が言った。
今年あたらしく入ってきた、私の数少ない後輩だ。
「あの」
嫌な予感がした。
「何でしょう」
「主任官はどうでしたか」
「何のことでしょう」
「今朝の件ですが」
「……何のことでしょう」
「今朝の件です」
「知りませんね」
「全職員が知ってます」
私は机へ額をぶつけたくなった。
その時だった。
主任官室の扉が開く。
当然、アーネストだった。
相変わらず無駄のない歩き方。
相変わらずの無表情。
そして、役所中の視線が集まっていた。
見事なまでに、全員。
アーネストは立ち止まった。
さすがに異常だと思ったらしい。
「何だ」
誰も答えない。
「何かあったのか」
誰も答えない。
私は心の中で叫んだ。
お願いだから答えてください。
すると古参職員の一人が咳払いした。
「主任官」
「何だ」
「その……順調ですか」
役所内の空気が凍った。
私は本当に死にたくなった。
アーネストは数秒考えた。
そして。
「業務は順調だ」
と答えた。
全員が顔を覆った。
意味が通じていない。
全く通じていない。
アーネストだけに通じていない。
そのままそれぞれに仕事を割り振ったかと思うと、何事もなく主任官室へ戻っていった。
私も数分後、必要な書類を持って主任官室へ入った。
扉を閉める。
するとアーネストが書類から目を離さないまま言った。
「様子がおかしい」
「誰のですか」
「全員だ」
そりゃそうです。
「心当たりはありませんか」
「ない」
即答だった。
本当にないらしい。
私は椅子へ腰掛けた。
そして少し迷った。
言うべきだろうか。
だが言わなければ、この人は永遠に気付かない気もした。
「主任官」
「何だ」
「今朝のことです」
そこでようやく顔を上げる。
「今朝?」
「私が言ったことです」
沈黙。
そして。
「ああ」
覚えていた。
少し安心する。
だが次の言葉で安心は吹き飛んだ。
「感謝は受け取れという話か」
違う。
違うんです。
私は両手で顔を覆った。
アーネストが眉をひそめる。
「違うのか」
「違います」
「……そうか」
彼は真面目に考え始めた。
数秒後。
「規則の話か」
「違います」
「では何だ」
本気で分からないらしい。
私は天井を見た。
助けてほしい。
誰でもいいから。
もちろん助けは来ない。
だから観念した。
「あのですね」
「うむ」
「最後です」
「最後?」
「最後に私が言ったことです」
アーネストは思い出そうとする。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やがて。
「ああ」
思い出したらしい。
そこまでは良かった。
だが。
彼は困惑した顔で言った。
「好きだと言われた」
私は机へ突っ伏した。
死ぬほど恥ずかしい。
本人の口から言われると破壊力が違う。
しかも声に一切の照れがない。
事実を報告する時と同じ声だった。
「クラリス」
「やめてください」
「確認したい」
「嫌です」
「重要だ」
重要案件みたいに言わないでほしい。
私は観念した。
顔を上げる。
アーネストは珍しく少し困っていた。
窃盗犯相手でも。
貴族相手でも。
上司相手でも。
こんな顔は見たことがない。
「確認する」
「……はい」
「昨日の発言は」
彼はそこで言葉を選んだ。
信じられないことに、アーネスト・ストリックランドが言葉を選んでいた。
「比喩ではなく、恋愛的な意味で”好き”で受け取っていいのか」
私は思わず笑ってしまった。
本当に、この人は。
「はい」
小さく答える。
「恋愛的な意味です」
長い沈黙。
そして。
さらに長い沈黙。
アーネストは何も言わない。
私は不安になった。
やっぱり迷惑だっただろうか。
二十一歳差だ。
当然かもしれない。
そう思った時だった。
「一つ確認していいか」
「はい」
「私の年齢は把握しているな」
「しています」
「四十一だ」
「知っています」
「君は二十だ」
「それこそ、知っています」
「周囲は反対すると思う」
「するでしょうね」
「君の父親はいくつだ」
「……三十九です」
「私よりも若いな」
本当だ、盲点だった。
「……それでも、好きになってしまったんです」
「話していないが、……私にも娘がいる。お前と同じぐらいだ」
「……知りませんでした。が、関係ないことです」
「性格も良くない」
「それは違います」
即答した。
アーネストが少し黙る。
私は続けた。
「融通は利きません」
「うむ」
「面倒です」
「そうか」
「仕事ばかりです」
「すまない」
「でも」
少し笑った。
「嘘をつきません」
「……」
「責任から逃げません」
「……」
「困った人を見捨てません」
銀髪の彼女の書類。
三百年前の法規集。
誰も知らない制度。
全部思い出す。
「私はそういう人が好きなんです」
静かな沈黙が落ちた。
窓の外では馬車が通り過ぎる。
いつものフロントニアの昼だった。
やがて、アーネストはゆっくり息を吐く。
そして。
「困ったな」
と呟いた。
「嫌ですか」
私は彼を困らせてしまったのかと、思った。
「それは違う」
即答だった。
今度は私が固まる番だった。
アーネストは視線を落とす。
まるで難解な法令でも読むように。
慎重に。
不器用に。
そして言った。
「私は」
言葉を探す。
こんなアーネストを見るのは初めてだった。
「そういう経験がない」
「……はい?」
「だから正しい対応が分からん」
思わず吹き出した。
恋愛を窓口業務みたいに言わないでほしい。
だが、それがアーネストだった。
誰より真面目で。
誰より不器用で。
そしてたぶん。
誰より誠実だった。
アーネストはしばらく黙っていた。
沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。
「なにか言ってください」
「考えている」
「何をですか」
「正しい対応を」
やっぱりそれだった。
私は額を押さえた。
この人は本当に。
「恋愛に正しい対応なんて、正解なんてありません」
「そんなはずはない」
即答だった。
「人間関係には適切な手順がある」
「手順書みたいに言わないでください」
「無いのか」
「ありません」
アーネストは困った顔をした。
どうやら本気で困っているらしい
法律なら調べればいい。
規則なら確認すればいい。
過去の判例も記録もある。
だが恋愛にはない。
彼にとっては未知の案件だった。
「……クラリス」
「はい」
「一つ聞く」
嫌な予感がした。
「なんでしょう」
「いつからだ」
「……」
今度は私が固まる番だった。
「いつから私をそう見ていた」
そんなもの、私が知りたい。
最初は怖かった。
鬼みたいな主任官だった。
規則は曲げない。
書類は突き返す。
不備は許さない。
住民からの評判も最悪だった。
けれど、責任から逃げなかった。
面倒な案件ほど自分で引き受けた。
部下の失敗を庇ったこともある。
理不尽な苦情を一人で受けていたこともある。
そして何より、嘘をつかない。
「気付いたらです」
私がそう答えると。
アーネストは少し考えて、
「参考にならんな」
と言った。
私は思わず笑ってしまった。
「参考にしなくていいんです」
「だが理由を把握したい」
「仕事じゃないんですから」
「そうらしいな」
そう言ったアーネストは、珍しく少しだけ疲れた顔をしていた。
もしかしたら、刺された時より困っているかもしれない。
私はふと思った。
この人はもしかしたら、断る理由を探しているわけではない。
むしろ逆なのではないか。
受け入れていい理由を探している。
だから年齢を言う。
娘の話をする。
周囲の目を気にする。
自分の欠点ばかり並べる。
まるで「本当にそれでいいのか」と確認するように。
その時だった。
アーネストが不意に言った。
「私は失敗している」
私は首を傾げた。
「何がですか」
「結婚だ」
室内が静かになる。
彼は前を見たまま続けた。
「仕事を優先した」
「家庭を後回しにした」
「妻にも娘にも苦労をかけた」
声は淡々としている。
けれどこの人が本当に後悔していることくらい、私にも分かった。
「今でも会いに行けていない」
短い言葉だった。
だが重かった。
「そんな人間だ」
私は少し考えた。
それから、椅子から立ち上がる。
机を回り込む。
アーネストが不思議そうな顔でこちらを見た。
「何だ」
「失礼します」
そう言って、私は彼の頭を軽く叩いた。
ぱしっ、と。
アーネストが固まる。
人生で初めて職場の上司を叩いたかもしれない。
しかも主任官だ。
「何をする」
「説教です」
「規則違反だぞ」
「では始末書を書きます」
「そうか」
真面目に納得しないでほしい。
私は大きくため息を吐いた。
そして言った。
「アーネストさん」
「何だ」
「失敗したんですよね」
「そうだ」
「後悔してるんですよね」
「している」
「だったら今度は同じ失敗をしなければいいだけです」
アーネストは黙った。
私は続けた。
「私はあなたの元奥さんじゃありません」
「ああ」
「娘さんでもありません」
「……ああ」
「私は私です」
静かな声で言った。
「だから私を見てください」
アーネストは答えない。
けれど目を逸らさなかった。
長い沈黙の後。
アーネストはゆっくり口を開いた。
「……少し時間をくれ」
私は笑った。
この人らしい答えだった。
「どれくらいですか」
「分からん」
「長いですね」
「重要案件だからな」
また案件扱いだ。
だけど。
以前と違っていた。
彼はもう「駄目だ」とは言わなかった。
だから私は頷いた。
「待ちます」
するとアーネストは少しだけ眉をひそめた。
「なぜだ」
私は笑う。
本当に仕方のない人だ。
そして、誰より不器用で、誰より真面目で。
そんな主任官に向かって言った。
「大好きだからです」
その日アーネスト・ストリックランドは。
王国北部都市フロントニアで最も難解な案件を抱えることになった。
フィリアの身元不明事件よりもどんな監査案件よりも難しい。
ただ一人の受付職員に関する案件だった。
実はもう少しだけ続きます。




