第五話「真面目な役人・下」
町の外、私は草の上へ腰を下ろします。
あれから数日、町はやはり息苦しそうです。
町には入れます。
けれど宿に泊まれません。
仕事を探しました。
けれど見つかりません。
身分証を求められるからです。
荷運び。
店番。
倉庫整理。
どれも途中までは順調でした。
「身分証は?」
そして終わります。
翌日も。
その翌日も。
結果は同じでした。
私は手帳を開きます。
『今日は仕事が見つからなかった』
少し考えます。
そして追記しました。
『昨日も見つからなかった』
さらに考えます。
『一昨日も見つからなかった』
思わず苦笑しました。
記録になっていません。
私は夜空を見上げます。
星が瞬いています。
もう、この町で出来ることは無さそうでした。
戸籍が無いから。
身分が証明できないから。
春の夜風は冷たくありません。
けれど、温かくもありませんでした。
どうすれば良いのでしょう。
同じことばかり考えていました。
それだけでした。
私は手帳を取り出します。
『また会える気がする』
エリーゼとミア、二人と別れるときに書いた文字を見つめました。
それから、少し考えてから。
『大きな町』
そう書きます。
『皆、息苦しそうだった』
さらに一行。
『私は少し困っている』
思わず苦笑しました。
少しどころではない気がします。
翌朝、今日も町へと向かうのでした。
この町ではもうできることはありません。
私は数日かけて町の中を調べていました。
宿には泊まれません。
仕事もありません。
私も、正直疲れてきました。
ここは、もう少し行けば王都へと行ける町です。
そろそろ、王都へと行くのも手でしょう。
ここからさらに北へ進んだ場所。
この国で最も大きな都市。
そこには「水の魔女」がいるらしいのです。
水の魔女は回復魔法が使えると聞きました。
魔法を使える方は、この世界でもかなり少ないみたいです。
そこで、私の回復の秘密が分かれば。
私の記憶が完全に戻れば。
私の身元もどうにかなるかもしれません。
そう思ったのです。
私は役所へ行きました。
牢へ入れられた時とは別の窓口です。
「王都へ行きたいのです」
受付の女性は慣れた様子で頷きました。
「王都へは各都市が発行する、入都許可証が必要です」
「入都許可証の発行は身分証が必要です」
「身分証をお持ちですか?」
私は首を振ります。
「ありません」
女性の表情が僅かに曇りました。
「それでは発行手続きが必要です」
発行できるのなら、少しだけ希望が見えました。
「どうすればいいでしょう」
私が尋ねると、女性は書類をめくります。
やがて、手が止まりました。
「戸籍は?」
「……ありません」
「……出生記録は?」
「……知りません」
「……保証人は?」
私は少し考えます。
エリーゼさん達の顔が浮かびました。
けれど、町の住人ではありません。
「……いません」
女性は困った顔をしました。
「……それでは発行できません」
静かな声でした。
「大変、申し訳ないのですが。身元を証明できない方へ身分証は発行できません」
私は黙りました。
理屈は分かります。
けれど不思議でした。
身元を証明できないから身分証がない。
身分証がないから身元を証明できない。
どちらが先なのでしょう。
私には分かりませんでした。
私は確かにここにいるはずなのに制度の中では、どこにもいない人なのでした。
それは少しだけ、寂しいことのように思えました。
結局、王都へ行く方法も見つかりませんでした。
王都へ行けない。
ここにも居場所がない。
では、別の町へ行きましょう。
旅人なのですから。
私は手帳を閉じます。
幸いなことに、道は一つではありません。
そう考えたのでした。
翌朝、この町を立とうと食料品を買いに市場に入ると。
遠くから叫び声が聞こえます。
「人が刺されたぞ!」
私は顔を上げました。
町の門の方が騒がしい。
人が走っています。
兵士も、警邏も、何かが起きたようでした。
私は少し迷います。
けれど、足は自然と動いていました。
門へ向かいます。
人だかりができていました。
地面には血。
倒れている男。
見覚えがありました。
役所の役人でした。
私を牢へ入れた人です。
「あ……」
胸が少しだけ重くなります。
周囲から様々な声が聞こえました。
「とうとうやられたか」
「当然だ」
「恨まれていたからな」
「自業自得だ」
誰も近付こうとしません。
役人は苦しそうに呼吸していました。
兵士達が人を押し退けています。
けれど、医者はまだ来ていません。
医者でも助けられるのでしょうか。
それもわかりません。
私は立ち尽くしました。
助けられます。
助けようと思えば、助けられます。
胸元の手帳に触れました。
その時、オスカーさんの顔が浮かびます。
『それで十分なんですよ』
受け入れていた老人。
次に、ミアさんの顔が浮かびました。
『また会ったら自己紹介すればいいじゃん』
そう言って笑っていました。
私は目を閉じます。
助けるべきなのでしょうか。
分かりません。
この人は私を困らせました。
宿にも泊まれませんでした。
町から追い出されました。
今もこの人のせいで私は困っています。
町の人もこの人にはいい感情を持っていません。
けれど、私は知らないうちに。
この人のことを考えていました。
嫌われている人。
皆に憎まれている人。
それでも毎日働いている人。
その人が、今ここで死のうとしていました。
私は近づき、彼のそばで膝をつきます。
兵士が叫びました。
「何をしている!」
私は答えません。
ただ、私は役人の傷口へ手を伸ばしました。
手に血が付着します。
温かい血でした。
まだ生きています。
胸が上下しています。
弱く、途切れそうに。
兵士達が叫んでいました。
「離れろ!」
「何をしている!」
けれど、その声は遠く聞こえました。
私は役人の顔を見ます。
この人のせいで。
宿へ泊まれませんでした。
仕事も見つかりませんでした。
町を追い出されました。
正直、優しい人だとも思いません。
好きでもありません。
けれど、死んでほしいとも思いませんでした。
私は目を閉じます。
オスカーさん。
あなたなら、どうしたでしょう。
答えは返ってきません。
当然です。
けれど、ひとつだけ分かることがありました。
私は、この人に生きていてほしかったのです。
それだけでした。
手帳へ触れます。
また忘れるのでしょう。
皆の名前を。
皆の顔を。
皆の声を。
そして、皆の思い出を。
それでも、私は手を伸ばしました。
淡い光が溢れます。
春の夜風が吹きました。
まるで、満開の花畑を通った時の風のようでした。
そして、役人の傷がゆっくりと塞がり始めたのでした。
傷口から血が止まります。
裂けていたはずの肉が。
ゆっくりと閉じていきました。
ざわり。
人々が息を呑む音が聞こえます。
兵士の一人が言葉を失いました。
「な……」
誰も動けません。
血だまりの中にいた役人の呼吸が、少しずつ落ち着いていきます。
先ほどまで今にも消えそうだった命が確かにそこにありました。
私は静かに手を引きます。
胸の奥が少しだけ重くなりました。
ああ。
またなのだと。
私は理解していました。
私はこの人のことを忘れるのでしょう。
今日この瞬間も。
少しずつ。
少しずつ。
失っていくのでしょう。
不思議と、怖くはありませんでした。
――さんが教えてくれたからです。
失うことと、無くなることは同じではないのだと。
光が薄れていきます。
春の風が吹き抜けました。
役人の呼吸が少し深くなります。
そして、ゆっくりと目を開けました。
そこにあったはずの致命傷は、完全に存在していませんでした。
役人は自分の左脇に手を当てます。
信じられないものを見るような顔でした。
そして、ゆっくりと私を見ます。
初めてでした。
あの冷たい目が、本当に驚いたように見えたのは。
私は何も言いません。
役人も何も言いません。
ただ、少しだけ目線が合いました。
「君は……」
かすれた声でした。
けれど、その言葉は最後まで続きません。
役人の瞼がゆっくり閉じます。
そして、意識を失いました。
周囲の兵士達が慌てて声を上げます。
「担架だ!」
「医者を呼べ!」
「早く!」
私は静かに立ち上がりました。
周囲はまだ混乱しています。
だから誰も私を止めません。
私はその場を離れました。
その翌日、役人は目を覚ましたそうです。
奇跡的な回復だったと。
皆が言っていました。
けれど、役人自身は一つだけ不思議なことがあったそうです。
死ぬはずだった。
その自覚はあった。
なのに、どうして助かったのか思い出せない。
自分を助けた誰かがいた気がする。
けれど、誰だったのかだけが思い出せない。
そんなことを周囲へ話したそうです。
私はその話を聞きませんでした。
知ることもありませんでした。
それから数日後。
私は再び役所を訪れていました。
王都へ行くことは諦めていたはずでした。
けれど、どうしてでしょう。
一度だけ、もう一度話を聞いてみたくなったのです。
あの役人のことが少し気になっていたのかもしれません。
窓口へ向かいます。
すると職員の方が書類を見て首を傾げました。
「フィリア、さんですか」
私は頷きます。
「はい」
職員は少し考えるような顔をしました。
「以前、こちらへ何かの手続きに来られましたか」
「そうみたいです」
私は苦笑します。
おそらく、ここで手続きをしたことがあるのでしょう。
けれど私は覚えていません。
職員もどこか不思議そうでした。
私の顔を見ているのに、思い出せないような。そんな様子です。
しばらく書類へ目を通していた職員は、こちらに向けて笑顔で答えました。
「臨時身分証の発行許可が出ています」
私は目を瞬きました。
「……え?」
思わず聞き返します。
職員は一枚の書類を取り出しました。
「こちらですね」
そこには確かに許可印が押されていました。
私はしばらく書類を見つめます。
「どうしてでしょう」
思わず呟きました。
職員は肩を竦めます。
「担当官へ聞いてみますか」
以前と同じです。
相変わらず忙しそうでした。
書類を確認して誰かを叱っています。
そうして、また別の書類に印を押しています。
相変わらず忙しい人なのだと思いました。
私は近付きます。
役人は顔を上げました。
けれど、その目に覚えはありません。
当然です。
私も忘れています。
あの人も忘れているのでしょう。
「あの」
役人は事務的に答えました。
「何か」
私は臨時身分証を見せます。
「これを許可してくださったのですか」
役人は書類を見ました。
少しだけ考えます。
そして。
「そうらしいな」
本当に他人事みたいな口調でした。
私は首を傾げます。
「どうしてですか?」
役人は机の上の書類を整理しながら答えました。
「規約に従ったまでだ」
私は思わず瞬きをします。
役人は続けました。
「規約を見直した」
「例外規定があった」
「条件に合致していた」
「だから適用した」
「それだけだ」
そんな言い方でした。
感謝もない。恩着せがましさもない。
ただ仕事の話をしている。
私は少しだけ笑います。
「そうですか」
役人は小さく頷きました。
「本当に、それだけだ」
私は静かに頭を下げます。
「ありがとうございます」
役人は少しだけ眉をひそめました。
「礼を言われるようなことではない」
「規則通りだ」
それもきっと本音でした。
立ち去る前、私はふと足を止めました。
「あの」
役人は書類から目を離しません。
「何か」
私は少しだけ迷います。
それから尋ねました。
「あなたのお名前は何ですか」
役人の手が止まります。
しばらくして、面倒そうに顔を上げました。
「なぜそんなことを聞く」
私は首を傾げます。
「なんとなくです」
役人はため息を吐きました。
「そこに書いてある」
そう言って机の端を指差します。
私は視線を向けました。
小さな名札。
『アーネスト』
そう書かれていました。
私はその名前を心の中で繰り返します。
アーネストさん。
それから静かに頭を下げました。
「ありがとうございました」
役人は眉をひそめます。
「だから、礼を言われるようなことではない」
「規則通りだ」
先ほどと同じやりとりに、私は小さく笑います。
「そうですね」
それだけ言って彼の机を後にしました。
その後、窓口で王都への入都申請を行いました。
手の中には臨時身分証。
そして入都許可証。
王都へ行けます。
役所を出ると、春の風が吹いていました。
私は胸元から手帳を取り出します。
ページを開きました。
少し考えます。
そして一行だけ書き足しました。
『真面目な役人 アーネスト』
さらに書き加えます。
『厳格な人だった』
それだけでした。
私は手帳を閉じます。
たとえ忘れたとしても、それで終わりではないのでしょう。
また会って。
また知って。
また記録すればいいのですから。
そう思いました。
役所を出て振り返ると、窓から忙しそうに働くアーネストさんの姿が見えました。
本当に忙しそうです。
私は小さく頭を下げました。
後から知ったことですが、役所の古い規約が見直されたそうです。
戸籍が存在しない者。
戦災や災害で出生記録を失った者。
特別な事情を持つ者。
そのような人間へ発行できる臨時身分証制度。
誰にも使われていなかった例外規定です。
誰かがそれを見つけ適用できる事例を精査し運用を整理したのだとか。
私は詳しいことを知りません。
知る機会もありませんでした。
ただ人間、ほんの少し丸くなるくらいがちょうどいいのかもしれません。
そう思いました。
誰かを理解できなくても、好きになれなくても。
それでも、生きていてほしいと思うことはあるのでしょう。
春の風が吹いていました。
私は手帳を抱えます。
そして、王都への道を歩き始めたのでした。




