第四話「花畑の老人」
吹雪のあの家を出てから、さらに数日が過ぎていました。
私は雪解けの始まった街道を歩いています。
冬はまだ終わっていません。
けれど以前ほど寒くはありませんでした。
道端の雪は小さくなり、木々の枝先には新しい芽も見え初めています。
春が近いのでしょう。
私は空を見上げました。
青い空が見えています。
「春ですね」
小さく呟きます。
返事はありません。
けれど最近は慣れてきました。
ふと、手帳を取り出しました。
『春を待つ少女』
字を目で追って行きます。
『春を迎えられそう』
『お父さんに会えますように』
彼女はそろそろ、春を迎えられるのでしょうか。お父さんに会えるのでしょうか。
名前も、顔も忘れてしまったあなた。
私は少し、目を閉じて祈りました。
そして、私は少しだけ微笑みながら、また歩き出しました。
きっと大丈夫だと、それだけ信じて。
昼頃。
遠くに村が見えました。
山あいの小さな村です。
大きくはありません。
木造の家が十数軒ほど並んでいます。
今日はここで休ませてもらえるかもしれません。
そう思いながら歩いていた時でした。
ふと、甘い香りがしました。
私は立ち止まり、周囲を見回します。
道端の雪。
白い畑。
白い木々。
それしかありません。
ですが、確かに香った気がしました。
私は香りを辿って歩いていきます。
村外れでした。
そこだけ雪が少なく、整理されていました。
さらに近付いて、私は目を丸くしました。
「お花……」
花畑でした。
まだ冬も明けていません。
それなのに。
赤。
黄。
白。
桃。
色とりどりの花が風に揺れていました。
私は思わず、近づきました。
どうして咲いているのでしょう。
もう、春だからでしょうか。
いえ、やはりまだ少し早い気がします。
ところどころ、咲いていないような。まだ半分ほどしか咲いていません。
それでも雪と花が混じりあう、不思議な光景でした。
「失礼」後ろから声がしました。
私は飛び上がります。
振り返りました。
そこには一人の老人が立っています。
籠を抱えていました。
七十歳くらいでしょうか。
髪は白く。
背筋は少し曲がっています。
けれど不思議と姿勢の良い人でした。
「花を踏まないでいただけると助かります」
穏やかな声でした。
怒っている訳ではなさそうです。
私は慌てて下がりました。
「すみません」
老人は少しだけ笑いました。
「いえ」
それから花畑を見ます。
「この子たちは案外繊細でしてね」
まるで誰かを紹介するような口調でした。
「花は弱い」
そう言って、少しだけ空を見上げます。
「人間より、ずっと弱い」
私は頷きました。
たぶんそうなのでしょう。
「ですが」
風が吹きます。
花々が揺れました。
「毎年きちんと春を連れてきてくれる」
その言葉は。
どこか誇らしげでした。
「そこに力強さを感じるのです」
弱いはずなのに強い。
不思議な言葉でした。
けれど、不思議と納得できる言葉だったのです。
「綺麗ですね」
私が言うと、老人は少し嬉しそうに笑います。
「そうでしょう」
どこか自慢気でした。
私は少しだけ楽しくなりました。
「あの」
私は尋ねます。
「このお花は、あなたが育てているんですか?」
老人は首を振りました。
「いいえ」
花畑を見ます。
「私はただ彼らが咲こうとしているのを助けているだけですよ」
私は続けます。
「このお花は、誰かに見せようと思って、育てているんですか?」
老人は首を傾け少し考える素振りを見せました。
そして、答えます。
「それも、違います。」
花畑を見ます。
「私がただ、見たいからです」
私は瞬きをしました。
「それだけですか?」
老人は笑います。
「それだけです」
そして、花畑の中央に咲く白い花を見つめました。
「妻も好きだったんですよ」
私は黙ります。
それだけで少し分かりました。
この花畑には、この老人と誰かとの思い出があるのでしょう。
老人は空を見上げます。
「妻が、毎年植えていたんです」
小さく笑いました。
「私はずっと横で見ているだけでしたが」
楽しそうな声でした。
「だから今は、私の番です」
私はその横顔を見つめます。
不思議な人だと思いました。
この人は、春を待っている人ではありません。
もう春を知っている人のように見えたのです。
そこから、泊まるのなら村長の家に行くといいと老人に言われて。
その道中。
私は考えていました。
あの老人のことです。
あの人はきっと長くありません。
春を、花畑の満開を迎えられるかどうかわかりません。
死の気配のような、そんな雰囲気が漂っていました。
なんとなく直観で分かってしまいました。
そして、助けられるかもしれないと思いました。
胸元の手帳へ触れます。
薄い革表紙。
何度も開いたものです。
私は立ち止まりました。
そして、少しだけ怖くなりました。
もし、本当に誰かを助けられるのだとしたら。
私は何処まで助けるべきなのでしょう。
誰かが病気なら助ける。
誰かが困っているなら助ける。
誰かが死ぬなら助ける。
では。
その次は。
私は何を捨てればいいのでしょう。
一人を助けるために。
十人を助けるために。
百人を助けるために。
私は何を失えばいいのでしょう。
どうせ忘れるのです。
顔も、名前も、思い出も。
全て。
それなら私は。
全てを投げ打って奉仕するべきなのでしょうか。
それが正しいことなのでしょうか。
私は答えを知りません。
女神様なら知っているのでしょうか。
けれど。
あの人はきっと教えてくれません。
だから私は。
自分で考えるしかありませんでした。
「あの人……?」
不意に言葉が零れます。
あの人とは誰のことなのでしょう。
分かりません。
思い出せません。
けれど。
なぜだか。
少しだけ納得がいかなかったのです。
村長の家は村の中央にありました。
大きな家ではありません。
けれど、この村では一番堅実な建物に見えます。
私は老人に言われた通り扉を叩きました。
しばらくして、白髪の男性が出てきます。
話をすると、快く泊めてくれました。
私は深く頭を下げました。
夕食の席。
村長さんと向かい合いながら食事を頂いていました。
温かなスープです。
冷えた身体に染み渡ります。
私はふと尋ねました。
「村外れのお花畑を管理されている方を知っていますか?」
村長さんは少し驚いた顔をしました。
それから納得したように頷きます。
「ああ」
小さく笑いました。
「オスカーさんじゃな」
どうやら有名な方らしいです。
「毎日お花の世話をしておられますのですか」
私が言うと。
村長さんは苦笑しました。
「毎日どころではないよ」
そう言ってスープを飲みます。
「雨の日も」
「吹雪の日も」
「熱を出した日もじゃ」
私は思わず手を止めました。
「熱があってもですか?」
村長さんは頷きます。
「止めても聞かんのじゃ」
どこか困ったような顔でした。
けれどその表情には親しみも混じっていました。
「奥さんが亡くなってからは特にな」
私は静かに耳を傾けます。
「奥さんは花が好きな人じゃった」
村長さんは懐かしそうに窓の外を見ました。
「春になる度に畑を花だらけにしてな」
「村の子ども達を呼んでは一緒に植えとった」
少し笑います。
「今の花畑も元はあの人が作ったものじゃ」
私は花畑を思い出しました。
風に揺れる花。
穏やかに微笑む老人。
「仲が良かったんですね」
村長さんはすぐには答えませんでした。
しばらくして、ゆっくり頷きます。
「良すぎたんじゃろうな」
小さな声でした。
「奥さんが亡くなった時は心配した」
私は村長さんを見ます。
「立ち直れなかったんですか?」
村長さんは首を振りました。
「逆じゃ」
そう言って、思い出すかのように目を瞑ります。
「泣きもせんかった」
私は言葉を失いました。
「葬式の日も」
「その次の日も」
「花畑へ行った」
静かな夜でした。
暖炉の火だけが揺れています。
「わしらは怖かったよ」
村長さんが呟きます。
「いつかあの人も後を追うんじゃないかと思ってな」
私は胸が少し痛みました。
「ですが」
村長さんは続けます。
「オスカーさんは残った」
「花の世話をした」
「次の春も迎えた」
「その次の春も迎えた」
そして、穏やかに笑いました。
「そうしているうちに、今度はわしらの方が励まされとった」
私は黙ったまま聞いていました。
「奥さんがおらんくなっても」
「寂しくても」
「悲しくても」
村長さんは窓の外を見ます。
「それでも必ず春は来る」
静かな声でした。
「オスカーさんは、それをわしらに教えてくれたんじゃ」
私は胸元の手帳へ触れました。
薄い革表紙。
何度も開いたものです。
必ず春は来る。
その言葉が。
不思議なくらい重く感じました。
「ですが」
私は迷いながら尋ねます。
「オスカーさんのお身体は……」
村長さんの表情が少し曇りました。
「良くない」
短い言葉でした。
「本人も知っとる」
暖炉が小さく音を立てます。
「皆知っとる」
私は俯きました。
「それでも」
村長さんは笑います。
どこか諦めにも似ている、けれど穏やかな笑顔でした。
「本人が受け入れとるからな」
私は返事ができません。
受け入れている。
その言葉だけが。
ずっと胸の中へ残っていたのでした。
それから数日。
私は村長さんへお願いして、この村に滞在することにしました。
毎日花畑へ行くと、オスカーさんはそこにいました。
花がうまく咲く方法。
肥料の撒き方。
土との付き合い方。
そして。
花の楽しみ方。
様々なことを教えてもらいました。
オスカーさんはお話が上手な方でした。
妻との思い出。
若い頃の失敗。
村の子ども達との話。
どれも面白くて、気付けば私は毎日花畑へ通うようになっていたのです。
しかし、ある日。
オスカーさんは来ませんでした。
花畑へ着いても、いつもの籠はありません。
椅子と花だけが風に揺れています。
私は少し待ちました。
けれど来ません。
もう少し待ちました。
それでも来ません。
胸騒ぎがしました。
私は戻り、村長さんを訪ねました。
「オスカーさんは……」
村長さんは少しだけ目を伏せます。
「わしもさっき聞いたが」
小さく息を吐きました。
「朝から寝込んどる」
私は黙りました。
やはり、そうなのだと思いました。
「会いに行っても良いですか」
村長さんは私を見ます。
そして静かに頷きました。
「花畑の奥じゃ」
私は深く頭を下げます。
そしてオスカーさんの家へ向かいました。
家の扉を叩くと、「入っていいですよ」とオスカーさんの声がしました。
「おや」
オスカーさんはベッドの上に横になっていました。
顔色は昨日よりも良くありません。
けれど、穏やかに笑っています。
「旅人さん」
私はほっとしました。
「どうしました?」
私は少し迷います。
そして胸元の手帳をそっとなぞりました。
「奥様と花畑の話を、詳しく聞かせてください」
オスカーさんは少し驚いたようでした。
それから、嬉しそうに笑います。
「長い話になりますよ」
「はい」
少しの沈黙。
まるで遠い昔を探しているみたいでした。
やがて、穏やかに口を開きます。
「初めて会ったのは春でした」
窓の外を見ました。
花畑の向こう。
夕日が差し込んでいます。
「私は若い頃、木こりをしておりましてね」
少しだけ笑います。
「花なんて全く興味がありませんでした」
意外でした。
今のオスカーさんからは想像できません。
「ある日、仕事帰りに道端で泣いている女性がおりまして」
「奥様ですか?」
「ええ」
静かに頷きました。
「大事に育てていた花を鹿に全部食べられたそうです」
私は思わず目を瞬かせます。
「それは……」
「本人は大真面目でしたよ」
オスカーさんは可笑しそうに笑いました。
「私はまた植えればいいじゃないかと言ったんです」
「怒られたんですか?」
「ええ。とても」
私も少しだけ笑ってしまいました。
「花を育てる苦労も知らないくせに、と」
暖炉の火が揺れます。
「その通りでした」
オスカーさんは懐かしそうに目を細めました。
「ですから、一緒に植え直したんです」
それが始まりだったそうです。
春には花を植えて。
夏には一緒に水をやって。
秋には並んで花を眺めて。
冬には次の春の話をする。
そんな日々を。
何十年も繰り返したのだと。
「喧嘩もしましたよ」
オスカーさんは笑います。
「私が植える場所を勝手に変えたら三日ほど口をきいてもらえませんでした」
「三日もですか」
「三日です」
けれど。
その顔は楽しそうでした。
「仲直りはどうされたんですか?」
私が尋ねると、オスカーさんは少し考えます。
「花を贈りました」
「お花を?」
「ええ」
小さく肩を竦めました。
「結局、花なんです」
私は思わず笑ってしまいました。
オスカーさんも笑っていました。
しばらくして笑い声が静まると、オスカーさんは花畑の方へ視線を向けました。
「不思議ですね」
ぽつりと言います。
「昔のことは少しずつ忘れていく」
声は穏やかでした。
「昨日の夕飯だって曖昧です」
私は黙って聞きます。
「けれど」
オスカーさんは微笑みました。
「花を見ている彼女の顔と話だけは、今でも思い出せる」
その言葉はとても優しく、とても温かく聞こえました。
「奥様はどんな方だったんですか?」
私は尋ねました。
オスカーさんは少しだけ考えます。
そして、困ったように笑いました。
「そうですね」
暖炉が小さく音を立てます。
「春のような人でした」
曖昧な答えでした。
けれど。
不思議と分かる気がしました。
春になると花が咲くように。
そこにいるだけで周りを明るくする人だったのでしょう。
窓の外では花が揺れています。
オスカーさんはそちらを見ながら言いました。
「だから私は今まで世話をしてきました」
私は静かに耳を傾けます。
「花のためというより」
少し笑いました。
「約束のためですかね」
「約束?」
「はい」
オスカーさんは頷きました。
「来年も一緒に花を見ようと」
そう言って、少しだけ空を見上げます。
「結局、一人になってしまいましたが」
その言葉に悲しさはありませんでした。
ただ、長い人生を振り返る人の穏やかさだけがありました。
「ですが」
オスカーさんは花畑へ視線を戻します。
「春はちゃんと来てくれますよ」
風が吹きました。もうそろそろ満開です。
咲かけの花々が揺れています。
「それで十分なんですよ」
私は何も言えませんでした。
それが、あまりにも幸せそうな顔だったからです。
オスカーさんは何度も笑いました。
奥様の話をする時だけ、少しだけ若くなるのです。
気付けば夕方でした。
窓から柔らかな光が差し込みます。
「楽しかったです」
私がそう言うと。
オスカーさんは静かに頷きました。
「私もですよ」
少しの沈黙。
「旅人さん」
オスカーさんが言いました。
「花は不思議なんです」
私は耳を傾けます。
「咲く時は全力で咲く」
窓の外を見ました。
「だから綺麗なんでしょうな」
私は返事ができませんでした。
「人も同じなのかもしれません」
穏やかな声でした。
私は手帳へ触れます。
開きませんでした。
最後まで、開くことはありませんでした。
帰り際、オスカーさんは花畑を見つめて言います。
「今年も綺麗でしょう」
私は頷きました。
「はい」
オスカーさんは満足そうに笑いました。
「よかった」
ただ、それだけでした。
翌朝、私はいつもの時間に目を覚ましました。
居候の村長さんの家を出て花畑へ行こうとした時。
村長さんがこちらへ歩いてきます。
どこか静かな顔でした。
私は何も聞きませんでした。
聞かなくても、分かってしまったからです。
村長さんは立ち止まります。
「今朝の早くことじゃ」
私は目を伏せました。
「……そうですか」
風が吹きます。
春の匂いがしました。
「眠るようじゃった」
村長さんは空を見上げます。
「最後まで穏やかな顔だったそうじゃ」
私は静かに頷きました。
しばらくして、村長さんが言います。
「葬式は明日じゃ」
「参列していくかい?」
私は少しだけ考えました。
「……はい」
翌日、村中の人が集まりました。
大きな葬儀ではありません。
けれど、温かな葬儀でした。
誰もがオスカーさんの話をしています。
笑いながら。
泣きながら。
やがて。
葬列が静かに進みます。
その途中でした。
誰かが立ち止まります。
私も顔を上げました。
花畑です。
村外れの花畑。
オスカーさんが毎日通った場所。
最初に見た時。
花はまだ半分しか咲いていませんでした。
今は違います。
赤。
黄。
白。
桃。
すべての花々が一面に咲いていました。
満開でした。
春の風が吹きます。
色とりどりの花が揺れます。
誰も言葉を発しません。
ただ、見ていました。
気付けば、村長さんが泣いていました。
子ども達も。
大人達も。
皆。
泣いていました。
その時でした。
「私」
一人の少女が言いました。
「この花畑、守ろうと思う」
小さな声でした。
けれど、誰よりも真っ直ぐな声でした。
「オスカーおじいちゃんに花の名前を教えてもらったから」
沈黙が流れます。
そして。
「なら俺も手伝う」
誰かが言いました。
「肥料運びくらいならできるぞ」
「雑草取りなら任せて」
「来年も咲かせないとな」
少しずつ、声が増えていきます。
気付けば、皆が来年の春の話をしていました。
オスカーさんはもういません。
それでも、オスカーさんが残したものは確かにここにありました。
私は胸元から手帳を取り出します。
『花畑の老人 オスカー』
静かに書きます。
そして、もう一行。
『春は来ました』
ぽたり、と。
涙が紙へ落ちました。
けれど、悲しいからではありません。
助けられなかったからでもありません。
私は、感謝しているのです。
花を好きになれたこと。
春を好きになれたこと。
そして、受け入れることを教えてもらったことに。
私は満開の花畑へ向かって頭を下げました。
「ありがとうございました」
春の風が吹きます。
花々が大きく揺れました。
私は少しだけ微笑みます。
それから手帳を閉じて。
皆と視線を交わしながら。
再び旅へ出たのでした。




