第五話「真面目な役人・上」
あまりにも長くなったので上下編です。上下編は初投稿です。
オスカーさんの村を出てから数日。
私は街道を歩いていました。
春の風が吹いています。
以前よりも暖かくなりました。
私は道端の石へ腰掛けます。
そして胸元から手帳を取り出し、開きました。
『花畑の老人 オスカー』
その文字を見つめます。
そしてその下に続きを書き始めました。
『花は弱い』
そう書きます。
『人間より、ずっと弱い』
さらに書き足します。
『ですが、毎年きちんと春を連れてきてくれる』
ペンが止まりました。
今までの私なら、ここまで書かなかったでしょう。
私はこれまで、なるべく短く記録を残していました。
名前。場所。願い。
ただ、それだけです。
理由は簡単でした。
忘れた時に、寂しくなると思っていたからです。
思い出せない人の話を読む。
覚えていない思い出を眺める。
それはきっと辛い。
だから私は、必要最低限だけを書いてきました。
けれど、私はゆっくりと続きを書きます。
オスカーさんの話。
リリーさんの話。
花畑の話。
春の話。
きっと、また忘れてしまうのでしょう。
いつか、この文字を書いたことすら忘れてしまうのでしょう。
その時、この手帳を読んだ私は、きっと少し寂しくなる。
それでも、私は残そうと思いました。
オスカーさんとの時間は、忘れても無かったことにはならないからです。
そして、いつかの私がこの記録に助けられるかもしれないからです。
私は静かに手帳を閉じました。そして再び歩き始めました。
その日の夕方。私は大きな町へ辿り着きました。
町を囲う城壁。
沢山の人。
沢山の馬車。
整備された石畳。
今まで訪れたどの町よりも大きいかもしれません。
「すごい……」
思わず呟きました。
ですが、何かがおかしいのです。
人は沢山います。店もあります。商人もいます。
けれど、誰もがどこか息苦しそうでした。
兵士を見ればどこか忙しない感じで。
役人を見れば目を逸らされます。
市民の話し声も少ない。
春なのに、町だけが少し曇っているようでした。
私は首を傾げながら歩きます。
その時でした。誰かと肩がぶつかります。
「あっ」
振り返ります。ですが、その誰かは人混みの中へ消えてしまいました。
「すみません」
聞こえるはずもありません。
私は、ぶつかって乱れたマントを整えようとします。
そして、胸元へ手を伸ばします。
固まりました。
ありません。
手帳がありません。
「……え?」
もう一度探します。
やはりありません。
鞄の中。服の中。周囲の石畳を見渡します。
どこにもありません。
頭の中が真っ白になりました。
あの手帳には、今まで出会った人達がいました。
『農場の老夫婦』
『春を待つ少女』
『吹雪の宿屋』
『雪の日の兄妹』
『花畑の老人』
全部。
全部です。
私は慌てて走り出し、ぶつかった人を追いかけました。
探します。
人混みを見ます。
路地へ入ります。
何度も。 何度も。 何度も。
けれど見つかりません。
日が沈む頃。 私は石段へ座り込んでいました。
どうしましょう。
初めてでした。
本当に、途方に暮れてしまいました。
お金ではありません。
食べ物でもありません。
無くしたのが手帳だったからです。
手帳は私の失った記憶。
そしてこれから失うかもしれない記憶。
そのものだったからです。
思わず俯いていると、近くを通った女性が声を掛けてきました。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
私は事情を説明します。
女性は少し困った顔をしました。
「それなら役所へ行きなさい」
「盗難届を出せば見つかるかもしれないわ」
私は顔を上げました。
「役所ですか」
「ええ」
見つかるかもしれない。
その言葉だけを信じて、私は役所へ向かいました。
立派な石造りの建物でした。
中へ入ります。
空気が重い。
そんな印象を受けました。
役人達が机へ向かっています。
並んでいる人達の顔も硬い。
時間を見ると、そろそろ受付が終了しそうな時間です。
私は急いで受付へ向かいました。
「次の方」
声が聞こえました。
私は窓口へ向かいます。
若い女性職員でした。
机の上には書類が積まれています。
「用件は何でしょうか」
「手帳を盗まれてしまって」
女性職員は紙を取りました。
そして事務的に尋ねます。
「身分証明書と氏名をお願いします」
私は口を開きました。
けれど、言葉が出ません。
フィリアという名前は覚えています。
けれど、それは……老夫婦が付けてくれた名前です。
本当の名前かどうかは分かりません。
身分証明書も持っていません。
「氏名をお願いします」
「……分かりません」
女性職員の手が止まりました。
「身分証明書はお持ちですか」
「ありません」
「出身地はどこでしょう」
「分かりません」
「身分を証明してくれる方はいらっしゃいますか」
私は少し考えました。
けれど、誰も思い浮かびません。
「……分かりません」
女性職員は困ったような顔になりました。
私も分かっています。
とても怪しいです。
名前も分からない。
出身地も分からない。
身分証も無い。
私だって逆の立場なら疑うでしょう。
女性職員はしばらく悩んでいましたが、やがて立ち上がりました。
「少々お待ちください」
そう言って奥へ向かいます。
しばらくして別の人物が現れました。
四十代くらいでしょうか。
黒い上着。
疲れた顔。
そして、驚くほど冷たい目でした。
女性職員が小声で説明します。
「主任官、この方です」
役人は私を見ます。
数秒、それだけでした。
「私が聞く」
女性職員が席を譲ります。
役人は椅子へ座りました。
「氏名は」
その声は低く。
感情が感じられませんでした。
私は答えます。
「分かりません」
役人の眉が僅かに動きました。
「……氏名は」
「分かりません」
役人の圧が強くなっている気がしました。
「本当にか」
「はい」
役人の手が止まります。
役人は私を見つめていました。
しばらくして、静かに口を開きます。
「不法入国の疑いがある」
私は頷きました。
「そうですか」
役人の眉が少しだけ動きます。
怒ると思ったのでしょうか。
ですが私は怒れませんでした。
説明できないのです。
名前も。故郷も。家族も。
本当に分からないのですから。
そしてその日の夜。
私は盗難被害者でありながら、牢の中にいました。
冷たい石壁に背を預けます。
不安はありませんでした。
けれどただ一つだけ。
どうしても、手帳を見つけたかったのです。
あの中には、今まで出会った人達がいました。
名前を忘れてしまった人達。
もう顔も思い出せない人達。
それでも確かに大切だった人達。
私は膝を抱えます。
もし、戻ってこなかったら。
そう考えて胸が少し苦しくなりました。
けれど、私は目を閉じます。
オスカーさんが教えてくれました。
春は来ること、そしてたとえ失われても残るものがあることを。
花畑は残りました。
想いも残りました。
人の心も残りました。
そして、まだ私も覚えています。
だからきっと、手帳が無くなったとしても全てが無くなるわけではないのでしょう。
そう思います、思いますが。
やっぱり返してほしいです。
だって、大切なのですから。
私は小さく息を吐きました。 そして鉄格子の向こうを見つめたのでした。
その時、廊下の向こうから、女性の大きな声が聞こえてきたのです。
「ちょっと待ちなさい!」
廊下の向こうから女性の大きな声が聞こえてきました。
聞き覚えがあります。
けれど、誰の声だったでしょう。
思い出せません。
「ですから駄目ですよ」
男の声が返ってきます。
少し困っているようでした。
「少しだけでいいんだって!」
「少しだけじゃないんですよ」
ため息混じりの声。
「こんな時間ですし、規則ですし」
「怒られるのは自分なんですから」
「そんなこと言ってる場合かい!」
女性の声がさらに大きくなりました。
「女の子が牢屋に入れられてるんだよ!」
「それは聞いてますけどね」
「だったら会わせなさい!」
「ですからですね……」
男は完全に困り果てているようでした。
「本当に少しだけ!」
「少しだけですよ?」
「本当に少しだけですからね?」
声が少し近付きます。
「ありがとう!」
「いや、まだ許可した訳じゃ……」
言い終わる前に足音が近付いてきました。
どうやら押し切られたようです。
「フィリア?」
若い娘がこちらを見ていました。隣には年上の女性もいます。
私は二人を見つめました。
どこか見覚えがあります。
けれど、思い出せません。
「本当にフィリアなの?」 娘さんが言います。
私は小さく頭を下げました。
「ごめんなさい」
娘さんの表情が固まります。
「たぶん、お会いしたことがあると思います」
私は胸元へ手を当てました。
「でも、思い出せないんです」
しばらく沈黙が流れます。
やがて年上の女性が息を吐きました。
「そういうことなのね」
怒った様子はありませんでした。
むしろ少し悲しそうでした。
「私はエリーゼ」
「私はミア」
私は二人の名前を頭の中で繰り返しました。
不思議でした。
どこか暖かい気がしたのです。
そういえば、手帳に記されていました。
『宿屋の奥様、エリーゼ』
『宿屋の娘、ミア』
文字だけは覚えていました。
顔は思い出せません。
声も思い出せません。
一緒に過ごした時間ももう曖昧です。
けれど、その文字を書いた時の私はきっと二人のことを大切だと思ったのでしょう。
だから
「エリーゼさん」
私はゆっくり名前を呼びます。
「ミアさん」
するとミアさんは少しだけ困った顔をしました。
「本当にごめんなさい」
彼女たちは覚えてくれました。
それでも、私は思い出せませんでした。
「やっぱり覚えてないんだね」
私は小さく頷きます。
「ごめんなさい」
胸の奥が少し痛みました。
覚えていたかったのです。
二人と、他の人と楽しい時間を過ごしたのでしょう。
それなのに私は思い出せません。
「本当に変な子」
ミアさんは苦笑しました。
「覚えてないのはフィリアのせいじゃないんでしょ」
隣でエリーゼさんも頷きます。
「そうよ」
「そんな顔しなくていいの」
私は少しだけ目を伏せました。
優しい人達だと思いました。
どうしてそう思ったのかは分かりません。
けれどなんとなく。
そう思ったのです。
「でも、どうしてここに?」
私は首を傾げました。
ミアさんが目を瞬きます。
「え?」
「どうして私がここにいると分かったのですか」
するとエリーゼさんは苦笑しました。
「たまたまだよ」
「たまたま?」
「冬も明けたし、買い出しで市場に来てたんだ」
「このあたりじゃ一番大きい市場だからさ」
「でも遠いんじゃ」
私は3週間ほどかけてここまで来ました。
「遠いって言っても、馬車で2、3日もあれば来れるよ」
「春になれば定期便も出てるし」
「そうなんですか……」
わたしは軽く、カルチャーショックを受けました。
「それはそうと、役所の前を兵士に連れて行かれてる銀髪の子が見えてね」
「最初は似てるだけかと思ったのよ。でもミアが飛び出していっちゃって」
「だってフィリアだったもん!」
私は二人に事情と経緯を話しました。
事情を聞いた二人は顔を見合わせます。
「とりあえず、この子を出してもらわなきゃ」
エリーゼさんが言いました。
「本当はこんなところ、すぐ出してあげたいんだけど」
「ごめんなさいね。 少し待ってて」
エリーゼさんは少し困ったように笑いました。
「私は伝手はあるから、朝から手帳探してくる!」
ミアさんが言います。
「絶対見つけてくる!」
2人はそういいながら、宿に戻りました。
エリーゼさんは役人へ掛け合うために。
ミアさんは手帳を探しに。
二人とも慌ただしく去っていきます。
私には何もできません。
固いベッドに横になりました。
どれくらい時間が経ったのでしょう。
翌朝、エリーゼさんが再び戻ってきました。
両手には見覚えのない帳簿が抱えられています。
どうやら宿へ戻っていたようでした。
「フィリア」
そう言って彼女は鉄格子の前に立ちます。
「今からもう一度話してくるわ」
その後、私は牢から出されエリーゼさんと一緒に陳情へ向かったのでした。
そうして昨日の役人のところへ通されます。
「この子はうちの宿で働いていたんです」
帳簿を机へ置きます。
「宿帳もあります」
さらに別の紙も並べました。
「可能であれば、主人も証言できます」
役人は黙って書類を確認します。
一枚、また一枚。淡々と。
まるで機械のようでした。
しばらくして。 役人はようやく口を開きます。
「滞在記録は確認できた」
役人は帳簿を一枚めくります。
「問題は身元の確認だ」
さらに宿帳へ目を落としました。
「通常、宿泊施設が身元不明者を雇用することは望ましくない」
「トラブル発生時の責任所在が曖昧になる」
「納税記録も追跡しづらい」
「逃亡された場合の所在確認も困難だ」
私は難しくて何を言っているのかよくわかりません。
エリーゼさんが眉をひそめます。
「じゃあ違反だって言うのかい」
「いや」
役人は首を振りました。
「雇用契約の成立自体に身分証は必須ではない」
「必要なのは雇用主が責任を負える状態であることだ」
帳簿を軽く叩きます。
「宿帳が残されている」
「勤務記録もある」
「滞在履歴も確認できる」
「この件に関しても納税記録がある」
「加えて雇用主本人が証言できる」
少し考えるように沈黙します。
「身元不明者ではある」
「だが所在不明者ではない」
「記録が存在する以上、管理不能状態とは言えない」
そして結論を告げます。
「よって現時点で違法と判断する根拠は見当たらない」
「不法入国の疑いについては一時保留とする」
そう言って新しい書類を書き始めます。
「拘束は解除する」
私はよくわからないまま、とりあえず牢屋からは出ていいのだろうと、頭を下げました。
「ありがとうございます」
けれど役人は頷きもしません。 ただ次の書類へ手を伸ばします。
私は少し迷ってから言いました。
「それで、盗まれた手帳についてですが」
役人の手が止まります。
「盗難届を出したいのです」
短い沈黙。
役人は私を見ました。
そして、
「できない」
そう言いました。
私は首を傾げます。
「どうしてですか?」
「所有者の確認ができない」
エリーゼさんの眉がぴくりと動きました。
「この子の物だよ」
「証明ができないということだ」
役人は即答します。
「本人の戸籍が存在しない」
「身分証も無い」
「所有権を証明する記録も無い」
淡々とした声でした。
「よって正式な盗難届は受理できない」
私は黙ります。
言っている意味は分かりました。
役人は私を信じていない訳ではありません。
ただ。 証明できないのです。
制度の上では私は存在しない人間だから。
エリーゼさんは納得していない顔でした。
「そんなの」
言いかけて止まります。
反論できる材料が無かったからです。
役人は続けます。
「以上だ」
それだけでした。
私は書類を見つめます。
牢からは出られました。
けれど、手帳への手掛かりは何もありません。
役所を出た時、私は少しだけ肩を落としていました。
「ごめんなさいね」
エリーゼさんが言います。
「私じゃこれ以上どうにもならないわ」
私は首を振りました。
「いいえ」
そして小さく笑います。
「出してもらえただけでも十分です」
そう答えたものの胸の奥には、薄い不安が残り続けていたのでした。
**************************
一方その頃、ミアは下町を歩き回っていた。
手帳を失った時のフィリアの顔が忘れられなかった。
あの子は滅多に取り乱さない。困っても慌てない。牢屋へ入れられても怒らない。
そんな子だった。
なのに、手帳が無くなったと言った時だけは違った。
本当に困っていた。
大事なものを失った人の顔だった。
だから探していた。
市場。
裏路地。
中古商。
質屋。
片っ端から聞いて回る。
「変わった革の手帳を持っている奴を見なかった?」
いい返事はない。
時間だけが過ぎていく。
もしかしたら、もう売られてしまったのかもしれない。捨てられてしまったのかもしれない。
諦めかけた時だった。
人混みの向こうの石段に。
見覚えのある手帳を持つ男が見えた。
「あっ」
ミアは目を見開く。
間違いない。
あの手帳だ。
男は薄汚れた上着を着ていた。
痩せた体。
落ち着きのない目。
手帳をぱらぱらとめくっている。
ミアは駆け出した。
「ちょっと!」
男が振り返る。
そして、逃げた。
「待ちなさい!」
人混みを掻き分ける。
男は路地へ飛び込んだ。
だが、今日は一人ではない。
用心棒がいた。
女2人で来ていたところにガストンが心配して用心棒を雇っていたのだ。
逃げ道を塞がれる。
男は舌打ちした。
「返しなさい!」
ミアが叫ぶ。
「それ、あんたのじゃないでしょ!」
男は鼻で笑った。
「だったら何だ」
「盗んだんでしょ!」
「だから?」
あまりにも開き直った返答だった。
ミアの拳が震える。
本気で殴りたかった。
でも、フィリアの顔が浮かぶ。
あの子なら、どうするだろう。
たぶん怒らない。
困ったように笑うだけだ。
ミアは大きく息を吐いた。
「最低」
それだけを言う。
男は肩を竦めた。
「こんなのいらねぇよ」
そう言って手帳をミアに投げつける。
ミアは慌てて受け止めた。
男はそのまま去っていく。
用心棒が追おうとする。
だがミアは首を振った。
「いい」
手帳を確認する。
ちゃんとある。
破られていない。
無事だ。
ミアは少しだけ安心した。
「もう二度と目の前に現れるんじゃないよ」
去っていく背中へ向かって呟く。
男は振り返らなかった。
ミアは手帳の表紙を撫でた。
本当に、こんな物の何が大切なのだろう。
そう思う。
けれどフィリアの顔を見れば分かる。
きっと、とても大切なものなのだ。
だから、中身についてはフィリアにまた聞こう。
ミアは手帳を大事そうに抱えながら役所へ向かって走り出した。
**************************
役所を出るとちょうどミアが私の手帳を持って走ってきました。
夕方の光が石畳を照らしていました。
私は手帳を受け取り、胸へ抱えます。
何度も、何度も、失っていないことを確かめるように。
「そんなに大事だったの?」
ミアさんが尋ねました。 私は頷きます。
「はい」
短く答えます。
けれど、それだけでは足りない気がしました。
エリーゼさんも静かに私を見ていました。
「フィリア」
ミアの優しい声です。
「無理に聞かないけど」
少しだけ言い淀みます。
「あの時の話」
「本当に思い出せないの?」
私は言い淀みます。
どう説明すれば良いのでしょう。
私自身も、全部を理解している訳ではありません。
けれど、この人達になら話してもいい気がしました。
「えっと」
私は言葉を探します。
「たぶん私」
胸元へ手を当てました。
「人を助けると」
少しだけ視線を落とします。
「その人のことを忘れてしまうんです」
沈黙。
ミアさんが瞬きをしました。
「え?」
当然です。 私だって最初は信じられませんでした。
「助けるって?」
「病気を治したり」
「怪我を治したりです」
二人は黙っていました。
私は続けます。
「代わりに」
「顔を忘れて」
「名前を忘れて」
「思い出も消えていきます」
胸が少し痛みました。
「だから」
手帳を見つめます。
「残しているのです」
「忘れてしまう前に」
ミアさんは言葉を失っていました。
エリーゼさんも黙っています。
しばらくしてミアさんがぽつりと言いました。
「だから、私達のことも覚えてないんだ……」
「……はい」
私は素直に頷きました。
「ごめんなさい」
ミアさんは少し俯きます。
けれど。 怒りませんでした。
「変な謝り方だなあ」
苦笑します。
「フィリアが悪い訳じゃないじゃん」
私は返事ができませんでした。
エリーゼさんは静かに私の頭へ手を置きます。
「大変だったのね」
それだけでした。
可哀想とも、おかしいとも、言いません。
ただ。
大変だったのね。
そう言いました。
それが何故だか、胸に沁みました。
「でも」
ミアさんが言います。
「じゃあ今度は忘れても大丈夫だよ」
私は顔を上げます。
「え?」
「だって」
ミアさんは笑いました。
「また会ったら、また自己紹介して、また覚えればいいじゃん」
私は思わず目を瞬きました。
そんな簡単なことを、今まで考えたことがありませんでした。
忘れたら終わり。
そう思っていたから。
「そうですね」
私は少しだけ笑います。
「その時は、またお願いします」
「任せなさい」
ミアさんは胸を張りました。
その言葉が、不思議なくらい頼もしく、嬉しかったのです。
「さて」
エリーゼさんが言います。
「こっちは買い出しも済ませて早く帰らないと、あの人も心配して来そうだし」
「フィリアも大丈夫?」
私は頷きました。
「はい、これ以上世話になるわけにもいきませんから」
問題が全て解決したわけではありません。
戸籍もありません。
身元も証明できません。
けれど、牢からは出られました。
手帳も戻ってきました。
今はそれで十分でした。
ミアさんが腕を組みます。
「今度は盗まれないようにね」
私は胸元の手帳を抱えました。
「気を付けます」
「本当に?」
「たぶん」
「不安なんだけど」
思わず三人で笑ってしまいました。
エリーゼさんはそんな私達を見て微笑みます。
「また何かあったら頼りなさい」
「ガストンにもそう伝えておくから」
私は目を瞬きました。
「ありがとうございます」
本当に、そう思いました。
ミアさんは小さく手を振ります。
「私もフィリアのこと、書いて覚えておくよ」
「今度会ったら」
少しだけ意地悪そうに笑いました。
「また自己紹介してあげる」
私は思わず笑います。
「その時はお願いします」
「忘れてても怒らないから」
「ありがとうございます」
「私が忘れてても怒らないでね」
私は少し、吹き出してしまいました。
それが私達の別れでした。
二人の背中が少しずつ遠ざかっていきます。
私はしばらく見送っていました。
二人が見えなくなった後、広場のベンチへ腰掛けました。
それから胸元の手帳を取り出します。
ページを開きます。
『吹雪の宿屋』
その文字の下へ、静かに書き足しました。
『再会した』
少し考えます。
そして、さらに続けました。
『エリーゼさんは変わらず優しかった』
『ミアさんは変わらず元気だった』
書きながら、私は少しだけ笑いました。
不思議です。
顔は思い出せなかったのに、また会えました。
忘れてしまったのに、もう一度名前を教えてもらえました。
私はペンを置きます。
そして最後に、小さく一行を書き足しました。
『また会える気がする』
その文字を見つめながら私は少しだけ空を見上げたのでした。
ミアさん達と別れた後、私は近くの宿を訪ねました。もう夕方です。
今日中に泊まる場所を見つけたかったのです。
「一泊お願いできますか」
宿の主人は頷いて、
「身分証明書は?」
私は小さく首を横に振りました。
「ありません」
主人は困った顔になります。
「悪いな」
「ここじゃ無理だ」
私は頭を下げました。
「そうですか」
一軒目でした。
二軒目も。
三軒目も。
結果は同じでした。
「例の役人がうるさいんだ」
「見つかったら営業停止になりかねん」
「悪く思わんでくれ」
誰も意地悪をしている訳ではありません。
それが分かるから、余計に困りました。
私は大通りを歩きます。
空は少しずつ暗くなっていました。
どうしましょう。
宿に泊まれません。
身元も証明できません。
私は少し考えました。
そして公園を見つけます。
広い芝生、木々、石造りのベンチ。
「ここなら」
小さく呟きます。
雨は降っていません。
春です。
少し肌寒いですが。 死ぬほどではありません。
私はベンチへ腰を下ろし横になろうとました。
その時です。
「おい」
声が掛かりました。
夜警でした。
「こんな所で何をしている」
私は正直に答えます。
「泊まる場所が無いので」
夜警は眉間を押さえました。
「そういうことじゃない」
ため息を吐きます。
「ここで寝るのは禁止だ」
私は瞬きをしました。
「そうなのですか」
「そうなんだ」
夜警も困っていました。
「すまないが、町の外に出てくれ」
私はしばらく黙ります。
それから立ち上がりました。
「分かりました」
町の門を抜けます。
背後には城壁。
前には暗い野原。
私は立ち止まりました。
どうしましょう。
怒ってはいません。
誰も間違ったことを言っていないからです。
役人も、宿屋も、夜警も。
皆決まりを守っているだけでした。
だから怒れません。
けれど。とても、困りました。
とても。
私は空を見上げます。
春の夜空でした。
「どうすれば良いのでしょう」
返事はありません。
だから今のフィリアは、ただ静かに町の灯りを見つめることしかできなかったのでした。




